hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

サンシャイン〜護国寺駅付近の坂巡り③

2024-11-06 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その224。雑司ヶ谷の南坂をそのまま上ると旧宣教師館通りと書いたレンガ通りが現れる。



そのまままっすぐ行くと『雑司ヶ谷旧宣教師館』と書いた古い洋館が現れる。これは1907年にアメリカ人宣教師マッケーレブが自らの居宅として建設したもので1941年に彼が帰国するまで生活していた。今は豊島区有形文化財として保存されている。



元の道まで戻り、坂を下りると左に向かう道に出る。これを5分ほど歩いてようやく不忍通りまで戻る。不忍通りは先ほど私が渡ったあたりから首都高護国寺ランプあたりまでが緩い坂道となっているが、これが『小篠坂(こざささか)』である。





説明板によると『江戸時代に御鷹場から坂下の本浄寺に下る道として開かれたものだが、笹が多く生えていたため、この名前となった』とある。



小篠坂の先、友成第二医院というクリニックの先を左に曲がると文京区立青柳小学校への坂道となる。この坂には『希望の坂』という名前がつけられている。



これは首都高速道路建設により1960年に今の場所に移転、その際に子供たちが楽しく学べる通学路であり、希望に満ちた将来を願ってこの名前が付けられたとのことである。





護国寺の前を通り、まっすぐ行くと大塚三丁目の交差点に向かって不忍通りは坂道となっている。この坂道は『富士見坂』と名付けられてある。富士見坂や塩見坂(潮見坂)は東京にたくさんあるが、ここの坂上からは天気の良い朝には本当に富士山を臨むことができる数少ない坂道である。

サンシャイン〜護国寺駅の坂巡り②

2024-10-26 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その223。不忍通りを渡り、雑司ヶ谷墓地の脇の道を歩く。

細くくねくねと曲がっていて方向感覚が狂う。墓地の中は碁盤の目のようになっているにも関わらず、なぜか周囲の道は農道のように曲がっている。高校生の頃に友人のKくんの下宿がこの辺りにあり、道に迷って往生したことを思い出した。

当時は携帯電話もスマホもなく、今自分のいる位置が判らずぐるぐる回っているうちに都電の雑司ヶ谷電停に出て、そこまで迎えにきてもらったことを思い出した。この坂巡りもスマホで地図を見ながら歩けるからこそできるのである。

雑司ヶ谷霊園は1874年に開設した歴史のある公営墓地であり、それ以前は御用地。3代将軍家光は薬草を栽培する御薬園、8代将軍吉宗は鷹狩の鷹を飼育する御鷹部屋として使われていた。歩いていた道も『御鷹方御組屋敷道』として使われていたという説明板もあった。しばらく歩くと左に管理事務所に向かう道が出てくる。 



墓地の中の道はまっすぐでわかりやすい。中央通りと付けられた道を歩き、いちょう通りを左に。確かにこの通りにはいちょうが植えられていて、少し葉も黄色くなり始めていた。



この辺りに夏目漱石の墓があるはずだが、判らず歩いていると竹久夢二の墓を発見。『竹久夢二を埋む』とのみ彫ってある墓碑が印象的であった。



少し戻り、雑司ヶ谷墓地南側に出て右に曲がる。すぐのところから下り坂となっていて右手に清立院というお寺が現れるが、この坂道が『清立院坂』である。このお寺は雑司ヶ谷七福神の毘沙門天が祀られている。

坂を下りて四つ辻を左に歩く。道が台地の下にあるため、薄暗い。さらに道も狭いため、4m道路の確保ができないためなのか、古い家が多い。しばらく歩くと左から下り、さらに右に下る道と交差する。この坂道が『南坂』である。



色々ネットを探したが、この坂道の由来はわからなかった。(以下、次回)


サンシャイン〜護国寺駅の坂巡り①

2024-10-20 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その222。今回は東池袋のサンシャインから雑司ヶ谷を通り、護国寺までの坂道を巡る。


サンシャインシティは中核の高層ビルサンシャイン60が竣工したのが1978年ですでに46年が経過している。だからサンシャインが東京拘置所、いわゆる巣鴨プリズンの後に建設されたことを知る人も少なくなってきているように思う。

サンシャインシティの裏手には首都高速道路東池袋ランプがある。その前の通称・坂下通りを歩くと左側に東京国際大学の巨大な校舎が現れる。そのまままっすぐ行くと都電(サクラトラム)の踏切に至る。

池袋から大塚3丁目に抜ける便利な道なのだが、あまり混雑していない。左側にはこじんまりした銭湯がある。



その先の信号には『開運坂下』とある。ここから右手に登っていくののだが、説明板に『柔道創始者である嘉納治五郎の邸と道場が坂上北側にあり、彼が命名。開運坂道場と呼ばれた』という趣旨のことが書かれていた。



また、坂下には駐在所があるのだが、私が子供の頃にはここに大日本愛国党の党本部があり、街宣車が走っていたことを思い出す。ただ、彼も1990年に亡くなり、今は名残もない。



開運坂は坂下通りを直角に右に曲がり、坂上で左にクランクしている。その先は護国寺の境内の裏をまっすぐ歩く。



右手に小さく『福田稲荷』という石碑がある。直角に曲がると細い参道、石の鳥居の奥には赤い鳥居が3つ、さらに石の鳥居があり、奥に小さな祠が置かれている。



中にある石柱の一部には『宝暦十二壬年・・』とあるので1762年、つまり江戸時代のものであろう。ネットで調べると『元和』(1615〜1624年)頃に創設されたものらしい。

再び護国寺の境内裏の道を歩くと不忍通りに出る。これを渡ると雑司ヶ谷墓地が広がる。学生時代に友人の下宿があり、よく遊びに行ったのだが、その頃と雰囲気は変わっていなかった。(以下、次回)

自由が丘駅〜都立大学前駅付近の坂道②

2024-10-14 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その221。自由が丘付近の坂道2回目、睦坂を上って行くと目黒通りにぶつかるが、これを渡ってから左に行く。宮前小学校の方に右に折れると目の前にかなり先まで見通せる急な坂道が現れる。

この坂道が『しどめ坂』。しどめとは草ボケというバラ科の赤い棘のある木。この木が呑川の岸辺に群生したことから付いた名前である。花は朱色に近い赤い花をつける。





坂の上の道を曲がり、校庭に沿って行くと、しどめ坂と並行する坂道が現れる。この坂道もかなり遠くまで見通すことができる。坂道自体は2車線と細いため、余計にその勾配が強調される。



これが『太鼓坂』、由来は①この坂道の斜面が太鼓のような形をしていたから、②急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたため、という説がある。案内板は小学校の壁に貼られているが、親切にもそばの坂道の地図もついていた。

再び目黒通りに戻り、左に曲がる。自由が丘通りを越え、次の道を左に行くと細いくの字に曲がった緩い坂が出てくるが、これが『氷川坂』。



由来はこの先に氷川神社があるため付いたなまえである。



そのまままっすぐ行くと八雲氷川神社の参道になる。由来はわからないが、文書などによると少なくとも江戸時代中期にはあったと思われる。参道も長く、ようやく本殿に到着。お参りをした。






ここからは呑川沿いを歩きようやく都立大学前駅に到着することができた。








自由が丘駅〜都立大学駅の坂巡り①

2024-10-10 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その220。東急東横線自由が丘駅〜都立大学前駅の坂道を訪ねることにした。自由が丘駅は東横線のほぼ真ん中で大井町線との乗り換え駅、1927年に九品仏駅として開業。

(ハチ公前にあった旧5000系)

1929年に大井町線開業に伴い、九品仏の前に新たな駅(九品仏駅)を置いたため、自由ケ丘駅と改称した。(今は『自由が丘』の表記だが、当時は『自由ケ丘』)その後1966年に自由が丘駅に改称されて今に至る。
それにしても昭和初期に命名された駅名としてはかなり思い切った名前のように感じる。名前の由来は地元にできた自由が丘学園に因んだもので、当時の文化人が先頭になり付けた名前なのである。(それ以前は碑衾町)第二次大戦時には憲兵隊から自由を冠した地名を改めるように求められたが、地元住民はこれに応じなかった歴史がある。
(女神像)

駅を降りると駅前にロータリーがあるが、これを右に曲がる。(車は逆の一方通行)しかし、かなり細い道で向かいからは東急の路線バスが次々とやってくる。次の交差点を左に曲がるとオシャレなお店が並ぶ通りとなる。

(おしゃれなラーメン屋さん)

オシャレなラーメン屋を右に曲がると現れた坂道が『谷畑坂(やばたさか)』である。名前の由来は案内板に『旧碑衾町の字であった谷畑にあった坂道があること』と書いてあった。



少し古くからあるお屋敷町だが、この坂道を上り切り、右に曲がる。途中には自由が丘の名前の由来となった自由が丘学園高校、今は男女共学となっている。



その先はかなりわかりにくいが、駅から来る道の自由通りを左に曲がると『睦坂(むつみさか)』となる。睦坂は昭和初期に耕地整理により新たにできた道で住んでいる人々の親睦を願って付けられた名前である。(以下次回)

下丸子駅から沼部駅あたりの坂道③

2024-10-05 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その219。一駅電車に乗り、東急多摩川線沼部駅で降りる。駅前は道が細い上に踏切を渡るとすぐに二叉路となっているため、渋滞している。



その間をすり抜けると駅前に立派な東光院というお寺がある。その先右側に曲がると長く、割に急な坂がある。



これが『おいと坂』、おいとを漢字にすると『雄井戸』となる。昔、坂の下に井戸があり、これが雄井戸。西側に雌井戸と共に人々に親しまれてきたので付いた名前とのこと。

坂を降りて元の道を右に上がって行くと、『さくら坂』という信号が現れる。この通りは旧中原街道、切り通しで昔は沼部の大坂と呼ばれていた。





福山雅治のヒット曲でいちやく有名になったのだが、両側に植えられたソメイヨシノが見事で坂の上にかかる桜橋からの眺めが素晴らしい。

(2015.4.5訪問時)


ただ、桜のシーズンは大変混雑していて週末にはゆったりと見るのは難しいほどである。葉桜の今の季節も眺めはなかなか良い。



駅まで戻り、さらに少し行くと多摩川の河原に出ることができる。左側には新幹線の架橋、右側には東急線や丸子橋など。野球場があるが、雨の平日は静かなものである。



川の方に歩くと説明板があり、『丸子の渡しの跡』とある。中世以来の渡場で江戸時代には中原街道が整備されたこともあり、大変な賑わいであった。1934年に丸子橋が開通すると役目を終え、1935年に廃止された。



そのまま川岸まで歩いたが、風もなく穏やかな日であったため、江戸時代は馬はそのまま渡り、人は荷物のみを船に乗せ、自らは歩いたというのが分かる気がした。



ちなみに丸子橋は長さが406mなので川幅はもう少し狭いのであろうか。再び沼部駅まで戻った。







下丸子駅から沼部駅あたりの坂道②

2024-10-03 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その218、『昭和の暮らし博物館』を出て、元の道を右に曲がるとすぐに鵜の木八幡神社の前に出る。小雨が降っているなか、ご近所さんだろうか、おばあさんが丁寧に参拝されていた。


この辺りには先程の博物館だけでなく、昔懐かしいアパートも点在、うち写メに撮った1軒はまだまだ健在のようである。



すぐ前の道が下り坂になっていて少し歩くと環八通りに出る。これを反対側に渡ると大きなお寺があった。増明院という智山派のお寺を左回りするように坂がある。




登り終えると今度は下り坂となるが、この坂道が『富士見坂』。細い坂で左右に曲がりながら進むと開けるが、マンションが林立していてとても富士山は見ることができない。



坂を降りると東急多摩川線鵜の木駅前に出る。これを右に曲がると公園に突き当たるが、右に上る坂道が現れた。

(この突き当たりを右に)

『河原坂』である。江戸時代はほぼ東急多摩川線あたりが多摩川であり、河原があったらしく地名も河原である。河原に向かう坂のため、河原坂と付けられたらしい。



坂の途中が鵜の木松山公園、ここは『鵜の木1丁目横穴墓群』という古墳であり、そのうちの6号墓のみが発掘後そのまま保存されている。

奈良時代の墓らしく、中には3人の人が埋葬されていた。案内板によるとほぼこの公園全体がお墓で1〜7号墓まである。


小さな公園だが、大きな桜の木があり、花見の頃には大勢の人が集まるだろう。



雨が止まないので隣の沼部駅までは東急多摩川線に乗ることにした。(以下、次回)


下丸子駅から沼部駅あたりの坂道①

2024-10-01 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その217。今回は東急多摩川線下丸子駅を降りて坂巡りをする。前回の坂巡りは7月24日だからかれこれ2ヶ月ぶり。というのも今年の夏の暑さで坂道を上ったり下りたりするのが辛かったからである。

実は下丸子駅には数週間前に降りて、飲みに行ったのだが、そう言えばこの辺りの坂道に行ったことがないことに気づき、再び下車した。

下丸子駅は日中は駅員のいない無人の駅、トイレは蒲田方面しかなく、地下通路もないため、多摩川方面の乗客は我慢するしかないらしい。駅を降りて踏切を渡ると右手に大田区民プラザ、その前を通過して行く。

ここで本来ならまっすぐ行くべきところを左に曲がり、道を間違えて多摩堤通りの方に行ってしまったのだが、光明寺の大きな池が邪魔になり、近道ができず、やむなく元まで戻り環八に出る。

交差点で向かいに渡り、少し左に行くと右に入る道に出てくる。これを行くと左側に藤森稲荷神社が出てくる。小さいが、立派な鳥居があり、お参りする。



その横を登って行くのが『ぬめり坂』、昔の鎌倉街道筋で緩やかな坂道である。案内板には『なだらかな坂だがぬめって上れなかった。



付近の豪家に美しい娘がいた。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んで坂に生き埋めになった。以来坂道の通行は容易になり、付近は繁盛した』とある。悲しい物語だが、この程度の坂でそこまでするかとは思ってしまう。ただ、昔は舗装技術もないのでやむを得ないことだったのかも知れない。





また、その先の二又の分かれ道のところに道祖神があり、道標となっている。正面には『(左側)矢口渡新田神社川崎(右側)池上本門寺大森)』、右側には『東てふふゑき久ヶ原五反田方面』、左側には『峯御嶽神社奥沢大岡山洗足池方面』とある。

道標を右手の方に行くと住宅地となる。案内板があり、右に行くと『昭和の暮らし博物館』とあるので立ち寄る。この博物館は昭和25年築の民家を昭和の家を残したいと個人が始めたもので小泉さんという女性が生まれ育った家を公開している。




内部は殆ど昭和がそのまま残されていて私のような世代には懐かしさの塊。特に2階の子供部屋は高校の時に訪ねた友人の下宿そのままみたい。

他に画家の吉井忠さんのアトリエなのか、絵の展示もあった。(以下、次回)

中目黒駅〜目黒駅の坂巡り③

2024-07-24 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その216。中目黒駅〜目黒駅の坂巡り③。新富士遺跡から次の坂を目指すが、なぜか再び、別所坂の上にある新富士遺跡に戻ってしまう。やむを得ずUターンし、気を取り直して歩く。

途中には馬頭観世音(石仏)が祀られていてこの道が江戸時代から続く古道であることを実感。しかし、この辺りの道は真っ直ぐではなく、勾配もあるので難しい。同じところをぐるぐる回ったのは初体験である。



坂を降りて広い道に出るが、ここにも道しるべがある。彫ってある字はよく読めないが、説明板には『中央に南無阿弥陀、右側にゆうてんじ道、左側に不動尊道(目黒不動尊)』と書かれていて1779年に作られたもの』と書かれていた。




パス通りを右折すると右側に防衛技術研究所の広大な土地がある。その脇をかなりの時間歩く。信号を右に曲がるとかなり広い道が出てきて下り坂となるが、これが『新茶屋坂』である。



かつては三田用水が上を通る茶屋坂隧道があった。しかし、1975年に三田用水は用済みとなり、廃止をされ、さらに2003年に道路拡幅のため姿を消した。



新茶屋坂から右に分かれていく道を歩き、二又を右、さらに真っ直ぐ降っていく坂道が『茶屋坂』である。





説明板にもあるが、『江戸時代は江戸から目黒に入る道の一つで大きな松が生えた芝原の中をくねくねと下る九十九折りの坂で富士の眺めのいいところであった。坂上に百姓彦四郎の開いた茶屋があり、将軍家光や吉宗が鷹狩りの際に都度立ち寄り休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、爺々と話しかけたので爺が茶屋と呼ばれ、広重の絵にも描かれている』と書かれる通り、彦四郎の茶屋があったのでこの名前がつけられた。また、落語『目黒のサンマ』はこんなエピソードから生まれたのであろう。



茶屋坂を下り、茶屋坂街かど公園を越え、真っ直ぐいくと目黒清掃工場の大きな煙突が出てくる。



目黒川が現れ、田道橋がかけられている。目黒区のコミニュティバスの愛称は『さんまバス』と名付けられている。



ここからは目黒川に沿って歩く。川沿いには桜が植えられていて花見の時期は大変な人で混み合うようだ。





目黒上橋まで歩き、目黒通りを左に曲がると権之助坂のバス停。道路は二又に分かれるが右側の逆一方通行の方が『権之助坂』である。権之助坂は田道付近に住んでいた菅沼権之助という名主に由来する。権之助は村人のために年貢を緩めて貰おうと訴えを申し出るが、捕まってしまい、死罪になる。刑場に向かう際に願いを聞かれ、我が家を見たいと言ったため、この坂(当時は新坂)の上から見て、喜んだ。村人たちは権之助の功績を讃えて最後に振り向いたこの坂を権之助坂と呼ぶようになったとのことである。



権之助坂を上がるともう目黒駅、しかし、坂や旧跡を訪ねながらの散策は2時間半かかった。







中目黒駅〜目黒駅周辺の坂道②

2024-07-14 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その215。中目黒〜目黒駅の坂道巡り②。新道坂と並行する旧道を歩く。この道は坂の塀に色々とカラフルなペイントがなされていて面白い。



坂を下ると目黒川日の出橋に出る。少し戻り、右に曲がり、駒沢通りの歩道橋を渡る。



左に少し行き、右に曲がると目黒学院の前に出る。この道をそのまま真っ直ぐ歩くと『この先階段あり、車の通り抜けはできません』という標識が現れる。この道をひたすら行くと最後は右に石段が出てくる。これが『別所坂』である。



別所坂の標識によると『この近くに別所という地名があったので別所坂と呼ばれるようになった。「別所」は新しく開いた土地のことを意味するが、目黒では突き当たりの場所、行き止まりのことを「べっしょ」といっていたことが地名になったともいう』と由来に関して書かれていた。





階段の下には庚申塔が6柱あるが、これは庚申講を信仰する人が建てたもので、豊作や長寿、家内安全を祈ると共に交流の場として集ったもので3年18回の集まりを終えると塔を建てた。この庚申塔は1665年〜1764年までに建てられたものである。



階段を登るとようやく一息つく。ここも眺めの良い場所であったため、江戸後期に千島探検をした近藤重蔵がミニ富士(築山)を作り、目切坂の元富士に対し、新富士と呼ばれて多くの見物人を集めたと言われる。



その遺構が平成3年に発掘され、新富士遺跡と言われている。なお、この新富士に関しては山を作った町人塚原半之助と近藤重蔵・富蔵(息子)とが諍いを起こし、殺傷事件(槍が崎事件)を起こしたという後日談もある。


この辺りは高台となっていて坂の上から真っ直ぐに歩くが、道がわかりづらく、近道と思い曲がるとさらにあらぬ方向に向かい、気がつくと元のところに戻るという体験をしてしまった。(以下、次回)