hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

上野駅界隈の坂道②〜清水(きよみず)坂の上野大仏

2024-12-16 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その226。上野駅界隈の坂道②、エレベーターで上野公園に入ると正面に清水観音堂。



上野寛永寺は天海が開山した徳川家の菩提寺であり、当時の年号を取り、寺の名前とした。面白いことに京都を模して作られ、不忍池が琵琶湖、弁天堂が竹生島、清水観音堂は清水寺、根本中堂は比叡山延暦寺などよくできている。清水寺の様に舞台造となっていて初めはすぐ近くの摺鉢山の上に作られたのだが、根本中堂建設にあたり、1694年に移築された。

ご本尊は千手観世音菩薩像で恵信僧都源信作と伝わる。

また、舞台の前には月の形をした松が設えてあり、願い玉を投げてこの輪の中を通ると願いが叶うと江戸時代から伝わっている。歌川広重作の江戸名所百景にもこの松は描かれている。



横の石段が『清水坂(きよみずさか)』、近くに清水坂(しみずさか・都立上野高校横)もあるから間違えやすい。

階段を降りて見上げると舞台造りがよくわかる。周りを見渡すと外国人観光客ばかり、日本とは思えないほど。 

そのまま階段を降りて不忍池の方に向かう。こちらは露店も並び観光地ムード。八角形の弁天堂があり、まわりにはたくさんの慰霊碑や石碑が並んでいる。





一つずつ見て回ると『ふぐ塚』『鳥塚』『包丁塚』ほかにもたくさんある。もう蓮の葉も枯れて夏とはまた違った趣がある。弁天堂にお祈りして左に曲がる。





少し行くと右に上り坂が分かれるが、これが『忍坂』。五條天神社の参道ともなっている。秋のやや斜めになった日差しの中を歩くが、振り返ると眩しい。左側に時の鐘、芭蕉の名句『花の雲鐘は上野か浅草か』の鐘である。




さらに行くと左側に花園稲荷がでてくる。京都の稲荷大社同様、たくさんの鳥居がならんでいるが、鳥居をくぐり出てきた急な石段が『稲荷坂』である。





近くの『韻松亭』にはたくさんの外国人が詰めかけ、さらに上野精養軒の入口もある。パゴダの横には上野大仏。元は6mの釈迦如来坐像だったが、関東大震災で被害を受け、仏頭が落ちてしまった。



さらに再建に備えて寛永寺で頭と胴体は保管されていたが、戦時中の金属供出のため、顔面を除き持ち去られた。しかし、現代になり、受験生が『これ以上落ちない』と合格祈願をするために参拝する様になり、人気が復活している。



上野公園にきたら『西郷隆盛像』に行かねばと足を伸ばす。背景のイチョウが黄色く色づき、美しかった。こちらも周りにはインバウンドの人ばかり。敬天愛人を知る人は何人いるのであろうか。



お隣の『彰義隊の墓』にもお参りし、帰途についた。


上野駅周辺の坂道を巡る①

2024-12-10 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その225。上野駅周辺の坂道を歩きながら、旧跡も巡ることにした。11月も後半に入ると急激に寒くなり、冬近しと誰もが感じる。上野駅公園口も2022年3月にリニューアルされ、通行量の多かった上野公園通りも南北に分断、駅前は車が入れなくなった。

歩く方からすると実に快適で出口を出て真っ直ぐ行けば動物園、先を右に曲がると国立博物館などわかりやすくなった。駅前のイチョウの木も黄色くなったもの、まだまだ緑色のものなど個性が出ている。

右手には国立西洋美術館、有名なコルビジェ設計の世界遺産。現在、モネ展が開催中のため、たくさんの人が並ぶ。



向かい側にはオーギュスト・ロダンの『考える人』『カレーの市民』という名作が展示されている。列も長いことから並ぶのは諦め、東京文化会館の方に歩く。





下り坂となるが、これが『車坂』。明治16年までは上野寛永寺から東側に降りる坂が3つ(車坂、信濃坂、屏風坂)あったが、上野駅と線路の拡幅により、全て消滅した。



今の車坂は旧町名の車坂町によるものとある。池波正太郎の剣客商売にも登場(消滅した車坂)する。


(パンダ橋)
車坂には上野動物園にいる動物のパネルが埋め込まれていてこれを確かめるのも楽しい。パンダ、ハシビロコウなどを見つけた。

(旧松竹デパート)

(旧聚楽)

その先、階段を降りると右手にかつては上野松竹デパート(上野松竹など映画館の入ったビル)やじゅらく(聚楽)は新しいビルになり、すぐを右に曲がると3階まで行けるエレベーター、降りると上野公園に入ることができる。(以下、次回)


サンシャイン〜護国寺駅付近の坂巡り③

2024-11-06 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その224。雑司ヶ谷の南坂をそのまま上ると旧宣教師館通りと書いたレンガ通りが現れる。



そのまままっすぐ行くと『雑司ヶ谷旧宣教師館』と書いた古い洋館が現れる。これは1907年にアメリカ人宣教師マッケーレブが自らの居宅として建設したもので1941年に彼が帰国するまで生活していた。今は豊島区有形文化財として保存されている。



元の道まで戻り、坂を下りると左に向かう道に出る。これを5分ほど歩いてようやく不忍通りまで戻る。不忍通りは先ほど私が渡ったあたりから首都高護国寺ランプあたりまでが緩い坂道となっているが、これが『小篠坂(こざささか)』である。





説明板によると『江戸時代に御鷹場から坂下の本浄寺に下る道として開かれたものだが、笹が多く生えていたため、この名前となった』とある。



小篠坂の先、友成第二医院というクリニックの先を左に曲がると文京区立青柳小学校への坂道となる。この坂には『希望の坂』という名前がつけられている。



これは首都高速道路建設により1960年に今の場所に移転、その際に子供たちが楽しく学べる通学路であり、希望に満ちた将来を願ってこの名前が付けられたとのことである。





護国寺の前を通り、まっすぐ行くと大塚三丁目の交差点に向かって不忍通りは坂道となっている。この坂道は『富士見坂』と名付けられてある。富士見坂や塩見坂(潮見坂)は東京にたくさんあるが、ここの坂上からは天気の良い朝には本当に富士山を臨むことができる数少ない坂道である。

サンシャイン〜護国寺駅の坂巡り②

2024-10-26 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その223。不忍通りを渡り、雑司ヶ谷墓地の脇の道を歩く。

細くくねくねと曲がっていて方向感覚が狂う。墓地の中は碁盤の目のようになっているにも関わらず、なぜか周囲の道は農道のように曲がっている。高校生の頃に友人のKくんの下宿がこの辺りにあり、道に迷って往生したことを思い出した。

当時は携帯電話もスマホもなく、今自分のいる位置が判らずぐるぐる回っているうちに都電の雑司ヶ谷電停に出て、そこまで迎えにきてもらったことを思い出した。この坂巡りもスマホで地図を見ながら歩けるからこそできるのである。

雑司ヶ谷霊園は1874年に開設した歴史のある公営墓地であり、それ以前は御用地。3代将軍家光は薬草を栽培する御薬園、8代将軍吉宗は鷹狩の鷹を飼育する御鷹部屋として使われていた。歩いていた道も『御鷹方御組屋敷道』として使われていたという説明板もあった。しばらく歩くと左に管理事務所に向かう道が出てくる。 



墓地の中の道はまっすぐでわかりやすい。中央通りと付けられた道を歩き、いちょう通りを左に。確かにこの通りにはいちょうが植えられていて、少し葉も黄色くなり始めていた。



この辺りに夏目漱石の墓があるはずだが、判らず歩いていると竹久夢二の墓を発見。『竹久夢二を埋む』とのみ彫ってある墓碑が印象的であった。



少し戻り、雑司ヶ谷墓地南側に出て右に曲がる。すぐのところから下り坂となっていて右手に清立院というお寺が現れるが、この坂道が『清立院坂』である。このお寺は雑司ヶ谷七福神の毘沙門天が祀られている。

坂を下りて四つ辻を左に歩く。道が台地の下にあるため、薄暗い。さらに道も狭いため、4m道路の確保ができないためなのか、古い家が多い。しばらく歩くと左から下り、さらに右に下る道と交差する。この坂道が『南坂』である。



色々ネットを探したが、この坂道の由来はわからなかった。(以下、次回)


サンシャイン〜護国寺駅の坂巡り①

2024-10-20 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その222。今回は東池袋のサンシャインから雑司ヶ谷を通り、護国寺までの坂道を巡る。


サンシャインシティは中核の高層ビルサンシャイン60が竣工したのが1978年ですでに46年が経過している。だからサンシャインが東京拘置所、いわゆる巣鴨プリズンの後に建設されたことを知る人も少なくなってきているように思う。

サンシャインシティの裏手には首都高速道路東池袋ランプがある。その前の通称・坂下通りを歩くと左側に東京国際大学の巨大な校舎が現れる。そのまままっすぐ行くと都電(サクラトラム)の踏切に至る。

池袋から大塚3丁目に抜ける便利な道なのだが、あまり混雑していない。左側にはこじんまりした銭湯がある。



その先の信号には『開運坂下』とある。ここから右手に登っていくののだが、説明板に『柔道創始者である嘉納治五郎の邸と道場が坂上北側にあり、彼が命名。開運坂道場と呼ばれた』という趣旨のことが書かれていた。



また、坂下には駐在所があるのだが、私が子供の頃にはここに大日本愛国党の党本部があり、街宣車が走っていたことを思い出す。ただ、彼も1990年に亡くなり、今は名残もない。



開運坂は坂下通りを直角に右に曲がり、坂上で左にクランクしている。その先は護国寺の境内の裏をまっすぐ歩く。



右手に小さく『福田稲荷』という石碑がある。直角に曲がると細い参道、石の鳥居の奥には赤い鳥居が3つ、さらに石の鳥居があり、奥に小さな祠が置かれている。



中にある石柱の一部には『宝暦十二壬年・・』とあるので1762年、つまり江戸時代のものであろう。ネットで調べると『元和』(1615〜1624年)頃に創設されたものらしい。

再び護国寺の境内裏の道を歩くと不忍通りに出る。これを渡ると雑司ヶ谷墓地が広がる。学生時代に友人の下宿があり、よく遊びに行ったのだが、その頃と雰囲気は変わっていなかった。(以下、次回)

自由が丘駅〜都立大学前駅付近の坂道②

2024-10-14 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その221。自由が丘付近の坂道2回目、睦坂を上って行くと目黒通りにぶつかるが、これを渡ってから左に行く。宮前小学校の方に右に折れると目の前にかなり先まで見通せる急な坂道が現れる。

この坂道が『しどめ坂』。しどめとは草ボケというバラ科の赤い棘のある木。この木が呑川の岸辺に群生したことから付いた名前である。花は朱色に近い赤い花をつける。





坂の上の道を曲がり、校庭に沿って行くと、しどめ坂と並行する坂道が現れる。この坂道もかなり遠くまで見通すことができる。坂道自体は2車線と細いため、余計にその勾配が強調される。



これが『太鼓坂』、由来は①この坂道の斜面が太鼓のような形をしていたから、②急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたため、という説がある。案内板は小学校の壁に貼られているが、親切にもそばの坂道の地図もついていた。

再び目黒通りに戻り、左に曲がる。自由が丘通りを越え、次の道を左に行くと細いくの字に曲がった緩い坂が出てくるが、これが『氷川坂』。



由来はこの先に氷川神社があるため付いたなまえである。



そのまままっすぐ行くと八雲氷川神社の参道になる。由来はわからないが、文書などによると少なくとも江戸時代中期にはあったと思われる。参道も長く、ようやく本殿に到着。お参りをした。






ここからは呑川沿いを歩きようやく都立大学前駅に到着することができた。








自由が丘駅〜都立大学駅の坂巡り①

2024-10-10 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その220。東急東横線自由が丘駅〜都立大学前駅の坂道を訪ねることにした。自由が丘駅は東横線のほぼ真ん中で大井町線との乗り換え駅、1927年に九品仏駅として開業。

(ハチ公前にあった旧5000系)

1929年に大井町線開業に伴い、九品仏の前に新たな駅(九品仏駅)を置いたため、自由ケ丘駅と改称した。(今は『自由が丘』の表記だが、当時は『自由ケ丘』)その後1966年に自由が丘駅に改称されて今に至る。
それにしても昭和初期に命名された駅名としてはかなり思い切った名前のように感じる。名前の由来は地元にできた自由が丘学園に因んだもので、当時の文化人が先頭になり付けた名前なのである。(それ以前は碑衾町)第二次大戦時には憲兵隊から自由を冠した地名を改めるように求められたが、地元住民はこれに応じなかった歴史がある。
(女神像)

駅を降りると駅前にロータリーがあるが、これを右に曲がる。(車は逆の一方通行)しかし、かなり細い道で向かいからは東急の路線バスが次々とやってくる。次の交差点を左に曲がるとオシャレなお店が並ぶ通りとなる。

(おしゃれなラーメン屋さん)

オシャレなラーメン屋を右に曲がると現れた坂道が『谷畑坂(やばたさか)』である。名前の由来は案内板に『旧碑衾町の字であった谷畑にあった坂道があること』と書いてあった。



少し古くからあるお屋敷町だが、この坂道を上り切り、右に曲がる。途中には自由が丘の名前の由来となった自由が丘学園高校、今は男女共学となっている。



その先はかなりわかりにくいが、駅から来る道の自由通りを左に曲がると『睦坂(むつみさか)』となる。睦坂は昭和初期に耕地整理により新たにできた道で住んでいる人々の親睦を願って付けられた名前である。(以下次回)

下丸子駅から沼部駅あたりの坂道③

2024-10-05 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その219。一駅電車に乗り、東急多摩川線沼部駅で降りる。駅前は道が細い上に踏切を渡るとすぐに二叉路となっているため、渋滞している。



その間をすり抜けると駅前に立派な東光院というお寺がある。その先右側に曲がると長く、割に急な坂がある。



これが『おいと坂』、おいとを漢字にすると『雄井戸』となる。昔、坂の下に井戸があり、これが雄井戸。西側に雌井戸と共に人々に親しまれてきたので付いた名前とのこと。

坂を降りて元の道を右に上がって行くと、『さくら坂』という信号が現れる。この通りは旧中原街道、切り通しで昔は沼部の大坂と呼ばれていた。





福山雅治のヒット曲でいちやく有名になったのだが、両側に植えられたソメイヨシノが見事で坂の上にかかる桜橋からの眺めが素晴らしい。

(2015.4.5訪問時)


ただ、桜のシーズンは大変混雑していて週末にはゆったりと見るのは難しいほどである。葉桜の今の季節も眺めはなかなか良い。



駅まで戻り、さらに少し行くと多摩川の河原に出ることができる。左側には新幹線の架橋、右側には東急線や丸子橋など。野球場があるが、雨の平日は静かなものである。



川の方に歩くと説明板があり、『丸子の渡しの跡』とある。中世以来の渡場で江戸時代には中原街道が整備されたこともあり、大変な賑わいであった。1934年に丸子橋が開通すると役目を終え、1935年に廃止された。



そのまま川岸まで歩いたが、風もなく穏やかな日であったため、江戸時代は馬はそのまま渡り、人は荷物のみを船に乗せ、自らは歩いたというのが分かる気がした。



ちなみに丸子橋は長さが406mなので川幅はもう少し狭いのであろうか。再び沼部駅まで戻った。







下丸子駅から沼部駅あたりの坂道②

2024-10-03 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その218、『昭和の暮らし博物館』を出て、元の道を右に曲がるとすぐに鵜の木八幡神社の前に出る。小雨が降っているなか、ご近所さんだろうか、おばあさんが丁寧に参拝されていた。


この辺りには先程の博物館だけでなく、昔懐かしいアパートも点在、うち写メに撮った1軒はまだまだ健在のようである。



すぐ前の道が下り坂になっていて少し歩くと環八通りに出る。これを反対側に渡ると大きなお寺があった。増明院という智山派のお寺を左回りするように坂がある。




登り終えると今度は下り坂となるが、この坂道が『富士見坂』。細い坂で左右に曲がりながら進むと開けるが、マンションが林立していてとても富士山は見ることができない。



坂を降りると東急多摩川線鵜の木駅前に出る。これを右に曲がると公園に突き当たるが、右に上る坂道が現れた。

(この突き当たりを右に)

『河原坂』である。江戸時代はほぼ東急多摩川線あたりが多摩川であり、河原があったらしく地名も河原である。河原に向かう坂のため、河原坂と付けられたらしい。



坂の途中が鵜の木松山公園、ここは『鵜の木1丁目横穴墓群』という古墳であり、そのうちの6号墓のみが発掘後そのまま保存されている。

奈良時代の墓らしく、中には3人の人が埋葬されていた。案内板によるとほぼこの公園全体がお墓で1〜7号墓まである。


小さな公園だが、大きな桜の木があり、花見の頃には大勢の人が集まるだろう。



雨が止まないので隣の沼部駅までは東急多摩川線に乗ることにした。(以下、次回)


下丸子駅から沼部駅あたりの坂道①

2024-10-01 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その217。今回は東急多摩川線下丸子駅を降りて坂巡りをする。前回の坂巡りは7月24日だからかれこれ2ヶ月ぶり。というのも今年の夏の暑さで坂道を上ったり下りたりするのが辛かったからである。

実は下丸子駅には数週間前に降りて、飲みに行ったのだが、そう言えばこの辺りの坂道に行ったことがないことに気づき、再び下車した。

下丸子駅は日中は駅員のいない無人の駅、トイレは蒲田方面しかなく、地下通路もないため、多摩川方面の乗客は我慢するしかないらしい。駅を降りて踏切を渡ると右手に大田区民プラザ、その前を通過して行く。

ここで本来ならまっすぐ行くべきところを左に曲がり、道を間違えて多摩堤通りの方に行ってしまったのだが、光明寺の大きな池が邪魔になり、近道ができず、やむなく元まで戻り環八に出る。

交差点で向かいに渡り、少し左に行くと右に入る道に出てくる。これを行くと左側に藤森稲荷神社が出てくる。小さいが、立派な鳥居があり、お参りする。



その横を登って行くのが『ぬめり坂』、昔の鎌倉街道筋で緩やかな坂道である。案内板には『なだらかな坂だがぬめって上れなかった。



付近の豪家に美しい娘がいた。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んで坂に生き埋めになった。以来坂道の通行は容易になり、付近は繁盛した』とある。悲しい物語だが、この程度の坂でそこまでするかとは思ってしまう。ただ、昔は舗装技術もないのでやむを得ないことだったのかも知れない。





また、その先の二又の分かれ道のところに道祖神があり、道標となっている。正面には『(左側)矢口渡新田神社川崎(右側)池上本門寺大森)』、右側には『東てふふゑき久ヶ原五反田方面』、左側には『峯御嶽神社奥沢大岡山洗足池方面』とある。

道標を右手の方に行くと住宅地となる。案内板があり、右に行くと『昭和の暮らし博物館』とあるので立ち寄る。この博物館は昭和25年築の民家を昭和の家を残したいと個人が始めたもので小泉さんという女性が生まれ育った家を公開している。




内部は殆ど昭和がそのまま残されていて私のような世代には懐かしさの塊。特に2階の子供部屋は高校の時に訪ねた友人の下宿そのままみたい。

他に画家の吉井忠さんのアトリエなのか、絵の展示もあった。(以下、次回)