hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

石神井川の橋を巡る③

2025-01-22 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その116。前回石神井川に沿って歩いたのが2019年7月、その時は王子駅から谷津橋まで歩いたのだが、今回は一つ手前の観音橋から遡り、新板橋まで歩くことにした。

(2019年7月)

観音橋は谷津観音の参道にかかっている橋でそのまま行くと山門の前に行く。ただ、前回(2019年7月)に来た時には樹木が繁っていたか、気づかなかったかもしれないが、観音橋のすぐ横に谷津大観音坐像が置かれている。これが目に入らなかったとは我ながら驚きであった。





1996年に造られたこの仏像は台座を含めて8.5m、重さ5tもある大きなものでなぜ私が前回見落としたのかが信じられないほど立派な仏様である。建立は世界平和、萬民豊楽、子孫繁栄、諸願成就を祈念して前住職の発願によるもので、現在の住職新井京誉氏が完成させたものである。

もちろん、大観音の前で手を合わせて、今年が平穏な年であることを祈った。



観音様の横を通り、川を遡る。谷津橋は地元の字名を付けた橋であり、橋の袂に門がある面白い造りとなっている。

川に沿った道は普通は平坦なのだが、石神井川はアップダウンが多く、また、川から橋までの高さが他の川と比べてかなり高い。

目の前にJR埼京線の高架橋が出てくる。ちょうど電車が通過したが、川沿いに植えてある木の枝が邪魔でうまく捉えられなかった。





高架橋を越えると板橋区に入る。東橋が見えてきたが、変わっていて右岸側は通常の橋だが、左岸はかなり高いところに橋が作られていて、左岸だけが歩道橋のような造りとなっていた。橋は1987年に架けられた人道橋である。片方は階段だが、反対側はスロープとなっていて自転車は楽に通ることができる。

川沿いには地元の子供たちが作った彫刻が飾られていて東橋の袂にある彫刻は『水鳥』と名付けられていた。他にも地元の人が詠んだ俳句の短冊が並べられていて散歩する人を飽きさせない工夫がある。



金沢橋は板橋区加賀にある。この地は江戸時代に加賀藩下屋敷があった場所であり、そのためその一部が加賀公園となっている。その公園に行く橋に金沢の名をつけたものである。





続く加賀緑橋、加賀橋共にあまり特徴のない橋だが、『金沢→加賀緑→加賀』とくればやはり旧加賀を意識していることは間違いない。

その証拠に加賀橋近くには金沢・兼六園で有名な徽軫灯籠(ことじとうろう)に似たコンクリート製のオブジェが飾られていた。(以下、次回)

亀山ダム(亀山湖)へ〜上総亀山駅

2024-12-26 05:00:00 | 川と橋とダム
久留里城趾を歩き、再び駐車場に戻る。列車にはまだ時間が十分にあることからまずは亀山湖に向かう。久留里城から先は久留里街道(国道410号線)をひたすら走る。左右に曲がりながら走るが途中久留里線と並走する区間もある。

上総亀山駅に向かう道は左、亀山ダム(亀山湖)は右に曲がる。すぐ先には亀山温泉が湧くようで温泉旅館が散在、右に曲がると急に亀山ダムの上に出る。

その先のやすらぎ館というレストハウスに車を停めてダムを散策。小櫃川の上流にあり、1971年から10年の歳月をかけて完成した千葉県では最初の多目的ダム。ダム湖である亀山湖からは紅葉が楽しむことができる。



ダムの堤高は34.5m、ダム堤の長さは156.0mで主な目的は洪水への対策、水道水の確保、流水の正常な維持である。

亀山湖は真ん中に島があるような面白い形をしており笹川と小櫃川という2つの川の合流点に造られ、下流に水を流すためにダムが造られた。



近くに亀山・片倉ダム管理事務所があり、そこまで歩いてダムカードをもらいに行く。カードをもらう際にどちらからと聞かれ、東京と答えるとご苦労さまと言われた。



また、亀山ダムから久留里線上総亀山駅までは車で2分ほど。しかし、すぐそばにある亀山・藤林大橋というバス停には高速バスカピーナ号(千葉駅〜久留里駅〜安房鴨川駅)が1日9本も停車し、木更津での乗り換えなしに千葉駅に出ることができるのである。これではJR久留里線の先端部の利用が減り、廃止となったのはやむを得ないのかもしれない。
現地に行ってみて、久留里線先端部の廃止がなぜ行われるのか、一つ理由が分かった気がした。



三吉橋から旧楓川の橋を巡る②

2024-08-04 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋めぐり』その115。旧楓川に架かる橋を巡る②。新富橋の隣は新金橋、名前の由来は旧新富町と旧金六町を繋ぐ橋のため、それぞれから1字ずつ取ったもの。関東大震災の復興事業の一環として1930年完成のラーメン橋、長さ33.1m、はば15mある。

旧金六町は芝田金六の支配地となったため、付いた名前である。芝田金六は大坂の陣で人足差配役をした。因みに金六町、新金六町は京橋、八丁堀、芝口と色々なところにあるが、火除け地として移転したためである。(芝口金六町は今の銀座8丁目7番あたり、後に南金六町となった。八丁堀金六町は八丁堀2丁目にあたる。)


新金橋は首都高速道路京橋ランプが橋の上にある。橋の横には小さな新金橋児童遊園があるが、子供の遊び場というより、周辺のサラリーマンの休憩所として使われている。


弾正橋は鍛冶橋通りにある橋長32.2m、幅員20.0mのラーメン橋。江戸時代、北八丁堀にあった島田弾正少弼の屋敷があったことから付けられた名前で、当時は交差していた堀川上に真福寺橋、白魚橋と共にコの字形していたことから、江戸名所図会に『三ッ橋』と描かれていた。



度々架け替えられていたが、明治11年に工部省の手により日本で初めて国産鉄を使った橋として建造された。その橋は掛け替えの際に国の重要文化財として江東区富岡の八幡堀遊歩道に移されて現存されている。



保存されている橋は長さ15.2m、幅2mの小規模な鉄橋、赤く塗装された可愛らしいフォルム、しかし、菊の紋章も付けられている。



楓川弾正橋公園には喫煙所が作られているが、ここに渡る橋も昔の橋のミニチュアであった。



お隣の松幡橋は小規模な橋だが、歴史は古く、明暦の大火(1657年3月2日)以降の架橋であり、名前の由来は松屋町と因幡町をつないでいたため、それぞれから1字ずつを取って橋の名前にしたものである。(以下、次回)








三吉橋から旧楓川の橋を巡る①

2024-07-31 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋めぐり』その114。夏は坂道を歩くのが苦しいため、橋や川を巡る機会が増える。個人的には『箸休め』ならぬ『橋やすみ』と思っているが。今回の川は埋め立てられてない水の代わりに車が流れる旧築地川や旧楓川である。

築地川はもともと隅田川の明石町あたりから分流し、入舟橋を通り、中央区役所付近から首都高都心環状線に沿い、浜離宮恩賜公園の東側を通り、再び隅田川に合流していた。また、三吉橋(みよしばし)から首都高京橋入口付近まで連絡する楓川・築地川連絡運河が帝都震災復興事業により昭和5年に掘削されている。



今回は三吉橋をスタートして運河跡、楓川跡を歩き、橋を巡ることにした。三吉橋は上から見ると三角形となっていて旧築地川が曲がり、そこから楓川まで連絡運河が開削されていて、その上に橋が架けられている。今はこれに沿って首都高速道路環状線が作られ、水の代わりに車が流れている。



三吉橋は関東大震災復興事業として昭和4年12月に架橋され、元々は下に築地川と運河が流れていた。この三方向から来る橋が珍しい形をしていたことから昭和初期は絵葉書が販売されるほどの名所であり、川には荷を運ぶ船や屋形船などが行き交っていたようだ。



目の前の茶色の建物は中央区役所で築地川は1962年に埋め立てられ、風情は無くなったが、今も立派な欄干や親柱は健在で橋マニアならば必ず立ち寄る橋である。



橋には記念レリーフがあり、文中に三吉橋の登場する三島由紀夫の『橋づくし』の一部が刻まれている。



ここからは高速道路に沿って走る道路を歩き、1本ずつ橋を見ながら散歩する。隣の橋は新富橋、名前は地名である新富町から取られた。橋の袂には大野屋総本舗の木造建築がひときわ目を惹く。

この店舗は大正13年(1924年)に建てられた町屋で足袋を商う。この地で商いを始めたのは嘉永2年(1849年)であり、切妻造りの桟瓦葺き、とにかく味のある建物である。今は国有形文化財の登録が為されている。

向かい側には新富復興稲荷、小さな祠で新しいように見えるが、昭和7〜11年の火保図にもあることから関東大震災からの復興を祈念したもののようだ。橋の袂には石で造られた五重塔、ひっそりと放置されているが、その存在はあまり知られていないようだ。(以下、次回)





柳橋逍遥②

2023-10-14 05:00:00 | 川と橋とダム
佃煮の小松屋さんを出るとお隣に可愛らしい緑色の鋼鉄橋がある。これが柳橋、あちこちに柳が植えられているが、これはのちに植えたものと小松屋のご主人が話してくれた。



橋の袂には安政年間より続いた『亀清楼』がビルとなり、残されている。橋にはかんざしが埋め込まれ、雰囲気を出している。


しかし、料亭は1999年に最後に残された『いな垣』の閉店を以てなくなり、伝統のある柳橋芸者は失われてしまった。

(花火の頃の写真)

柳橋の橋自体は1698年に初めて架橋され、1887年に鋼鉄製となる。しかし、関東大震災で落橋、1929年に今の橋が完成した。橋長38m、幅員11mあり、船舶の航行に支障をきたさないように橋脚が少なく、橋梁本体の下に路面のある下路式鋼製ソリッドリプタイドリーチ構造となっている。




橋の周囲には震災復興記念ほか色々な記念碑や石碑などがある。



橋を渡り、左方向に歩くと隅田川テラスに抜ける階段がある。降りるとちょうど神田川が隅田川に注ぐ地点に出る。隅田川は上流には総武線の鉄橋、すぐ横には東京スカイツリーが見える。



下流にはすぐのところに両国橋がある。一度戻り、国道14号に出る。すると通り沿いに両国広小路の石碑がある。



両国広小路は明暦の大火(1657年)の後に多くの死傷者を出した教訓から両国橋西詰に火除地として広小路が作られ、常設の建物は作られなかった。


ただ、その代わり仮設の見せ物小屋や飲食店などが立ち並び大変に繁盛したようである。



元の道に戻り、柳橋の手前を左に行くとすぐのところに佃煮屋の親戚が経営する船宿『小松屋』、さらに川沿いを歩くと浅草橋手前に『鈴木屋』が出てくる。



昼のためまだ屋形船はたくさん泊まっていた。船宿の建物はかなり古いが、多分再建築が難しいために昔の有様そのものを残しており、絵になる街並みがまだここにはある。




柳橋逍遥①

2023-10-08 05:00:00 | 川と橋とダム
都営地下鉄浅草橋駅で下車する。改札口には『雷門・浅草寺の最寄駅は浅草駅です』という案内板が貼ってある。浅草橋と浅草は確かにわかりにくいかもしれないが、駅は2駅、距離にして2.2kmも離れている。



駅を降りて江戸通りを右に行くと浅草橋が見えてくる。その横に浅草見附跡の石碑が残されている。浅草見附は当時36あった江戸城の門の1つで1636年に見附門と呼ばれた警備施設が作られた。1657年の明暦の大火(振袖火事)の際、囚人の逃走を防ぐため閉ざされ、多数の死者が出たという悲しい歴史もある。

浅草御門と呼ばれ、その横にある橋のため、浅草橋も浅草御門橋と呼ばれていたが、いつのまにか御門が取れて浅草橋となった。



浅草橋は神田川に掛かる橋だが、河口に近い柳橋までにかけ、船宿が作られ、船遊びが盛んに行われた。今も浅草橋あたりから数軒の船宿は残っていて当時の風情を偲ばせてくれるのでまた来てしまった。

浅草橋より上流には『三浦屋』、下流には『田中屋』『鈴木屋』『あみ春』『あみ新』、柳橋の辺りには『小松屋』が今も営業をしていて今はエンジン付きの屋形船を使った船遊びができる。

浅草橋から向かいに渡り、神田川沿いを歩くと『田中屋』『あみ春』『あみ新』と並んでいてまだ昼のため、準備をゆっくりと始めている。



その先に『小松屋』という佃煮屋さんがある。お隣はもう柳橋なのだが、なんとも風情がある。中に入るとあみ、かつお小町、きゃら蕗、小エビ、昆布、もろこなどの佃煮が所狭しと並んでいる。



季節の佃煮の『一と口あなご』(60g3456円)と『手むきあさり』(60g3996円)が美味そう。ご主人も強くお勧めになるが、やはり値段をみて『小エビ』(60g972円)をお土産にする。

他にも冬には牡蠣やほたて、春には生海苔などもお勧めだとか、キャラ蕗の試供品までいただいた。(以下次回)


外堀沿いに歩く①〜飯田橋とボート場

2023-04-30 05:00:00 | 川と橋とダム
外堀通り散歩①、久しぶりに江戸城の外堀を散策することにした。スタートは飯田橋、駅ではなく橋のほうである。

目の前には立派な歩道橋、目白通りの方に歩くと神田川の地下で繋がっている。



飯田橋の下もすぐに暗渠、セントラルプラザが立っている。住所は『新宿区神楽河岸』であり、ここには飯田濠があった。



元々は川や濠を使い船で物品を運び、ここから品物を揚げていた場所で埋め立てられ、建物が1984年に完成した。因みに12階より上のオフィスには東京都の行政機関が入居している。

神楽坂入口にあたる交差点を左に登っていくと牛込橋。下には濠と中央線・総武線の線路が走っている。



飯田橋駅の再開発時に駅の建物の2階に甲武鉄道や牛込駅のことが描かれたパネルがある。

1894年10月に新宿〜牛込間開通にあたり今の駅舎から通りを挟んだ反対側へ少し歩いた所に牛込駅が造られた。翌年4月に飯田町駅が開業するまでの半年間のみであった。



また、牛込橋の先には牛込見附の石垣跡が残されている。その石には『阿波守内』と刻まれていて諸藩が普請で協力した上で作られた痕跡である。



外堀は飯田濠(埋立済)、牛込橋からは牛込濠、さらに新見附濠、市谷濠、真田濠(埋立済)、弁慶濠と続くが牛込橋から見える牛込濠は広く、そばにはボート場がある。



このボート場は1918年創立の東京水上倶楽部であり、当時は100艘以上の船を擁していた。今もCANAL CAFEとしてイタリアンレストランも併設、ボートの営業も行っている。(ボートは30分600円)



外堀通りから中央線・総武線は同じ高さに見ることができ、ボートに乗るとかなり迫力がある写真を撮ることができそうである。また、1箇所だけ噴水もある。(以下.次回)






野川に沿って歩く

2022-07-09 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋めぐり』その113。鞍尾根橋から野川を下る。国分寺市を流れているうちはコンクリートで固められた細い水路のような川だが、鞍尾根橋で小金井市に入ったところからは川幅が広がり、川の護岸も土に戻り、さらに川の横に遊歩道が整備されていて歩きやすくなる。ただ、春の小川に出てくるような川は浅く、まだ細いままではあるが。



川に沿ってそれほど大きくないソメイヨシノが植えられていて花見の季節はさぞや綺麗だろう。川の中の大きな石には鴨が乗っかり、日向ぼっこ。



ただ、歩いた日は天気が良すぎて私ならはクラクラきそうであるが。すると隣の橋『西之橋』が現れる。日当たりがいいのか、両側に植えられた木や草が繁り、川の流れが上からは見えないところもある。



次は『弁天橋』、ここで対岸に渡り、河岸段丘の上を眺めるが見事に横に繋がっているのがわかる。



次が『貫井新橋』『坂下橋』と続く。この辺りも川沿いにはソメイヨシノが植えられている。他にも、木や草が生えていて川がみえなくなる。



ここで新小金井街道とクロスする。この手前で水辺まで降りることができる場所があり、水面の高さから橋を眺める。緩やかに流れる川を見ているとつい眠くなってしまいそうになる。





野川はこの先、武蔵野公園を通り、西武多摩川線を越え、調布市にある野川公園、さらに三鷹市、世田谷区を通り、最後は二子玉川で多摩川に合流する。



ここで野川とは離れて再び薬師通りに戻り、坂巡りをすることにした。(以下、次回)

浜町川を歩く③

2022-05-29 05:00:00 | 川と橋とダム
久松警察署の前の通りは金座通りと呼ばれている。かつてここには小川橋が架かっていたのだが、近くに『小川橋由来』の石碑が残されている。

由来によると1880年10月に神田東福田町の押込強盗事件、1888年8月に浅草で強盗事件を起こすなど数々の強盗事件を起こした犯人を警察は執拗に追った。1889年12月馬喰町で発生した押し込み強盗を追った小川巡査がピストルで撃たれ、短刀で切り付けられながらも犯人清水定吉を追いかけ、他の巡査により捕縛した。小川巡査はこの傷が元で翌年殉職、この事を顕彰するために久松警察署前の橋に名前を残したということである。

金座通りを渡ると消防署、さらに浜町川緑道公園、あまり水は流れていないが、中央部には水が流せるようになっていた。ベンチも多いのでゆっくりすることもできる。
川口松太郎作の明治一代女に描かれ、『浮いた浮いたよ浜町河岸で〜』と謳われた浜町河岸こそ浜町川のこのあたりの話であり、大川端とも呼ばれたのはこの辺りのことである。川も埋め立てられ、橋もなくなり、風情は残っていないが、明治の頃を彷彿して見るのもいい。



甘酒横丁と交差するところに勧進帳の弁慶像が建てられている。ここを左に曲がるとすぐに明治座の前に出るが、江戸時代初期には歌舞伎や浄瑠璃を演じる小屋(市村座、中村座)があり、歌舞伎発祥の地として後世まで残すために作られた像である。



この公園は細長く、両側は車道になっていて新大橋通りまで続く。



首都高速浜町出口に至るスロープとなっていて、さらに両側に車道がある。

右側には有馬小学校、最近の人はあまり言わなくなったが、『恐れ入りや(入谷)の鬼子母神、びっくりしたや(下谷)の広徳寺、情けありま(有馬)の水天宮』などといっていた。



この最後の一節、水天宮は元々久留米有馬藩が久留米より分霊したもの。この小学校も有馬家が土地を寄贈したために名前が残されている。

道は少し途切れ、高速道路の下をくぐると下水道局箱崎ポンプ所となる。暗渠はここまでつながっていて隅田川に合流するのである。
オフィスビルをぐるりと周ると目の前には隅田川。そして先ほどのポンプ所から神田川より続いている暗渠の水が流れ込んでいる。



隅田川は右側に隅田川大橋、左側には清洲橋を臨むことができる。岩本町から箱崎町まで川は地下にもぐったが、今も流れ続けている。

(隅田川大橋)

(清洲橋)




浜町川を歩く②

2022-05-27 05:00:00 | 川と橋とダム
竹森神社の裏にある道を再び歩く。なぜかあまり自転車やバイクの違法駐車も少なく、ただ暗渠の上を通る細長い道を行く。



江戸通りの前には小さな園地がある。渡る際の信号も川も橋もないが『鞍掛橋』の名前が残されている。鞍掛橋はなかなか数奇な運命を遂げた橋である。



初めて橋が架けられたのは浜町川の開削と同じ1691年で当時の地図には土橋と描かれていた。1837年には接続する龍閑川の埋立により、浜町川は溝として残る程度になってしまう。しかし、1883年には再び龍閑川が開削され、神田川まで繋がったため、鞍掛橋も鉄橋に架け替えられた。というのは市電室町線が経路変更して橋の上を通ると共に電停が作られたのである。しかし、1923年関東大震災、1945年東京大空襲で周囲は焼け野が原となった。そして空襲により発生した灰燼の処分に悩んだ行政は流れの緩い川の埋立という政策を採用、浜町川北部分は埋立られることになり、1948年に他の橋と共に鞍掛橋は撤去されたのである。

細い道は続くが、さらに道幅は細くなり、横山町問屋街の道に出る。



さらに行くと大伝馬町、再び少し道幅が広くなる。暗渠の上の道沿いに初めて店舗が出てくる。『おひげ寿司』という寿司屋さんだが、店を見ると比較的新しい構えであった。

しかし、その先でこの暗渠上の道が突如なくなり、奥には鋼矢板に囲まれたビル建設現場となる。かつては小さなお店が並んでいたが、半年ほど前から取り壊しが始まり、新しいビルの建設が始まっていた。

次の通りにはかつて千鳥橋が架けられていた。その近くに現在は東京アフロディーテという結婚式場となっている洋館がある。形から銀行の支店かなと調べてみると『旧古河銀行元浜町支店』(1926年竣工)であった。



建築現場をやや大回りして歩くと日本橋休日応急診療所の前に出る。すぐ隣には久松小学校、また、暗渠は久松児童公園の中を通過して行く。夏になると水が張られるプールも今は小学生たちのドッジボールの会場となっていた。(以下、次回)