hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

深大寺に遅い初詣③〜冬の植物園で花を探して歩く

2025-02-05 05:00:00 | 日記
深大寺にて初詣参拝を終え、神代植物公園にも足を伸ばす。どんな花が咲いているのか甚だ疑問ではあったものの、立春までもう少し、花を見つけられるかなと楽観的に植物園の切符を買った。


入園してくぬぎや欅の中をバラ園の方に向かうが、全く花はない。バラ園にもほぼドライフラワーのようになった薔薇の花はあるが、全て茶色っぽくなってしまっている。





やむなく大温室の方に向かう。大温室は熱帯植物、ラン・ベゴニア、熱帯スイレンなどの植物に分かれている。



熱帯植物は馴染みのないものが多く、知っているのはオニバスくらい。毛虫のような花を咲かす植物やウツボカズラなどの食虫植物などあまり美しい花がない。



隣の部屋のランやベゴニアは大きな花が多く、かなり派手な雰囲気。ポインセチアも我が家にあるものよりはかなり大きかった。



私が大温室で最も美しいと感じたのは熱帯スイレン。スイレンの白い花はよく見るが、輝くようなピンクや青、紫色の花には目を見張った。



他にも色々な形のサボテンなど砂漠のような水の少ない地域に生える植物のコーナーもある。



続いて企画展をやっていた盆栽を見に行く。入口にあった紅白の梅がいい。室内に入り、愛好家グループのおじいさんたちが熱心に説明してくれる。



黄色い福寿草、大ぶりの白梅、入口近くに展示されていた250年ものの松など手塩にかけたご自慢の作品が並んでいた。受付では大きな黒松の松ぼっくりを無料配布中。松ぼっくりから芽をださせて盆栽とするらしい。



室内だけでなく、屋外の花がないと探したが、ようやく見つけたのが紅梅(早咲八重梅)。



他には椿、山茶花の木には花をみつけることができた。




ただ、枝垂れ桜や楓、ユリノキはやはり葉も全てなくなった寒そうな裸木が続く。梅のコーナーに行っても咲いていたのは白梅1本、それも上の方の枝のみだった。



ただ、最後の最後に通常の梅の花より少し早く咲く蝋梅(黄色い梅)を見つけた。蝋梅は今が見頃、ようやくたくさんの花をつけた木が並ぶ風景があった。この時期に植物園に来た時はまず蝋梅から見に行くといい。
色々な花が咲く植物園といえども、さすがに今はオフシーズン、次は桜の咲く頃に来てみたいものである。

深大寺に遅い初詣②〜今年は大開帳です

2025-02-03 05:00:00 | 日記
深大寺の山門を登り、境内に入る。普段は左側の小さな小屋でお守りや土鈴、破魔矢などを売っているが、お正月期間は右側に大きな小屋があり、何列も人が並んでいた。



まずはご本堂にお参りする。今年4月26日〜6月2日に大開帳が行われる旨を告知したポスター、白鳳仏を安置する白鳳堂建築に向けた寄付の要請ポスターなども並んで置かれていた。

本堂にも5人程度人が並んでおり、その後ろに付きお参りを済ませた。

初詣で今年の運勢をということもあり、元三大師みくじを200円支払いお願いする。出てきたのは79番、吉が出た。



普通の寺社のおみくじの吉は大したことがないが、深大寺はおみくじの始祖と言われた元三大師が始めた。

しかし、中身はなかなか厳しい。案内文を読むと①凶が30%と凶の確率が高く、②下から『凶、末小吉、末吉、小吉、半吉、吉、大吉』の順番で吉は上から2番めなのである。引いた時はガッカリしたが、これを読んで思っていたよりいい内容にホッとした。



続いて元三大師堂にお参り、こちらは元三大師像が安置されているお堂だが、今年は4月末から6月まで大開帳がなされ、中開帳(2009年11月27日〜12月3日)以来久しぶりに大師像を拝むことができるのが今から楽しみである。大師堂にはいつものように厄払いを乞う人の列ができていた。

次に釈迦堂、こちらには国宝の白鳳仏(釈迦如来像)と毘沙門天像(平安時代後期)、梵鐘が納めてある。白鳳仏が国宝に指定され、納めるための白鳳堂は現在建築中、私もご利益をいただきたく、寄付したいと考えている。また、お隣にはおびんづるさまと願掛けだるまも移ってきており、いつものようにおびんづるさまの頭と足を撫でて痛くならないこと、よく働けることを祈った。



隣にある白山神社に手を合わせ、最後は開山堂に足を運ぶ。開山堂は1983年に開山1250年を記念して作られたお堂で中には薬師如来、脇侍に弥勒菩薩と十一面観音菩薩が安置されている。周囲には代々の住職のお墓もあり、また最も高いところに作られているため、お寺の伽藍が一望できる。ただ、あまり知れていないのか、訪れる人は少ない。

と、これだけ(但し、全てではない)をぐるぐると周りようやく初詣が完了、まずは今年の平穏を祈ることができた。(以下、次回)


『久我山歳時記』(57)〜寒さもピークの大寒

2025-01-20 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』(57)、1月20日は大寒の入り、最も寒い時期に突入する。とはいえ大寒は二十四節気の中で冬の最後の季である。今のところ東京では最低気温が氷点下になったのは1回のみだが、気象庁のデータで最低気温が最も低いのは1月18日〜1月28日(1991〜2020年の30年平均)の1.1℃、つまり大寒とほぼ付合することになるのである。

二十四節気はかなり昔に作られたものというイメージがあるが、意外に気温と連動している。では東京の冬日を調べると2025年は1月5日-0.2℃の1回のみ、2024年は1月25日-1.1℃、2月7日-0.1℃の2回とほんのわずかしか記録されていない。これに対して2023年は7回、2022年は14回とこれだけ見てもかなり温暖化が進んでいることも分かる。

二十四節気をさらに細かくした七十二侯では『欵冬華(ふきのはなさく)〜1月24日』『水沢腹堅(さわみずことりつめる)〜1月29日』『雞始乳(にわとり初めてとやにつく)〜2月3日』となっている。

水沢腹堅と聞くと仕事で昔お邪魔していた袋田の滝を思い出した。当時は良く結氷したもので美しいがとにかく寒かった。

久我山付近をそぞろ歩いて見ても風が強い日が多かったせいか、さらに木の葉が落ちて寒そうな木ばかりが目立つようになってきた。

もちろんまだサザンカの花は咲いてあり、モクレンや椿のように芽を出したり、蕾をつけたりしているものもあるが、例年ならば1〜2輪の花を付けていたはずの梅の木もまだ蕾は硬いままである。

我が家の庭もハナミズキやハナカイドウの葉は殆ど落ち、常緑樹のツバキ、サザンカなども葉はあるが、あまり明るい感じがしない。



色のあるものといえば実だけがツルにしがみついて葉葉枯れたカラスウリ、オレンジ色がやけに目立っていた。



普段ならこの時期に蕾が出てくるクリスマスローズの白い花も全く気配はなく、お正月までは網を掛けて鳥に食べられないようにしていたセンリョウも網を外した途端にムクドリがやってきて殆どの実を食べられてしまった。

(庭から切ったセンリョウ)

ただ、室内と室外両方で育てている一昨年の12月に買ったピンクのシクラメンは何とか3つ目の花を咲かせてくれて楽しませてくれているが。春になって花を見れるまでにはまだかなり時間がかかるだろう。






寒そうなカラスウリ

2025-01-19 23:32:00 | 日記
町を歩くと食べられる実もあれば食べられない実もある。ただ、人が食べなくても鳥が食べる実もあるが、カラスウリは鳥にあまり人気がないのか、所々にまだ残されている。葉っぱはとうに枯れてしまっているのに。
なぜカラスウリだけ人気がないのだろうか、毒があるのかな?目立つのにね。


見た目は美味そうなのに。道を歩くとカラスウリばかりが気になってしまう。






久我山歳時記(56)〜寒の入り

2025-01-06 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』(56)、年が明けてから最初に迎える二十四節気は『小寒』、今年は1月5日である。さらに寒さが強くなり、『大寒』は1月20日、『立春』が2月3日と季節は移ろい、暦の上では春となる。そして1月6日〜2月2日を寒の入りと言って一年で最も寒い時期となる。

昨年はかなり夏が暑く、二十四節気と乖離があったが、冬に入り暦通り寒くなってきた。特に年末には年末寒波(〜12月30日)、新年寒波(1月2日〜)と日本海側は大雪、猛吹雪となる一方で、太平洋側は1カ月以上まとまった降水がない日が続いている。

七十二侯では『芹乃栄(せりすなわちさかう、〜1月9日)』『水泉動(しみずあたたかをふくむ、〜1月14日)』『雉始雊(きじはじめてなく、〜1月19日)』とされている。確かに芹が八百屋の店頭でよく見かけるようになるのは年末以降である。ただ、水が温かくなるというのはまだ先のように感じる。もちろん、都会で雉子と出会う機会はない。

年末年始は久我山でも色々と催しが行われ、以前はpeacockの駐車場でイルミネーションが付けられたのをきっかけに始まった『久我山ピカピカまつり』。



普段は人が殆どいないのだが、お正月は混雑する『久我山稲荷神社の初詣』などには人が繰り出す。しかし、これを除くと静かなものである。



長い正月休みを持て余しながら久我山の街を歩くと確かに花はかなり減った。それでもまだ健気に咲くツワブキの黄色い花、葉は枯れたが実が実っているカラスウリ(唐烏瓜)、まだ残っている赤く色づいた蔦の葉などを見つけた。





もちろん、橙や柚子、レモンなどの柑橘、赤い実をつけたセンリョウやナンテン(南天)、ソヨゴなどは今も残っている。





春を待つために柔らかい毛に包まれたヒメコブシ、ようやく花をつけたクリスマスローズやスイセンなどを発見した。いよいよピークの寒さがやってくる背がしゃんと伸びる季節である。





数字で見てもこの時期の寒さは明らか、ちなみに東京の最高気温は10℃、最低気温は1〜2℃である。もちろん一年を通して最も寒いのだが、これが3℃になるのが2月26日、4℃になるのが3月8日だからまだまだ暖かくなるのは先のことのようである。


2025年の干支『ヘビ』ゆかりの蛇窪神社にお参りする。

2025-01-03 05:00:00 | 日記
本年は巳年、という事でお参りすべき『ヘビ』を祀った神社に行ってきた。そもそも蛇という字が入った地名は少なく、東京には蛇が入った駅名は皆無、これでは期待薄かなあと思っていたら、東急大井町線(かつての目黒蒲田電鉄)に『蛇窪』という駅があった。しかし、1936年に当時の町会議員が蛇は縁起が悪いから地名を変え、字名で『下蛇窪』『上蛇窪』だったものを『下神明』『上神明』に変えてしまった。これに伴い、駅名も『戸越公園』になったのである。しかし、蛇窪神社(上神明天祖神社)の名前は現代にも残されている。

蛇窪神社を地図で調べると戸越公園駅より中延駅の方が近いことが判明、都営地下鉄中延駅で降り、神社を目指す。すぐ前に国道1号線が通っているが、右に曲がり、東急バス営業所がある二葉四丁目信号を左。



三間通りを少し歩き、2つ目の信号を左に入ると鳥居がある。神社までは信号待ちを含めて10分程度。鳥居には『蛇窪神社』と書かれていて荏原七福神、蛇窪大明神などの幟がはためいている。





正面が本殿となっていて比較的新しい(?)と思ったら火災に遭い1961年に新築されたとのこと。御創建は1323年(鎌倉時代末期)で主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)。由緒は旱魃の際に雨乞いを龍神社で行い、大雨が降ったことからこれに感激した北条重時の家臣たちが蛇窪に神社を勧請。



元は神明社だったが、村社に昇格、天祖神社となったが、令和元年の御大典を記念し、通称であった蛇窪神社を正式な社名にした。本殿両側には蛇窪と書かれた提灯が置かれ、中には干支の龍の図が奉納されていた。





脇道を行くと正面に白蛇弁天社。由緒は鎌倉時代にはこの辺りに清水が湧き出る洗い場があり、白蛇が住んでいた。しかし、その後洗い場が無くなり、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ、元に戻して欲しいと懇願した。

これを契機に地元融資で白蛇弁天社を造ったもの。神社の両側には狛犬ならぬ『狛蛇』が2匹、さらに池の周りにも白蛇がいる。



右奥には蛇窪龍神社、ここには7匹の白蛇と全長8mの白龍が配されている。隣にはメスとオスの撫で蛇、身体の悪いところを撫でるとご利益がある。



白蛇種銭つなぎという金運を願う祈り方があり、200円志納して臼の上に種銭を置き、3回回して種銭を財布等に入れておくとお金が増えるというご利益がある。

私も種銭をいただき、石臼に乗せて回し、種銭をゲットした。



入口近くには法密稲荷があり、鎌倉時代に京都伏見稲荷に勧請、分霊をお祀りしたもの。ご鎮座700年を記念して令和4年11月に今の名前に改名した。





ここには『運玉』があり、100円を納めて玉を3つ取る。線を引いたところから満願岩の窪みに投げ入れば願いが叶うというもの。もちろんやってみたが、コントロールが悪く、外してしまった。



とにかく、狭い境内に4つの神社があり、色々とアミューズメントとも言えるチャレンジができる楽しい神社である。2025年は蛇が干支(但し、私は12月に参拝した)、12年に1度でもあり、お正月にお参りしても面白いだろう。
巳年が良い年となりますように。


人形町の歳の市を歩く

2024-12-27 05:00:00 | 日記
いよいよ年の瀬、12月25日から人形町通りの水天宮前〜人形町の約500mの間に露店が30軒造られ、正月用品などを売る歳の市が開催されている。人形町では夏のせともの市、秋の人形市とともに暮れの1週間に市が立つことが恒例となっている。



人形町を取り仕切るのは江戸町火消しの流れを汲む『は組』で提灯をぶら下げ、揃いの法被を着て松飾りを始め、鏡餅、ミニ門松、ゆずりは、橙、ウラジロなどを商う。



特徴はどの露店も値段が一切書かれておらず、店の人との掛け合いで決める。それでも鏡餅はラミネート加工されていて昔のように青黴まみれになることはないようだ。お飾りもよく見てみると達磨が付いた飾りや干支が飾られたものなど店により特徴があり、大きさもまちまち。

また、鏡餅に至ってはこんな大きな餅をどこに飾るのだろうというものもある。なぜか正月用品を売る店は人形町を背にして右側に固まっている。





反対側では色々な日用品や食品を商う。カレンダーや翌年の暦、毛糸で編んだ帽子や靴、苔玉や盆栽を売っている。



ベビーカステラや焼き栗、干し柿や塩蔵わかめ、みかんなどの食べ物を売る店など同じ物を扱う店は2軒とない。

店は昼頃から開け始め、夕方6時過ぎくらいまでである。通りに沿って330個の提灯が設置されて夕方以降は火が入り、風情たっぷりである。



毎年、昼休みか帰り際に店を冷やかすが、あまりこの市で買い物はしたことがない。なお、開催期間は年末31日の大晦日までである。

『久我山歳時記』(55)〜いよいよ冬至

2024-12-22 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』(55)12月21日は冬至、つまり太陽の南中高度が最も低くなり、日の出から日の入りまでの『昼』が最も短く、『夜』が最も長くなる日である。今年の東京では日の出が6時47分、日の入が16時32分、つまり『昼』が9時間45分、『夜』が14時間15分、夜が昼より4時間30分長くなる。夏至の『昼』は14時間34分だから約5時間昼間が短くなるのである。

ただ、以前も書いた通り、日の出が最も遅いのは1月1日〜13日の6時51分でまだ遅くなっていく。しかし日の入が早いのは11月28日〜12月12日の16時28日であり、既にピークは過ぎて、だんだん日の入は遅くなっている。



冬至は今年最後の二十四節気であり、本格的な冬の始まりと位置付けられている。12月19日には東京でも初冠雪が記録されたが、七十二侯では『乃東枯(なつくさかるる)〜12月26日』『麋角解(さわしかつのおつる)〜12月30日』『雪下出麦(ゆきくだりてむぎのびる)〜1月4日』とされている。



乃東枯は空き地を見ればイメージが掴めるが、既にススキやエノコログサなどは枯れて黄色くなり、タンポポのように葉を思い切り広げて少なく、短い太陽光をなんとか取り込もうとする植物もある。

次の麋角解は日本のことではない。日本にいる鹿のツノが落ちるのは春なのだが、『麋鹿(ミールー)』という中国の大型の鹿の角が落ちるのがこの頃らしい。

最後の雪下出麦は麦の若葉がそろそろ出て来る季節ということだが、強い麦を作るために麦踏みを行うのがかつての日本の風景であった。

この時期は草は枯れ、花は少なくなるが、今年は冬になるのが遅かったこともあり、まだ、イチョウの葉も落ちずに綺麗に黄葉している姿を見ることができる。



花は山茶花がピンクや白の花を咲かせているし、ツワブキの黄色い花も咲いている。お正月に飾られるセンリョウも赤や黄色い実を付けている姿を見ることができる。




一時に比べるとかなり減ったとはいえ、久我山でもクリスマスのイルミネーションが美しい。



また、夜が明ける時間が遅いため、普段通りの通勤途上でも空には煌々と月が輝き、さらに西の空を見ると今年は木星が驚くほど明るい光を放っている。



夜明け前(5時過ぎ)には西の低い空に木星、月の近くに見えるのは火星である。夜が長いことも悪いだけではない。(夜明けには金星は見えない)

干支の手拭いを買いに浅草へ

2024-12-18 05:00:00 | 日記
暮れの浅草に来年の干支の手拭いを買いに来た。浅草観音横にあるふじ屋さんに翌年の手拭いを買うのが恒例となっている。



都営地下鉄浅草駅下車、そこから雷門まで行き、仲見世通りを歩く。既によく分かっていることだが、とにかくインバウンド客と修学旅行生で溢れかえっている。

仲見世は以前お土産を売る店が大勢だったが、最近は食べながら歩けるいちご飴やメロンパン、吉備団子、カップに入ったソフトクリームなどを商う店が増えてきている。もちろん、昔からある雷おこし、人形焼、揚げまんじゅう、切山椒なども今もあるが。

仲見世は雷門近くは細く、徐々に広くなるのだが、伝法院通りと交差するあたりまでは混み合って動きが取れない。その先は流石に動きが取れるようになった。それにしても和服の若い女性を多いと思ったが、よく見ると殆どが中国人女性。レンタルの着物を着て歩くのが流行っているようだ。





宝蔵門には小舟町の大提灯、参道には3つの大提灯があるが、それぞれに特徴がある。裏に回ると仁王様の大きな草鞋が2つ、奉納しているのは山形県村山市、10年ごとに新しいものに取り替えられる。この草鞋は45mもある。この辺りからは左側に五重塔、前には本堂が見えてくる。



本堂手前にはお守りやおみくじを売る授与所が多く設けられているが、それぞれに参拝する人でいっぱい。特にインバウンドの方々にはおみくじは人気がある様子、ここのおみくじは凶や大凶が多いことは知っているのだろうか。



本殿の階段を登るが、入口に賽銭箱が置いてあるため、ここで賽銭を投げ、中に入らず帰る人が多い。せっかくならば中に入り、観音様に手を合わせた方がいいのだが。それでも知らないことは色々、例えば本堂の天井には立派な絵が描かれていた。何度も足を運んでいながら初めてじっくりと見たのである。私も参拝をするが、何と柏手を打つ人が多いことか。ここはお寺であり、神社ではない。





無事参拝をして本堂を後に左にある二尊仏の方に行く。二尊仏は1687年に上野国館林大久保村の高瀬善兵衞という人が願主になり勢至菩薩と観音菩薩を造立したもので濡れ仏と言われている。



その先を右に曲がると『ふじ屋』さんが出てくる。手染め手拭いの老舗で毎年末に翌年の干支に因んだ新柄を2枚作る。来年は乙巳(きのとみ)のため、蛇の図柄かと思ったが、横の手拭いは江戸の街に巳と書いた凧が上がったデザイン。(赤で囲んだもの)
縦型は和服の人が巳巳巳と書かれた扇を持った図案となっている。悩んだ挙句、横型を購入した。店の人に『干支の手拭いには蛇が描かれているかと思っていたけど、両方とも字で巳と書いたのですね』と聞くと『蛇は縁起がいいとはいいますが、絵柄にするとやはり気持ちが悪いのでこうなったみたいですよ』と教えてくれた。



初めてこの手拭いを買ったのが未年(前々回)なので22年も前のこと、光陰矢の如しである。


『干支』『方角』を調べる〜艮、乾、坤、巽を読めますか

2024-12-14 05:00:00 | 日記
『改めて日本語を考える』その51。毎年一度だけ、年賀状を書く段になると干支のことを思い出す。簡単に言うと十干(じゅっかん、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせたもので、その順番は『甲子(きのえね)』からスタート、次は『乙丑(きのと)』『丙寅(ひのえとら)』『丁卯(ひのとうさぎ)』と繋がって60通りが終わって一回り、これが還暦である。

このルールは『木、火、土、金、水』の『き、ひ、つ、か、み』にそれぞれ『兄(え)』『弟(と)』をくみあわせて『きのえ』『きのと』『ひのえ』『ひのと』『つちのえ』『つちのと』『かのえ』『かのと』『みずのえ』『みずのと』と呼ぶ。

さらにその下に十二支をつけて干支となる。2025年は『乙巳』だから『きのとみ』となるのである。

十二支は日本では方角も表す。北から『子丑寅卯辰巳・・・』と続いていって30度ずつずれていく。このため、90度ずれると『卯』が東、『午』が南、『酉』が西を表す。

南北に伸びる線を子午線とよぶのである。では北東はというと『丑寅』(うしとら)の方角というのだが、これを1字で表すと『艮』。良という字の点を取ったような時である。

(有楽町線辰巳駅)

(大阪市営地下鉄千日前線北巽駅)

同じように南東は『辰巳』で一字では『巽』、南西は『未申』で一字では『坤』、北東は『戌亥』で一字では『乾』となる。

例えばここから出た言葉が『乾坤一擲』、意味は『大勝負をすること、一か八か、』などとなる。出自は中国唐代の韓愈という詩人が詠んだ『鴻溝を過ぐ』という詩の中で項羽と劉邦の戦いが休戦となった。そして両軍が東西に分かれた時に劉邦が急にUターンして項羽を攻撃したことを『誰が君主に馬首を回らすを勧めて真に一擲乾坤を賭するをなせる』と詠んだのが始まりと言われている。
色々な地名や戦いの名前などにもよく使われるので覚えておくと役に立つこともある。下の喜撰法師の歌も自らの庵が京都の南東である宇治市にあった、その為私のことを宇治山と呼んでいるという意味がわかるのである。

(例えば壬申の乱、戊辰戦争、庚午年籍、辛亥革命、甲子園球場など)