hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

高井戸不動尊

2015-02-28 05:00:07 | 日記

車の車検のために高井戸中の橋辺り(環八と高速4号線の交差点)まで車を持って行った帰りに高井戸駅まで歩くことにした。しばらく行くと歩道橋があるため渡るが、上からは両方向の車列がよく分かる。

反対側に行くと歩道橋の下には交通課の署員が2人、自転車を止めて一生懸命取り締まりをしていたが、まあ、自転車ではなあと通過する。
少し高井戸駅よりに『高井戸不動尊』の看板があり、参道が続く。100mほど行くと目の前に御嶽山と書いた小さな社、右側には山門がある。


入口の区役所教育委の立て札には『明治16年に作られた寺社。当時上高井戸の並木卓善という人が熱心に成田山不動尊の信仰しており、明治6年に成田山新省講を発足させ、新しい寺を建立しようとしたが、禁止されたため、谷中の吉祥院を当地に移した』といった内容が書かれていた。



寺の山門をくぐると左には築山のような成田山、真ん中に本堂、右手には地蔵堂、さらに入口横には御嶽社が揃っている。本堂に行きお参りをするが、中には不動明王像が鎮座していた。



環八から僅かきただけでもう静寂の中、立派な意思を持ち、事実上明治に開基した寺とは思えない風格に感心した。さらに『成田山』には水掛不動尊をはじめ色々な不動様がたくさんいらっしゃり一つずつの表情を眺めるのも一興である。

本当の蛇足だが、お参りの後、環八に戻り、駅に向かった。するとなんと先ほどの2人が、一台の黒のセダンを止めているではないが。何をしたのか知らないが、しっかり交通違反者を捕まえていたのには驚いた。勿論、あの二人に手柄を立てさせることなどをお不動様に祈った訳ではない。

新京成電鉄(2)

2015-02-27 05:00:04 | 日記

鉄道シリーズ その93。新京成電鉄(2)だが、滝不動駅で降りたところから。滝不動駅は高架駅だが人気がない駅で地図や表示も少なく、ただ、不動尊は右側とのみ、階段を降り、線路に沿ってやや広い道を右に曲がる。iPhoneを持っていなければ決して辿り着けないだろう。次の信号を右折して10分くらい左右に立派な農家が並ぶ道を歩くと正面に御滝公園が現れる。


さらに先に行くと公園の裏に寺の入口があった。正しくは御滝不動尊金蔵寺、創建は1423年。寺の由来は『能勝阿闍梨が通りかかった際に今の境内付近が夜も明るくなるほど輝いていると村人がいうので、21日間護摩業をすると夢枕に円仁が立ち、自らが彫った不動明王像がこの地に埋まっていると言った。これを知って掘るとその通り木像が表れ、さらに掘った後から水が湧き出し滝となったという伝説がある。これを機に御滝信仰が起こり、庵を作り像を祀ったが、金蔵を置いたため金蔵寺』という。



本当かどうかは分からないが、立派な本堂があり、鐘楼代わりの山門をくぐると滝が流れている。ただ、下にはバケツで水を受けてはいたが。


お参りをしてまた15分かけて駅に戻るが、その名を付けた場所ならば、せめて駅に地図くらいあればなあと思う。

10分間隔のため少し待って松戸行きに乗る。鎌ヶ谷大仏駅までは3駅、立派な駅で自動販売機が電車のように塗装され、子供は喜ぶだろう。


駅を降りて右方向に3分位歩くと鎌ヶ谷大仏は鎮座している。この大仏は1776年に鎌ヶ谷に住む福田文右ェ門が先祖の霊の冥福を祈るために作った私物の大仏であり、今も福田家が所有して墓地の中にある。高さが1.8m、台座も入れて2.3mと大仏というには些か小さいが、こじんが持つものならばこんなもんかと思う。



しかし、私人が建てた大仏が駅名になるとはさすが新京成と感心。東京の真ん中にあったらがっかり名所になりそうである。


鎌ヶ谷大仏駅から松戸行きに乗るともうあまり楽しそうな駅もなく、23分で松戸に到着。さすがに八柱駅を過ぎると街中になり、乗客もかなり増える。最初と最後は普通の私鉄、あとはローカル私鉄なので準大手私鉄なのかも知れない。最初から最後まで乗っても44分、お散歩にはいいと思う。




新京成電鉄(1)

2015-02-26 05:00:35 | 日記

鉄道シリーズ その92。今回は新京成電鉄を訪れた。新京成というとどうしても新興住宅地どう畑の中をガタガタ言いながら走る単線の鉄道というイメージだったが、乗ってみてイメージでものをいうべきではないことがよくわかった。

保有路線は新京成線(京成津田沼~松戸 26.5km)1本で京成千葉線と相互乗り入れをしている。1947年12月新津田沼(今のところとは少し違う)~薬園台で開業、1955年に全線開業、1975年には一部区間(京成津田沼~新津田沼)以外は複線化している。路線は千葉県習志野市~松戸市と全て千葉県内を通る関東地方唯一の準大手私鉄である。

また、扇型をした路線のため、放射状に伸びる各鉄道と連絡しており、京成千葉線・JR総武線・東葉高速線・東武野田線・北総線(成田スカイアクセス線)・JR武蔵野線・JR常磐線と7本にも及ぶ。本社以外に『新○○』という鉄道会社を持っているのは戦前にあった新京阪鉄道(現在の阪急京都線にあたる)があった位で今もその名が残っているのは珍しい存在かもしれない。

今回は京成津田沼駅で乗り換えたが、ホームに着くと新京成カラー(ジェントルピンク)塗色8800系の松戸行が入線してきて乗ると『この電車は2番目の発車で直通電車が先に出発する』とのアナウンス。

止む無く反対側のホームに行くと京成千葉線からの乗り入れの8800系の松戸行が入線、こちらは乗り入れ塗色である。

混んでいるかなと見るとあらかたの乗客は下車してガラガラの電車がスタート。すぐにJR総武線を跨線橋で渡り、左にカーブして新津田沼駅に到着。ここでJR津田沼駅に連絡しているため、乗降客は多い。そこから、前原(まえはら、九州ではまえばると読むが)、薬園台、習志野、北習志野と止まる。北習志野は東葉高速線への乗り換え駅だが、新しくて綺麗である。

更に高根木戸、高根公団と駅間短く止まるが、殆ど特色がない。因みに高根公団駅の由来は駅そのものが1961年に隣接する高根台団地造成に合わせてできたことによる。日本住宅公団もなき今、公団と残されているのが、その歴史を語るようである。

特色がない駅が続いたが、漸く降りてみたい『滝不動駅』に到着、下車するが同様に下車する人すらない。ここからは次回に報告したい。

各駅停話~井の頭線(2)

2015-02-25 05:00:50 | 日記

以前に朝日新聞夕刊に掲載されていた『各駅停話』のことをブログに書いたが、富士見ヶ丘止まりだったことを思い出し、残りの話を紹介する。

まず、久我山駅は国学院久我山高校がこの冬駅伝・ラグビー・サッカーの全国大会に出場したのでその事が書かれるか、毎年恒例のホタル祭りのことに触れるかと思っていたのに久我山駅に毎年来る『ツバメ』の話題。確か昨年は来なかったはずだがと思い出したが、やはりそうだった。

次の三鷹台駅は太宰治が入水して有名になった玉川上水の話。今は静かな流れだが、かつては人食い川と言われたエピソードも紹介されていた。

井の頭公園駅は予想どおり『かいほり』の話題と凛々しい眉の唯一のオスと言われるスワンボートの話。因みにこのボートは3番を付けているので番号で探すとすぐ見つかる。

終点の吉祥寺駅は最近新しいビル、キラリナ京王吉祥寺ビルやヤマダ電機、UNIQLOなどとハモニカ横丁の対比。
最後の2駅はほぼ予想どおり、しかし、久我山は他にも話題は色々あるに、これではアド街はまだ時間がかかりそうだ。

千葉寺

2015-02-24 05:00:28 | 日記

『古刹を巡る』その 28。朝一番で千葉に来たばかりではないのだが、久々に千葉寺にお参りをする。

そもそも千葉県は明治6年に木更津県と印旛県が合併した際に千葉町に県庁が置かれたため付けられた名前である。では千葉町はというと鎌倉時代にこの辺りを支配していた豪族が千葉氏であり、その城が千葉城を有していたからと言われる。(ただし、その後豊臣秀吉の小田原評定に敗れ、千葉氏は断絶するが。)その千葉氏が城から近いために菩提寺としていたのが千葉寺となる。

千葉駅からは京成千葉線でちはら台行きに乗り、2駅目。ただし、途中の千葉中央からは電車が半分の本数になり、20分に一台のペースになるが。千葉寺駅は『ちばでら』と読むが、高架の立派な駅。そこから降りてセブンイレブンを左手に、次の信号を左に行った右側と簡単だが、信号までもそれからも遠い。

ようやく山門に着くが、中には瀧蔵神社もある。本殿もコンクリート製だが立派な大きな建物。正式には海上山千葉寺というが、『せんようじ』とも『ちばでら』とも呼ばれる。本尊は十一面観音さまで、坂東三十三霊場第29番札所である。


真ん中のイチョウが立派で前に来た際には秋であったため、その紅葉も見事である。最近では藤沢の遊行寺のイチョウや根津神社のイチョウが素晴らしかったが、決して引けを取らない。


ただ、訪れる人も少なく地元の方が朝から丁寧に掃除をされているすがたはすがすがしかった。


余談だが、朱印を頂いたのだがそれを天地逆に書かれてお寺の方がとにかく恐縮至極であった。申し訳ない。


『特急あやめ』乗車記

2015-02-23 05:00:12 | 日記

鉄道シリーズ その91。3月14日のダイヤ改正の話は先日のブログにのせたが、その中で今回廃止になる特急言っても北斗星に乗る時間も予算も余裕がなく、もう一つ廃止になる特急あやめに乗りに行った。

特急あやめは1975年3月に鹿島神宮~東京のエル特急として4往復が設定された。エル特急は毎時同じ時間に走る特急で当時国鉄が急行を特急化した第一弾であった。しかし、4往復ということで果たして毎時同じ時間発と言えたかどうかはわからないが。(乗客数から言えばせいぜいこんなものであったようだ。)

その後1985年には急行鹿島を特急に格上げし、あやめは5往復となり、さらに両国~佐原~銚子の急行水郷を特急すいごうに1往復格上げしている。1991年には成田エクスプレスの開業で東京~佐原で8分スピードアップをした。しかし、乗客数の減少から1993年にあやめ2往復、すいごう1往復廃止、1994年にはあやめ2往復が廃止され、ついに1往復(すいごうも1往復)になり、エル特急の肩書きを外された。その後も通勤快速などとの統廃合や車内販売休止などの憂き目にあいながらも細々と営業を続けてきたが、今回で定期列車での運行は最後になる。

小生もかつて95~97年に茨城県鹿島地区の営業をした関係でバスの嫌いな上司と乗ったことが数回あったが、鹿島神宮駅~佐原駅は各駅停車でそれでも乗客は殆どおらず、並行する特急バスの混雑とは対照的だった。その原因は本数だけでなく、鹿島神宮駅のアクセスの悪さである。ビジネス客は鹿島地区の中心にある鹿島セントラルホテルをターミナルに使うのだが、駅は町外れ、確かに鹿島神宮は近いことは近いが。さらに価格もバスが安いため、今回の措置は当たり前といえよう。

とはいえ何回か乗ったことのある特急あやめが廃止されるならばと上りのあやめ2号に乗りに佐倉駅まで行く。(下りは日のある時間には走っていない。)中途半端と思われるかもしれないが、銚子発は6時54分と泊まらなくてはとても乗れない。朝一に家を出て到着できるのは佐倉か成田が限界。少し寝坊したので佐倉到着は8時12分(それでも久我山発6時18分)。一旦改札を出て、千葉までの切符と自由席特急券を買って3番線で特急の到着を待つ。すると黄色と紺色のツートンの車両が8時22分定刻に到着。乗る客はそれほどはいない。恐れていた葬式鉄のファンもちらほら程度。

座席も7割程度の2人座席に1人着席という状態。まあ、これなら廃止もやむを得ないかなあと思う。8時24分には定刻通り発車、四街道駅も通過で畑の中をひた走り、千葉には8時38分に到着。あまり感動もないが、やはり一本遅らせてあやめ4号に乗り、もう少し味わえば良かったかなとも考えた。

車両はかつての183系が使われた頃は懐かしいが、今のE257系は席はもちろんトイレや洗面所も新しく素晴らしい。いつも乗りに行かずに『ああ、乗っておけば良かった』となるが、今回は満足感溢れた。ただ、千葉に8時38分に到着して思わずこのあと何しようと思っている自分がいた。

東日本橋

2015-02-22 05:00:57 | 日記

日本橋町巡りシリーズ その16。今回は東日本橋、北西は馬喰町・横山町、南側は浜町、東側は隅田川に囲まれている。但し、他の町とは違い新しい名前であり、1丁目は薬研堀町・若松町・矢ノ倉町・村松町など5つの町、2丁目は両国町、3丁目は橘町の計7つの町が合併して1971年に現在の住居表示となったもの。

交通の便利場所で都営地下鉄浅草線東日本橋駅、JR総武線馬喰町駅、都営地下鉄新宿線馬喰横山駅の何れからもほど近い。

町全体は隣の横山町同様に衣料問屋街とオフィスビルが林立するあまり特色のない街である。


江戸時代の明暦大火以降は両国橋の袂の火除け地として両国広小路と呼ばれ興行師達が芝居小屋や見世物小屋を出す許しを幕府から得て賑わった場所で、特に夏の両国花火大会などの時期は大量の人が集まった。

今は両国というと川向こうだけに地名は残っているが、明治時代は西側を日本橋両国、東側を東両国と呼んでいた。しかし、住居表示変更以降は駅が作られたこともあり、今は東日本橋が定着している。

今も薬研堀不動院があるが、その名前にもある『薬研堀』は江戸時代に矢ノ倉と呼ばれる米倉が置かれたため、隅田川から今の日本橋中学辺りまでL字型の堀が作られた。その堀がV字型で薬研に似ていたため、この名前がついた。もちろん七味唐辛子で有名な薬研堀はここのことである。



薬研堀不動院は目黒不動尊、目白不動尊と共に江戸三大不動尊と呼ばれる。現在は川崎大師の別院で境内横には遍路の像や順天堂創始の地、講談発祥の地など様々な碑が建っている。因みに七味唐辛子はそばにある大木唐辛子店に行くと買えるらしい。(東日本橋2ー21ー5)


戦災で殆どが焼け出されたこともあり、他にはあまり歴史のある建物もなく、キンチョーやカゴメの東京支店などが目立つくらいである。

東日本橋は昔の地名が無くなった数少ない地区の一つであり、その昔と今では位置付けも全く変わってしまった地域のようだ。

風邪雑感

2015-02-21 05:00:21 | 日記

風邪なんて引いて寝込んだのは何年ぶりであろうか。先週の金曜日に根津で寒い中呑んでいたのが敗因なのか、パジャマのズボンのゴムが緩くて背中を出して寝たのが悪かったのか、考えてもしょうもないが。

いつもは週末金曜日に熱が出て月曜日には何とかなるはずなんだが、今回は月曜日の朝から喉がいがらっぽかった。夜中の3時に気づいていつも飲む売薬を服用したが、効かない。それでも月曜日は晩酌して寝たのが、夜中から喉が更に痛くなる。やむなく火曜は会社に行くが寒いこともあり、社内事務をまとめて片付けようとしたが、集中できない。

水曜日は休もうかは考えたが、外せない会議も朝からあり、何とかこなすが、もうダメ。午後に医者に行き、幸いインフルではない(熱も殆ど出ていない)ことは確認したが、薬を処方してもらいながら、『とにかく、すぐに寝てください。もう、若くないんだから。無理はできませんよ。』とピシャリ。その後は酒も飲まず、ゆっくり寝て養生に勤めるもやはり中々治らない。硬いものや酸っぱいものも辛く、ウドンばかり食べている。

老化はこんなところから来るのかな。これが実感。それにしても声も出ず、鼻水も黄色くなり(汚くてすいません)、ガッカリすることばかりのこの1週間であった。トホホ。
因みにまだ治らない。

小日向の坂道(2)

2015-02-20 05:00:16 | 日記


『江戸の坂・東京の坂』その26。小日向あたりの坂道の2回目。切支丹屋敷の先を左方向に行くと切支丹坂でその先が東京メトロ丸ノ内線の下をくぐるトンネルとなっている。よく考えると地下鉄の下を通るトンネルというのも些か不思議ではあるが、後楽園~茗荷谷間はほぼ地上を走るため不思議ではない。


トンネルを越えたあたりの目の前の急な階段の坂道が『庚申坂』。坂を登りきると茗台中学の横に出て、すぐに春日通りだが、坂の下にかつて庚申の碑があったため、その名前が付いた。

坂をまた降りて左方向行く。すると東京メトロの車庫の脇を通るが、しばらく歩くと巻石通りにぶつかる。


それを右手に、さらに一つ目を右手に小日向台を登る坂が『荒木坂』である。これは江戸時代に坂の上には荒木志摩守の屋敷があったのでその名前がある。

坂を登り、左折するとみずほ銀行研修所の前にでるが、その先を左に折れると『薬罐坂』となる。

さらに巻石通りの直前を右に曲がる登り坂が『横町坂』。


そして突き当たりを左に下る坂が『服部坂』である。ここも江戸時代に坂の上には服部権太夫の屋敷があったためこの名がついた。坂の上、左手には小日向神社がある。



また、巻石通りに戻り、江戸川橋方向の次の信号が大日坂下、右に曲がると『大日坂』となる。この坂の名前は今も坂の途中にある大日堂があるからである。また、標識には小日向の名前の起源も「かつて鶴高日向という人の領地だったが、絶家後に『古日向』と言っていたのが、いつの間にか『こひなた』になったのであろう」と書かれている。


小日向地区は台地で音羽の谷からも茗荷谷からも台地となり、そのため、周囲に坂道が点在、更に東京メトロ丸ノ内線のすぐ横にかつて清水谷と呼ばれた谷もあり、なかなか起伏の激しい地形であることが実感。ここも夏の日には厳しい地区であろう。

泉岳寺

2015-02-19 05:00:08 | 日記

『古刹を巡る』その27。最近、泉岳寺駅周辺が注目されている。というのは山手線新駅が田町~品川間に新たに作られることになり、そこ候補地はこの辺りと言われているからである。

つい先日の愛宕山のブログに鉄道唱歌の1番を紹介したが、2番に『次は高輪泉岳寺、四十七士の墓所(はかどころ)、雪は消えても消え残る、名は千載の後までも』とある。

都営地下鉄浅草線泉岳寺駅は京浜急行線と都営地下鉄浅草線西馬込方面の分岐点となっており、ホームも4つある。高輪側に出ると左に行くと京浜急行電鉄本社、右に行くと泉岳寺に向かう。

泉岳寺方面に上がり、緩い坂を登るとすぐに左側に山門が見える。なお、道なりに右に行くと伊皿子坂に出る。

泉岳寺は徳川家康が1612年に門庵宗関を招き創建、1641年に寛永の大火で焼失したが、徳川家光が諸大名に命じて今の地に再建させたもの。ともかく、鉄道唱歌にある通り、忠臣蔵で有名な赤穂四十七士の墓所として名高い。

山門には垂れ幕が下がり、周辺に8階建マンション建築により景観が悪化するのに反対とかかれている。中に入って行くと土産物屋が3軒並び、山鹿流陣太鼓を大石蔵之助が打ったという故事に因み、陣太鼓を売っている。

境内は禅寺らしく質実剛健、本堂にお参りしたのち、四十七士の墓所にお参りをする。


墓所は赤穂義士記念館の前にあり、手前には首洗いの井戸、ここで義士たちは吉良上野介の首を洗ったらしい。ちなみに首洗いの井戸の周りの石の柵を寄贈したのが川上音二郎というのに気づく。


入り口に近い方から浅野内匠頭の夫人、浅野内匠頭の墓があり、奥に義士の墓はまとめてある。


なかでも大石蔵之助と大石主税だけは屋根があり、その序列を感じる。討ち入りのシーズンではないが、訪れる人は多い。もう白梅も咲いていてのんびりとした雰囲気。


寺内は綺麗に掃除され、余計なものがない立派な寺院である。

ついでと思い、第一京浜を渡り、京浜急行電鉄本社横の新駅建設が見込まれるあたりを見に行く。児童公園の遊具に乗って線路方向を見るとかつての操車場から線路は取り除かれ、整地をしている。


その前を山手線と京浜東北線が通り、さらに遥か向こうを東海道線と東海道新幹線が走っていた。もう何年かするとまるで風景は変わるであろう。