hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

三田駅(2)

2018-02-28 05:00:09 | 日記

『メトロに乗って』その80。三田駅の続き。旧中央信託銀行本店の横から桜田通りに向かう。一本裏道に入ると古い小規模なビルやマンションが多い地区である。


桜田通りに出るとその先には東京タワー。左に曲がるとすぐのところに慶応義塾前郵便局、これはかつて東門を出た坂道の途中にあったものだが、移転して立派なビルの一階に移転している。


反対側には慶應義塾大学東門が見える。かつては旧図書館から下りてきた小さな門で学生からは『幻の門』と呼ばれていたが、旧図書館を模したもはや門とは言えないほどの立派な建物となっている。


せっかくなので慶應仲通りを歩いてみるが、茶の木稲荷は昔のまま。しかし、商店街も一見昔のままのようだが、店はかつての個人経営の居酒屋や喫茶店、商店からチェーン店に変わってしまっている。


昔から変わらないのは制服を誂える洋服屋と中華料理屋、寿司屋くらいであった。

田町駅前まで来たが、第一京浜を右に折れる。札の辻を越えて、反対側に笹川記念会館が見えてくるあたりまで10分ほど歩くと『御田八幡神社』が出てくる。この神社が三田の総鎮守であり、御田=三田の名前の由来なのである。


縁起は709年に東国の総鎮守として設立、1011年にこの地に遷座した。その後、火災で社殿を焼失したり、三田八幡神社に名を変えたりしたが、1897年に現在の名前に復し、現在に至る。

昔は前を東海道が通り、その先は海岸であったため、小高い社殿からはさぞや美しさ風景が見れたのであろう。三田に来る機会は多かったが、御田八幡神社にお参りしたのは初めてであった。

ハゲ天東京駅店〜東京駅ランチグルメ

2018-02-27 05:00:56 | グルメ

今日は12時前に東京駅近くで仕事が終わり、昼飯と思い八重洲地下にある黒塀横丁を歩くが、出足は早く、牛タンの店など長い列ができている。時間もないが、ここで麺類も芸がないと歩くうち、先日銀座で訪ねた『小ハゲ天』の親玉、『ハゲ天』の出店を発見。全て揚げたて天ぷらの謳い文句に惹かれ入店。

店入るとごま油の良い香りがする。天ぷらの高級店だが、ランチのかき揚げ丼は千円札でお釣りがくる(税込972円)。席に着くとすぐにお盆に漬物、箸、お茶が乗って登場。

カウンター内では2人の職人が天ぷらをひっきりなしに揚げている。店は私で満員だったが、やはり私のような『かき揚げ丼』狙いが多く、回転はいい。


5分ほどして蓋付の丼と味噌汁が到着。味噌汁はシジミ入りの赤だしである。丼の蓋を取ると大きなかき揚げの上にかぼちゃの天ぷらが乗っている。

ご飯を探しながらもかき揚げをちぎると小エビと貝柱が出てくる。やや甘めの丼つゆが染みたかき揚げとご飯を食べるが、揚げたてでかなり熱い。しかし、この味は空腹にしみて美味い。

その後はご飯を掘り進めながらかき揚げをちぎり、漬物もつまむ。こんな丼をゆっくり食べられる訳がない。

赤だしも6つシジミが入っていて、下手な箸で身を出しては食べるがかき揚げ丼との相性が抜群である。周りも殆どがかき揚げ丼、若者から中高年までが注文している。味も一流、値段はリーズナブルでいうことなしである。

ハゲ天東京駅店
千代田区丸の内1ー9ー1東京駅黒塀横丁
0332158910



























『仁和寺と御室派のみほとけ』展に行く

2018-02-26 05:00:56 | 日記

東京国立博物館平成館で開催中の『仁和寺と御室派のみほとけー天平と真言密教の名宝ー』にようやく行くことができた。この企画展は1月から開催されているのだが、どうしても実物をこの目で見たかった仏様が2月14日からお出ましになったからである。

この手の展覧会はお年寄りの来場が多いため、夕方からの方が空いていると土曜日4時に博物館に到着、案の定列はない。中に入るとまずは仁和寺の生い立ちから始まる。宇多天皇が父の光孝天皇の菩提を弔うために888年に仁和寺を創建、その際からの本尊が阿弥陀如来坐像(国宝)である。

しかし、この仏像に行き着くまでに色々な書物や空海像、空海が中国より持ち帰った密教を記した本〜三十帖冊子、その入れ物など凄いものが続々と並ぶ。特に目を引いたのが天皇が手元に置くために作らせた薬師如来坐像、わずか15cmほどの白檀に掘らせた像だが、その細密な部分まで丁寧に作られた可愛らしさに感動する。もちろん国宝である。

そして、いよいよ、阿弥陀如来坐像だが、今回は仁和寺の観音堂を再現してあり、そこに実際に安置されている仏像が両脇侍に加え、天部など33体にも及ぶ。さらにこの部分のみ撮影が許されているのである。荘厳な姿には思わず頭を垂れた。



次に仁和寺を中心とした御室派の寺院から秘仏が多数だされていて特に大阪・金剛寺の五智如来像(重文)や大阪・道明寺の十一面観世音像(国宝)など見たかった仏像を沢山見ることができた。

そして感動がピークになったのは大阪・葛井寺の千手観音坐像(国宝)、これは月に一度しか公開されず、しかも暗くてよく見えない本当に1000本(実は1002本)腕がある仏像を前からならず後ろや横からもはっきり見ることができただけでも感動した。そして天平の名作と言われる美しく均整の取れた像を目に焼き付けた。


さらに33年に一度しか開帳されない福井・中山寺の馬頭観音菩薩坐像(重文)や徳島・雲辺寺の千手観音坐像(重文)、香川・屋島寺の千手観音像(重文)、兵庫・神呪寺の如意輪観音菩薩坐像(重文)など秘仏を多数見ることが出来て幸せな気分を味わうことが出来た。気がつくと6時前、時間が経つのの早さと有難味を感じた。

三田駅(1)

2018-02-25 05:00:49 | 日記

『メトロに乗って』その79。今回は都営地下鉄三田線・浅草線の通る三田駅で降りて駅周辺ゆ歩いてみる。まず不思議なのは地下鉄は三田駅、しかし、JR山手線は田町と違う駅名を使いながら同じところにある。これは浜松町駅と大門駅、原宿駅と明治神宮前駅と同じ関係なのかも知れないが、初めてくる旅行者にはかなりわかりにくい。

三田駅を降りるとすぐ前、箱根駅伝でも走る第一京浜に出る。そのすぐ先、三菱自動車本社前には『西郷隆盛、勝海舟会見の場所』と書かれた丸い石碑が建てられている。西郷隆盛は今年の大河ドラマの主人公であるが、慶応4年に当時ここにあった薩摩藩蔵屋敷で勝海舟と会談し、江戸無血開城を決めたのである。それによりかなりの人命が救われたとされている。当時はこのすぐ前は浜で、薩摩藩が海上輸送により運んできた物資を蓄えていたのである。余談だが落語で有名な『芝浜』もこの辺りで革の財布を拾うことから物語が始まる。

少し行くとNECの本社があるが、その裏手には『薩摩屋敷跡』の石碑がある。


蔵屋敷から歩いて5分程度の距離にあった。その奥には古い煉瓦製の土台の一部が残されているが、これは明治44年に煉瓦造り2階建の日本電気初代本社が建築された際の土台部分であり、現在高層ビルとなった今も残されている。


お隣の中央三井信託銀行(旧中央信託銀行本店)東京営業部のビルの裏には『芝さつまのみち』と題したパネルがある。


江戸時代には芝に各藩の江戸屋敷があったが、その中でも薩摩藩屋敷は東西800m、南北300mという広大な敷地であったことがわかる。(以下、次回)

赤羽周辺の坂道(4)

2018-02-24 05:00:32 | 坂道

『江戸の坂、東京の坂』その93。前回に続き、赤羽駅南側の坂道。前回に出てきた蛇坂の頂上までもどり、クランクのように歩いて行く道を行き、2つ目を左に曲がると道が細く、また、曲がるがこれが『鳳生寺坂』である。坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれているが、坂を下りたあたりには鳳生寺という太田道灌開基の寺がある。


その先をしばらく歩くと突き当たるがそれを右に曲がる。さらに道が二又に分かれ、右側の道が坂になって行くがこれが『野間坂』、これは右側に面している広大な土地がかつては講談社創立者の野間清氏の別宅があったため付けられたもの。


現在は跡地が北区立稲付公園となっており、ここからは赤羽のかなりの部分を見渡すことができる。


公園を抜けて少し先を左に下って行く階段坂があるが、これが『水車の坂』である。


昔はこの下には水車小屋があり、近くの農家が利用していた。水車に荷物を運んできた馬が坂の途中から落ちて死んだため、お稲荷さんと馬頭尊が並んでいたという。今は稲付川が暗渠となり、名残も全くないが、この坂の上からの眺めは最高である。


水車の坂を降りて少し歩くと二又になるが、この左側の坂が『游鯉園の坂』である。坂下にあった稲付川近くに游鯉園という川魚料理を食べさせる料亭があったため、この名前がある。


赤羽駅南側は現在は住宅地となっているが、以前は寺と農地が広がっており、そこに稲付川が流れていたのんびりした場所であったことが坂道を歩くことにより少しわかったのは収穫。ただ、道がクネクネしてまた細いことから道に迷い、坂も勾配がきついので苦労も多い坂巡りとなった。

赤羽周辺の坂道(3)

2018-02-23 05:00:17 | 坂道

『江戸の坂、東京の坂』その92。以前、赤羽駅北側のエリアに行ったが、今回は赤羽駅南側エリアに行く。JR赤羽駅西口を降りて十条方向に歩いてみる。実は赤羽駅の西側には丘陵が広がり、坂道が多い。イトーヨーカドーの先の細い道を右に曲がるとすぐ先に石段が見えてきてそこには『稲付城跡』と書かれている。


この城は太田道灌が築いたと伝わる城であり、その後に1504年道灌寺として建立された。その後、現在の名前に改められたが、太田家の菩提寺である。


階段を登ると寺に入るが、左右にも道があり、左側の細い道が『静勝寺の坂(じょうしょうじさか)』と呼ばれている。

坂を登り、その先を左に少し歩くと道に突き当たるが、『中坂』の中腹あたりになる。昔は清水が湧いていたらしい。


その先は二又に分かれているが、このうち右側に下る坂が『三日月坂』である。この坂は急坂であり、大正時代には帝国火工品製造所という導火線の工場があり、その物資運搬のためにできた坂。しかし、工場が火災で焼失、その後は住宅地となり、坂の頂上に三日月茶屋ができたため、この名前となった。


少し戻り、中坂からくる道を行き、2本目を右に降りて行く細い急坂があるが、これが『弁天坂』である。坂の途中に小さな祠があったが、これは坂の名前とは関係ないらしい。標識はないが、坂道の下のバス停は弁天坂下という。


弁天坂を下りた次の道を左に少し歩くと左のほうにダラダラ、またクネクネ曲がりながら登る坂がある。これが『蛇坂』であるが、この下には谷があり、湧き水が流れていて釣り堀があったようである。


また、坂の上を左に曲がり、稲付中学校(旧岩淵第三小学校)の手前を左に降りて行く坂道が『法安寺坂』である。坂を半分降りたあたりには法安寺の建物が今もある。(以下、次回)


西台駅〜浮間舟渡駅(3)

2018-02-22 05:00:34 | 鉄道

『メトロに乗って』その78。戸田橋から川岸を歩く。サッカー場は使われていなかったが、隣にあるゴルフ練習場には沢山のゴルファーが川に向かってボールを打ち込んでいた。


堤防に登ると前には新宿の高層ビル群がはっきりと見ることができる。堤防をしばらく歩き、下まで降りて少し歩くと氷川神社と十度宮がある。

この地には十度宮が元々あったのだが、その名前は洪水の度に石祠は流されたが、十度戻ってきたという伝承により付けられた。


そして昭和8年の中山道の改修の際に一度は蓮根氷川神社に移されたが、昭和20年に舟渡町ができ、昭和38年に地元住民から神社建設の声が上がった際にこの地に祠を遷座させたものである。


参拝のあとまっすぐ行くとすぐに浮間公園に出る。公園には大きな池があり、沢山の渡り鳥の飛来地となっている。また、池の側には風車が回っていて親子連れや鳥の写真を撮る人などで賑わっていた。


公園の入口のすぐ前には埼京線浮間舟渡駅になる。約2時間、9.6kmは意外に長かったが、植村直己冒険館や交通公園と見どころの多い散歩であった。


西台駅〜浮間舟渡駅(2)

2018-02-21 05:00:13 | 川と橋

『メトロに乗って』その77。城北交通公園を出てまっすぐ行くと再び高島通りに出る。これを右に曲がり、次の信号を左に渡ると御成塚通り。すぐに稲荷氷川神社がある。

御成塚通りをしばらくまっすぐ行くと国道17号に合流する。新河岸川に架かる橋が志村橋である。


今は何の痕跡もないが、都電の中で最も大きな番号である41系統の終点がこの志村橋電停であった。

1955年に都電板橋線志村坂上〜志村橋が延伸し、1966年に都営地下鉄建設により廃止されるまで都電では最北端に位置する。(41系統巣鴨車庫〜志村橋)

多分、この先が戸田橋で都県境となるため、この地を終点としたのであろう。現在の志村橋は1971年に作られた橋であり、完成時には都電は廃止されたあとであった。

志村橋を越えると戸田橋が見えてくるが、この橋も歩いて渡るまでにはかなり距離がある。車で行けばまっすぐ走れば戸田橋に至るが、左にある側道をてくてく歩き、少し大回りしながら坂を登ると交番があり、その先が戸田橋となる。

戸田橋が初めて架けられたのは1875年でそれまでは戸田の渡しという渡船があった。現在の橋は1978年に作られたもので幅員が21m、橋長が519mの7径間鋼連続箱桁橋という大規模な橋である。

並行して少し下流には新幹線や在来線の橋も架かっている。河川敷は戸田橋よりからサッカー場、戸田橋ゴルフ練習場、赤羽ゴルフクラブと並んでいて活用されている。


また、川岸には板橋リバーステーションが設けられており、非常時には輸送拠点として使えるようになっている。(以下、次回)

かめや神田西口店〜神田ランチグルメ

2018-02-20 05:00:29 | グルメ

人形町や新橋同様に神田駅周辺は立食い蕎麦激戦地である。この中でも評判の高い『かめや神田西口店』にお邪魔した。

神田駅西口から神田外語学院にむかう道は立食い蕎麦だけでなくランチ激戦区、特にうなぎ屋は並びに2軒あり、うな丼980円の安さ。ほかにも麺屋武蔵やココ壱カレー、はなまるうどん、地元のトンカツ屋などが11時を過ぎると客寄せの声が鳴り響く。

そんな道を3分ほど歩くと『かめや』の前に到着、何と24時間営業である。店に入るとカウンターを囲むように8つ席があり、その前には天ぷらのショーケース。張り紙には『お会計は前払いでお願いします』とある。そうか食券などはないのだ。店の人に『かき揚げそば』というとすぐに作ってくれ、お金を引き換えに360円渡す。

中には職人が2人いて、1人がそばを茹でて一旦冷まし、注文が入る度に鍋に投入して温め、丼にいれる。そこにもう1人がツユを入れ、かき揚げを乗せ、さらにネギを乗せてお客さんに供す。かき揚げを入れた人は注文が途切れるとかき揚げを揚げ始める。まあ、蕎麦は作りおきではあるが、ほぼ作りたて。

出てきたかき揚げ蕎麦はまずはツユから頂く。やはり少し濃く辛めの東京風だが、きちんと出汁が効いていて美味い。かき揚げは揚げたてサクサク、少し大きめに切った玉ねぎが程よくシャキッとしている。

そばも茹でたてのなので温めなおしでもコシがある。見た目はフワッと厚目に揚がっている天ぷらは中までサクサクして気持ちいい。これを一気に食べるのが立食い蕎麦屋でのマナー。寒い日には中で鍋がグラグラ、天ぷら鍋がシャーといっているのも暖が取れて有難い。腹に蕎麦を入れると身体が一気に暖かくなる。これも冬の楽しみかも知れない。ご馳走さま。


かめや神田西口店
千代田区内神田2ー13ー1
0352566578

西台駅〜浮間舟渡駅(1)

2018-02-19 05:00:51 | 川と橋

『メトロに乗って』その76。今回は都営地下鉄三田線西台駅で降りて埼京線浮間舟渡駅まで歩いてみることにした。都営三田線は志村三丁目駅で地上に出て、あとは高架になり、新高島平駅まで走る。西台駅は高島平駅の一つ前だがこの辺りも団地やマンションが多く広がる住宅地、また、大東文化大学の最寄り駅である。


駅を降りると駅前は広々としていて板橋区の散歩コースの地図も出ている。今回はそれに従って行くことにした。すぐ前を走る高島通りを越えて左方向に行くと馬頭観音堂がある。


これは1698年に祀られたもので当時は農耕や運搬に馬を使っていたため、周辺の住民の信仰を集めた。ちゃんと朱印も近くの蓮華寺に行けばもらうことができる。

しばらく高島通りを行き、2つ目の信号を右に曲がると新蓮根団地が周辺に広がる。まだ、昭和32年に作られた蓮根団地を平成3年に建て替えたもの。しかし、団地はなんとなく懐かしい。周囲には団地住民御用達の商店街が立ち並ぶが結構な賑わいがある。


5分ほど行き、左に折れたところに植村冒険館がある。ここには植村直己氏の冒険の記録を展示している。今やっている企画展示は『山頂に残された旗』と題し、1984年2月の植村氏最期の冒険となったマッキンリーへの単独登頂の最後の日記や山頂に登頂を記録した日の丸などが展示してある。

展示されている日記の最後に『何が何でもマッキンリーに登頂するぞ』書いて、登頂には成功したが、その後消息を絶ったことを知り、冒険には全く縁のない私ですら、その冒険魂に感動を覚えた。この建物は植村氏がかつて板橋区に住んでいた縁で作られたもので、故郷の兵庫県豊岡市にもある。


元の道に戻り、信号を左に曲がると志村坂下通りになり、すぐ先には氷川神社がある。そして都営三田線の高架をくぐり、次を左に曲がると城北公園に到着。


一部が交通公園になっていてバス、蒸気機関車D51、さらに奥には小さな資料室があり、模型などが収められている。


さらに気になったのが、前に置かれている小さな蒸気機関車。ベビーロコ号と名付けられているが、明治45年イギリス・アーサーコッペル社で製造され、和歌山県有田鉄道で長く使われていた。

その後、東武鉄道に譲渡され、長く常盤台駅前に展示されていた。4.7mしかないが、これが実際に使われていた姿は是非一度見たかった。今は子供達の人気者として余生を暮らしているのである。(以下、次回)