hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

花と虫~三鷹市農業公園にて

2014-09-30 06:27:31 | 日記

彼岸を過ぎるとさすがに秋らしくなる。夏の間、赤・白・紫の美しい花を付けていた、玄関の横に植えてある日日草がそろそろ花もめっきり咲かなくなった。その植え替えのために、花を買いに三鷹農業公園内にあるJAむさしに行く。

温室のようになっている鉢植えコーナーに行ってビオラを探すもまだ些か時期尚早で見つからない。そうして温室の中をうろつき回っていると、蝶や小さな蜂がたくさん飛んできて蜜を吸っていることに気がつく。

コスモスが咲き誇っているが、そこには先日見かけたツマグロヒョウモン。久我山で見かけたのはオス(前の写真)だったが、今回はメスが一生懸命蜜を吸うためにとまっている。(蝶の種類を教えてくれたYくんありがとう。)かなりそばまで近寄ったが、おかまいなしで羽を閉じたり開いたり。

少し横をみると今度は小さな蜂がこれも一生懸命蜜を吸っている。そばには、蜜を求めて花を選んでいる蜂もよく見ると上手くホバリングしている。

さらに菊やキバナコスモスをみていると今度はセセリチョウの仲間(イチモンジセセリ?)が。こちらはあまり羽を広げることはなく、ゆったり蜜を吸っている。


こののんびりした様子を同じように眺めている自分も何となくほっこりする。
結局、20分以上も花を探すより虫たちを観察して、結局、マリーゴールドとコスモスを購入。農協を後にした。ひまな休日である。


秩父宮ラグビー場(慶應-青山学院)観戦記

2014-09-29 05:00:00 | 日記
約1年ぶりに秩父宮ラグビ-場に行ってみた。丁度昨年も同じ時期に青山学院との対抗戦で18-24で敗れた相手である。去年は10月13日だったが、今日も昨年同様、夏のような良い天気。こちらもこの相手なら勝てると思って行ったところ鮮やかに負けて、そのあとはなかなか行く機会もなく1年が経過してしまった。

因みに、秩父宮ラグビー場は1947年に東京ラグビー場として開場、1953年に当時日本ラグビー協会の総裁であった秩父宮陛下がなくなったため、この名前に名称変更されたもの。収容は2万5千人だが、ラグビーを見るにはこれほど適したグラウンドはない。今は全ての席に座席があるが、かつてはバックスタンドもメインスタンドも両端は立ち見席で、椅子がなくしゃがむと係員に注意されるほど客が入った時期もある。



28日は第一試合が慶應義塾VS青山学院、第二試合が筑波大VS早稲田がくまれ、第一試合は13時キックオフ。メインはともかくバックスタンドは良い天気で太陽の光線が強く日焼けするほど。今日の慶応はラインアウト、スクラムとも青山を上回り有利に試合を運び、試合開始から15分で2トライ1ゴールを決める。さらに良かったのは守備で、いくつかのミスであと数メートルでトライというシーンも多かったが粘ってトライを奪われず、前半は26VS0で折り返す。
驚いたのはハーフタイム、なんと両校のチアリーダーによる応援があり、時代が変わったなあと思った。なにしろ昔はラグビーは応援はなく、校歌の斉唱もなかった。今はチアリーダーの華やかな演技が見れるなんて・・・、ただ筑波VS早稲田の試合にはこのチアリーディングはなかったが。



後半は慶応が2トライ1ゴールを決めたあと1ゴールを取られるも失点はそれだけで38VS7で勝利した。ようやく1年たって勝利の喜びを味わったが、次の試合を見てやはりレベルの違いを見せつけられた。特に筑波のWTB福岡の活躍は素晴らしく、更なる塾の学生の奮起を促したくなった。


それにしてもやはり生で観戦するのが一番。またシーズン中に来たいものである。


新昭和切手(その1)

2014-09-28 06:59:28 | 日記

切手シリーズ その31。今回は新昭和切手を取り上げる。昭和20年8月15日にポツダム宣言を受諾した日本は色々と変化が起きた。それを如実に表しているのが『新昭和切手』第1次~第3次に起きた変化であろう。


昭和22年7月にはGHQから軍国主義的或いは神道の象徴に関係あるとされた切手の使用が禁止された、これがいわゆる『追放切手』である。ただ、逆に考えると、それまでは従来の切手は使用できたことも驚きであるが。

第1次新昭和切手は昭和21年(1946年)8月頃より発行された。もちろん図案は戦闘機や軍人ではなく、平和を意識して歴史的な建物や絵画なが中心とはなったものの、未だに戦前の切手同様に『菊の紋章』がつき、『右書き』である。戦前と異なるのは『大日本帝国郵便』から『日本郵便』に変わったことくらいで、紙も灰白紙と白紙が混ざっており、目打ちもなく、低額切手は平版印刷と戦時下と変わらない粗末な切手であった。

しかし、次に発行された第2次新昭和切手からは一部糊付きになり、さらに目打ちも付いた。まだ、菊の紋章は残ったが、日本郵便も左書きに変わり、かなり落ち着きを見せて来ている。


その変化の中で典型的と云われるのが30銭の『法隆寺五重塔』の切手である。

第1次新昭和切手のものは『糊なし』『無目打』『右書き』である。(一部糊付きのものも後期に発行)


しかし、第2次新昭和切手にはバリエーションがあり、平山秀山堂という民間印刷会社に委託したものは、『ルレット』という押し抜き目打ちでアラビアゴム糊が付いたものとなっている。

しかも、それ以外にも同じく民間の凸版印刷が製造したものは分割目打ちという日本で唯一の目打ちのもの。
さらに日本郵便が左書きになったものと僅かな期間にいくつもの種類に分類され、収集家には好まれる切手である。それもこれも戦後の激しいインフレの中で切手需要に追いつかずこのような事態になった。

しかし、この辺りからさらにインフレが激しさを増して1948年には大幅な郵便料金の引き上げがあり、切手の図案も大幅に変わっていく。このあたりは次回触れて見たい。

八丁堀駅

2014-09-27 07:43:48 | 日記

『metroに乗って』その4。今回は東京メトロ日比谷線の八丁堀駅。JR京葉線開通後は地下通路で繋がる乗換駅でもある。

元々、八丁堀は江戸時代初期に京橋川下流から隅田川に流れ込む通船のために水路が開削されたもので、この堀割を『八丁堀』と呼んだ。今は桜川公園などになっており、全てが埋め立てられている。また、八丁堀の意味は8つの町に渡る堀割というのが、事実だったようである。

八丁堀駅を降りて八丁堀交差点から右に曲がると亀島橋に出る。橋の袂には四代目銀座の柳や芭蕉の句碑、この周辺に居住した有名人(東洲斎写楽、伊能忠敬)についての説明板、堀部安兵衛の武庸之碑などが建てられている。

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特に堀部安兵衛は最近映画化(タイムスリップ!堀部安兵衛)されて注目度が上がっているが、この辺り(旧水谷町、現・八丁堀1丁目)に住んでいた。高田馬場の仇討ちでその武勇は江戸中に知れたもので、吉良邸への討ち入りで自刃した。この英雄を偲んで、地元町会が1969年に碑を建立した。


この周辺には江戸初期までは寺の多かったが、幕府が1635年に浅草地区に移し、その後に同心や与力などの組屋敷を設置した。そのため江戸時代は『八丁堀』は下級役人の代名詞であった。因みに東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛・喜多八もこの辺りに住んでいた設定である。


さらに、亀島橋から昭和通りの一本裏通りを歩くと今村幸稲荷神社がある。由緒はよく分からないが、一階に鳥居があり、階段を登りお詣りをするコンパクトな設計はなかなか面白い。

今は昭和通や新大橋通といった広い通りに囲まれてビルが建つあまり特徴のない町だが、一本裏道に入ると色々あって楽しい。





久我山の坂

2014-09-26 06:13:19 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』シリーズ その6。我が家のそばの久我山の坂にも名前が付けられていることを発見、早速書いてみたい。皆さんはあまり久我山駅で降りられたことはないかもしれないが、駅は神田川に面しており、北口も南口も駅と垂直方向に緩い坂になっており、今回はその北口に集中している。



まずは『元坊坂』、久我山稲荷の西脇にある坂で坂の上には鳥居がある。今は廃寺になった光明寺という寺があったことから、この名前が付いたらしい。因みに10月第1週にはこの神社のお祭りで町内を神輿が練り歩く。


次は久我山駅前から『馬車道』を横切って北方向になだらかに登っていく坂。名前が『御女郎坂』、ただ、残念ながらこの名前は由来がよく分からない。


更に久我山駅北口からすぐに交差する『馬車道』を富士見ヶ丘方向(右手)に歩き、人見街道との交差点を左に曲がると『笠森坂』、この坂だけはちゃんと名称を示した看板がある。この先の「うえみち」を右に曲がった所にある小作氏の家の中に笠森稲荷が祀られているのでこの名がついた。因みにこの周辺の地主は小作・大熊・秦といった姓が多い。


坂ではないが、人見街道を富士見ヶ丘方向に行くと庚申塔がある。この塔は享保7年(1772年)銘で道標の役割も果たしている。側面には『これよりひだりは府中三(み)ち』『これよりみぎいのかしら三(み)ち』とあり、井の頭弁財天の信仰者の道しるべとしたものと思われる。

普段はあまり気にも留めていない坂や庚申塔にも名前や由来があることを調べてみるのも「きまぐれ散歩」らしくていいのかなあと自己満足。まあ、今回はあまり取り上げるほどでもなく、江戸の坂とは言えない、あまりにマイナーな番外編で失礼。

スポーツルール雑考~サッカーと野球

2014-09-25 06:27:52 | 日記

アジア大会がたけなわの中、スポーツのルールを少し考えてみた。サッカーの試合を見るとルールの簡易さ、明確さが全世界がサッカーを支持する理由だろうと感じることが多い。サッカーの反則の中で、相手の邪魔をして押したり、足を引っ掛けたり、ぶつかったりする行為はアンフェアで誰が見てもルール違反は論を待たない。しかも、それ以外の反則はハンドとオフサイドしかないと言っても過言ではない。

ハンドはもともと手を使うことは禁じられている競技だから反則になって当たり前、オフサイドは待ち伏せ禁止が原則ではっきりしており、判断もそのために副審が2人いる。

しかし、同じフットボールでもラグビーやアメフトはルールば複雑でその上、ラグビーはルールが毎年変わる。そのため、人気があるのが地域限定で、世界的に盛り上がらないのはその影響も大きい。

さらにその上を行くのが、野球であろう。これほどルールを知らない人にとって不条理に映る競技は少ないのでないか。特に今流行りの女性ファンに聞いても『振り逃げ』と『タッチアップ』『インフィールドフライ』『投手交代ルール』などが詳細に説明できる人は少ないと思う。

特に『振り逃げ』は難しい。最近ツーシームやフォーク、ナックルなど玉の軌道が定まらない投球が全盛だが、最近プロ野球の試合でも振り逃げを目にすることが多い。では、そのルールをどれだけ知っているだろうか。

振り逃げのルールが難しいのは(1)成立の前提条件があるが、これが複雑である、(2)記録上、三振なのになぜゲームセットやチェンジにならない理由が分からない、の2点であろう。
まず、(1)だが、条件は一塁にランナーがいないこと、または2アウトであることが必要条件。つまり、1アウト1塁では振り逃げはあり得ない。これは故意に守備側が落球などして1塁ランナーが2塁への走塁義務があればダブルプレーになるリスクがある為、その排除する目的からだ。

ただ、成立条件はそれだけでなく、3バント失敗、三振のボールが打者に当たった場合、同じく、本盗の走者に当たった場合は捕手が捕球しなくてもアウト、打者が1塁に走塁をすることを放棄した場合も自動的にアウトとなっている。
(2)ではなぜ三振しているのにアウトにならない理由は何故か。これは攻撃側は三振してはいけないのと同様に守備側も最後に捕手が捕球しなければエラーになるという考え方で、ワンバウンドや落球があった場合は打者にタッチ、又は一塁に送球してフォースアウトにする義務を負うとの考えのようである。これだけ語って見ても中々一般の支持は得られそうもない。

こうしたルールは野球観戦を約半世紀している小生からは当たり前のようだが、小生の周りでも合点がいかないという声は多い。つまり、野球がアメリカや日本、アジアの一部しか普及しないのは道具や専用グラウンドだけでなく、ルールの難解さに起源があるのかも知れない。

ちなみに『インフィールドにフライが打ち上がっても、インフィールドフライにならず、故意に落球してダブルプレー を取ることができるのはどういう場合か?』、この問題を知っている人はかなりの野球のルール通である。わかりますか⁈

西武多摩川線是政駅

2014-09-24 06:27:33 | 日記

鉄道シリーズ その79。今回は西武多摩川線是政駅を取り上げてみたい。それにしても西武多摩川線は不思議な線である。というのは西武鉄道の他の線から離れ、JR中央線武蔵境駅から8キロ先の何の連絡もない是政駅まで全く孤立している。かつては近くに別の線が通っていたが、今は廃止になったため孤立しているという訳でもない。

そのため、西武鉄道にとっても保線や整備などで手間がかかるらしく、2013年に外資系ファンド・サーベラスから秩父線同様廃止候補にも上げられたこともある。また、パスモの導入までパスネットは使うこともできなかった。

実はこの鉄道は1910年に多摩鉄道という会社が多摩川の砂利を運搬する目的で軽便鉄道として開業、1927年に西武鉄道(旧会社)に買収された。砂利を運搬する目的で作られた鉄道は多く、例えばJR相模線や東急玉川線(現、田園都市線)などもそうである。その後は1950年に電化されたが、1964年に多摩川の砂利採取が禁じられたあとは多摩霊園への墓参、多摩川競艇へのアクセスとして機能している。

終点の是政駅は是政橋近くの場所にあるが、近くにバスターミナルや駅前広場など何もない。今ではなぜこの駅が終点かがわからないような静かな駅である。出口を抜けてまっすぐ行き、左に曲がるとすぐに多摩川の河川敷に出る。そして、その先に是政橋がある。


この辺りは休みの日には河川敷の野球場に来る人やマラソンコースを走る人々で混んではいるが、その中に鉄道を使う人はあまりいないようである。ただ、今日のような秋晴れには多摩川に沿って散歩をするには絶好の位置にある。散歩コースを示す看板や1941年(昭和16年)まであった是政の渡しの碑も残されており、興味深い。


鉄道に話は戻るが、隣の競艇場前駅から是政駅まではほぼ直線で写真を撮るにはうってつけである。(残念ながらあまりそういう人も見かけないが。)単線を101系の白い3両編成の電車が走る姿は東京の大手私鉄では珍しいのんびりした風景で、もう少し色々な場所を探して撮影したい線である。

秋の虫の音?

2014-09-23 00:08:34 | 日記

秋の夜長につまらないが、身につまされる話を一つ。
休みの狭間で月曜日なのに気分良く歩く帰り道。小生の住処は23区とはいえ環八の外のはずれで夏が終わるとの競演。

庭に放しているのか毎年鈴虫のり~ンり~ンというよい音のするお宅を曲がるとあとはコオロギの合唱。

多分、エンマコオロギ(閻魔蟋蟀)と思われるコロコロという声が駅から離れるほど大きくなる。

そして、少し前を小学生の男の子を連れた母親らしき人が歩いていた。ところが急に聞いたことのない大きな音色が大きくなったり、小さくなったり。はじめはなんの虫かな?と一瞬考えたが、何と子供が何かの拍子に防犯ブザーを誤って鳴らしてしまったらしく、虫の声に負けない大きな音色が続く。暗い中なので周辺の家のライトが点いたり、人が出てきたりの大騒ぎ。

それでも子供は音を止めようとするがブザーを止めるピンが抜けて、暗い中どこに行ったのかわからず、ブザーは静寂の中、鳴り続ける。すると、思わず子供を叱る母親。子供は『音を止めるピンがどこかに行ってわからないよう。』と半泣き。

まあ、虫の声どころではなくなったが、思えば平和な秋の夜長の話。

飛行機雲

2014-09-22 05:47:05 | 日記

21日は良い天気、特に午前中は抜けるような空、その中に高い空に出る巻雲がはっきりと見えて美しい。

反対側を見るといわゆる『ひつじ雲』が出ている。これもかなり高いところに出る雲で高積雲と気象の世界では呼ぶようだ。


少し前までは積乱雲(入道雲)や乱層雲(雨雲)が空を埋め尽くして夕方になると夕立をケアしなければならなかったが、その頃に比べると空が高くなったような気がする。

我が家の周辺は旅客機の航路に当たるようでよく見ると飛行機雲があちらこちらに見える。

飛行機雲は飛行機の航路に作られる細長い雲で、ジェットエンジンの排気の水蒸気が凝固して雲になるケースと翼まわりの圧力が低くなり、大気が断熱膨張により温度が下がり雲が作られるケースがあるようだ。その原因はともかくまっすぐな雲が序々に膨らんでいく様をみるとあの歌を思わず口ずさんでしまう自分に気がつく。

真っ青な空に真っ白な飛行機雲、なかなか詩情があり素晴らしい。

彼岸花

2014-09-21 08:33:44 | 日記

23日はもう彼岸の中日、あれだけ暑かったのにちゃんと涼しくなるのが日本らしくて素晴らしい。

そんな秋の彼岸にはいつも鮮やかなそして少し怪しい美しさが溢れるのは彼岸花、別名曼珠沙華。かなり古い歌で長崎物語というのがあるが、その歌い出しで『赤い花なら曼珠沙華~』というのをなぜか思い出す。家の近所でも数日前から花が咲き出している。


この花は特に球根にアルカロイド系の強い毒性があることでも知られるが、その姿も変わっていて枝も葉も節もなく茎が地上に50センチくらい伸びてその先に花序が一つつき、5~7つの花が放射状に咲く。花も稀に白もあるが、血のような赤い色をしている。

では葉は、というと線のような細い葉が晩秋には出てくるが、これには気付く人も少ない。そのため春に球根を野蒜などと間違えて食べることもあったようである。その毒性に注目して墓地や田の畦などに植えて害獣がこないようにしたため、墓の周りに多いという印象があるのかもしれない。

別名の曼珠沙華は仏典に由来し、『天上の花』の意があるが、仏教のいう曼珠沙華は白くて柔らかな花であり、実態とはかなり異なる。彼岸花には死人花や地獄花といった別名もあり、この花が不吉なのか、めでたいのかかなりその評価は分かれるようだ。

しかし、ちょうど彼岸の時期に咲く此の花を見ると季節の変わり目を感じて少し寂しく、また美しさに魅せられるのは小生だけではないはずである。