お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

懇談会

2010年10月14日 | 雑感
 きょうは午前中、
組(そ)の仏教婦人会(ご門徒女性の会)役員さんと各寺坊守が集合して、ざっくばらんに意見交換をする懇談会を開きました。

 今、ウチの組(11ヶ寺)では、寺当番で組の仏教婦人会役員さん(会長、庶務、会計、若婦人代表)を決めています。(例えば、今年はA寺から会長、B寺、C寺から庶務か会計のどちらか。D寺から若婦人の代表という決め方)

 以前は、ご法義深く、何でもよくご存じの方に、長~く、会長をつとめていただいておりました。坊守も全て会長さんにオマカセでした。

 でも、数年前から、3年交替で、各寺から順番に代表を出して、役員をつとめていただき、法の輪を広げていただこうということになりました。

 つまり、3年でガラッと役員さんが入れ替わるため、新しく任務につかれた役員さんが、最初、戸惑われるのは、当然なんです。

 つづく・・・
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煩悩 その5

2010年10月12日 | 仏教
 三毒の煩悩

 貪欲、瞋恚に続き、最後は、愚痴です。

 愚痴と言うと、一般的には、言っても仕方ないことをくどくど言う、
「愚痴をこぼす」という表現で使われますが、

 仏教で言う「愚痴」は、「おろか」の意味。

 愚痴は、「無明」と同じことです。

「無明」とは、智慧に明るくない、真理に疎い、無知のこと。
自分中心の思いに囚われて、真理にかなった判断ができず、間違った判断をしてしまうことです。


 三毒の煩悩を、取っ払ってしまえばいい と、わかっちゃいるけど・・・簡単には、はがれ落ちません。

 欲が多く、すぐ腹が立ち、真理に、ほど遠い私の身。
三毒の煩悩が、充ち満ちて、しみついています。

 煩悩の毒に汚染された私のための解毒作用
それが、阿弥陀如来のはたらきであろうと味わっております。

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煩悩 その4

2010年10月11日 | 仏教
 三毒の煩悩のご紹介

 きょうは、瞋恚(しんに)です。

 自分の意にそまぬことに、カッとなる、怒りの心、恨む心 のことです。

 小池龍之介 師 の著書 「もう、怒らない」幻冬舎

にこう書かれています。
 私たち現代人は、他人に見せない心の中で、朝から晩まで「アレガヨクナイ、アノ人ノ言イ方ガダメ、アノ態度ニモ腹ガ立ツ・・・(略)」と怒り続け、自らの心身を痛めつけています。(略)どんなに地位や名声を得ても、心が勝手に不快になってしまう以上、死ぬまで幸せになることはできないのです。

 


 

  
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法専寺女性の集い

2010年10月09日 | 行事・案内
 年2回の 「女性の集い」(旧・「若婦人の集い」)です。

 若いご門徒女性は、日曜日もご多用で、なかなかお寺においでいただけませんので、
「若」を取って、年齢制限のなく、どなたでも気軽に出席していただけるように
「女性の集い」と名称を変更しました。

 日時:10月17日)午後1時半から3時頃まで
 場所:法専寺門徒会館
  
 ご一緒に歎異抄を学んでいます。
また、その他、普段疑問に思っておられることなど、話し合います。

*お布施のご心配はご無用です。
 決して堅苦しい会ではありません 
 
 初めての方も大歓迎です
 気軽にお寺にお茶飲みにおいでください

 お待ちしております

 
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おてらくご

2010年10月08日 | 本紹介
 釈徹宗 師 の 「おてらくご」 本願寺出版社


「おてらくご」は、「お寺」+「落語」の造語です。

 何の方面に関しても、物を知らない私ですので
落語の知識もないのですが
「へ~」「ふ~む。そうなんだ~」と
楽しく拝読しております。

 落語の「寿限無

「寿限無」とは「阿弥陀仏」のことだったのですね

また「五劫のすりきれ」の「五劫」は「正信偈」にも「五劫思惟之攝取」(ごこうしゆいししょうじゅ)と出てきますが

「劫」は、時間の単位。

 一辺が20Km四方の巨大な岩に、3年に1度天女が舞い降りて、薄い羽衣の袖で、岩をそっとなでる。
 それを繰り返して、その巨大な岩が、すり減って無くなるのが「一劫」。
気の遠くなるような時間ですが

 阿弥陀さまは、それほど長い間、私・凡夫を救う手立てを思惟してくださったということです。

 だから「寿限無」の中に「五劫のすりきれ」が出てくるのですね~

 この本には、節談説教と落語のCDも付いております
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お宮参り?

2010年10月07日 | 雑感
 最近のことです。
 ある親しいご婦人から電話をいただき、居間で通話中、そばに寝ていた孫娘が泣き始めました。

 「あら、赤ちゃんの泣き声、お生れになったのですね。いつ
 「お盆過ぎでしたから、一ヶ月半くらいになります」
 「ああ、じゃあもう、お宮参りを済まされた頃ですか
 「ほら、うちは、寺ですから、お宮参りは行きませんよ。お宮参りでなく、お寺の初参り」
 「あら、私ったら・・・そうでした。そうですよね

 で、二人、電話で笑ったのですが

 世間一般の「常識」では

おめでたいこと、楽しいお祭り 神社

悲しみごと、葬式、法事 お寺

なんだろうな~ 

 せめて、真宗門徒さんには、
生まれて死ぬ(往生とげる)まで、
お寺とともにあっていただけたら、うれしいのですが・・・
 
 
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煩悩 その3

2010年10月06日 | 仏教
 三毒の煩悩

 一つ目は貪欲です。
 間違いやすいのですが、貧富の「貧」ではなく、「貪」です。

 貪り(むさぼり)の心、
もっと、もっと・・・という欲。

欲には限りがないってことが、貪欲です。

 ちゃんと目鼻口そろって生まれているのに、
「もっと、目が大きければよかった~」
「鼻が高ければよかった~」

 宝くじで1万円当たっても、「せっかく当たるなら10万円欲しかった~」
100万当たっても、「1千万が~」「1億が~」・・・

 貪欲に、心が支配されていては、死ぬまで、仕合わせを感じられないのだと
しみじみ思うのであります。 

 

 

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煩悩 その2

2010年10月05日 | Weblog
 昨日の続きです。
 何もわかっちゃいないのに、ペラペラとブログで説明したがる私は、ホンモノからほど遠い、かろうじて資格だけいただいた「なんちゃって僧侶」なんですが、

 「煩悩」って、わかっているようで、わかっていなかったので、
自分で再確認するためにも、書かせていただきます。
 ご住職はじめ、お同行の皆様、間違っていましたら、訂正、フォローをよろしくお願い申し上げます。
 
さて、
 「煩悩」とは、心を煩わせ、悩ませる精神作用 のことです。
 
 一般に、煩悩は108あると言われ、「除夜の鐘を108打つ」と、耳にします。
でも、煩悩の数が、正確にいくつある・・・と言うよりも、「私には、とにかく、たくさんの煩悩がある」という認識をうながすものだと味わっています。

 その中でも「三毒の煩悩」と呼ばれる、おそろし~い、強力な煩悩。

 それは、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)です。

続く・・・
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煩悩

2010年10月04日 | 仏教
 朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が終わり、「てっぱん」が始まりました。

 主人公の女子高校生が、突然、自分は養子だった。家族に血のつながりは、なかった。
と知って、混乱、お寺境内に駆け込み、梵鐘の中で叫ぶシーン。

 尾美としのりさん演じる、のんびりしたお寺の住職さん、いいですね~

 住職さん、一言「煩悩やな~」とつぶやき、
主人公の女の子が「煩悩って、なに」と尋ねる。
それに対し、住職さん、何と答えるべきか逡巡し、
「う~ん・・・」と、うなったまま、即答せず、
ただ、主人公の気が済むように、梵鐘を思いっきり突かせる。

 私のように、すぐ出しゃばって、
「それは、ね・・・」と説明したがる「名ばかり僧侶」より、
あれが、ホンモノなんだろうな~ と思ったことでした。

 

 
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こころの保ち方

2010年10月02日 | 仏教
 法蔵館の季刊小冊子「ひとりふたり」2010年秋号に

「精神科医にとっての仏教」と題して

 真宗大谷派寺院のご住職であり、精神科専門医でもあられる、本多義治先生が書かれた記事がありました。

 真宗の教えはある意味、精神療法に近いものがあります。自分を見つめ直しその中から課題を見つけるという、「内省」を求められます。このことで自分自身をしっかり再認識することができます。


 仏教は、何か怪しげなものを信じ込んだり、「ああしなければならない、こうでなくてはならない」と特定の思想に固まったりすることとは、対極の教えです。
 
 仏の教えを聞く ということは、自分を深く知る ということです。

 あまりに生真面目ゆえ、頑張りすぎて、こころの安穏を失っておられる方がおられましたら、
何事にも固執しない仏教に、ふれてみられることをオススメいたします

少し、肩の力が抜けて、ほんのちょっぴり、生きるのが楽になるように思います。
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