20年前の今頃。つれあいの台湾転勤が決まり、私も同行する予定で準備をしていた。とりあえず、台湾からの留学生に家庭教師で来てもらって、中国語の勉強を始めていた。外省人の家庭に育った、発音に厳しい先生で、私は-nと-ngの区別がなかなかうまくできなくて、毎回苦労していた。。。
6月4日の天安門事件。直後の授業の日、先生は言った。「あの国は、これから若い人の力が必要なのに・・・」
中国語は勉強していても、まだまだ中国という国や中国の文化に親しみを感じられないでいた頃。“怖い”というイメージが強くなってしまった。これから行く先が、大陸ではなく台湾であることが救いと感じられていた。
実はちょうどその頃、長男が胎内に宿っていた。(-nと-ngの区別を一生懸命やろうとすると、つわりのせいで気持ち悪くなったりして^^;) 結局諸般の事情により、つれあいは単身台湾に行くことになった。私の中国語の勉強は、のちに北京に行くまでお預けとなったのだった。
そして2年後、香港へ。中国であって、中国でない、不思議な場所からあらためて中国を眺めることになる。
天安門事件当時とその後、香港は北京の学生たちと共に戦いもし、逃れてきた指導者たちを匿いもした。かつて多くの“難民”を大陸から受け入れてきた香港、返還が1年また1年と近づく中で、その香港からさらに逃れようと移民していく人々がいて、逃れたくても行き場のない人々もいて、みんな北京・大陸に対しては複雑な思いを抱えていた。
毎年6月4日の夜、追悼祈念集会に、蝋燭を灯して祈る香港の人々。経済さえうまくいけばいい、自分が金儲けできればいい、そんな拝金主義と思われがちだけれど、守るべきものは何か、戦って勝ち取らなければならないものは何か、普通の市民が折々に考えて行動に移す。それができる香港であり続けることを願う。
今日の天安門事件関連のニュースをリンクしておく。
香港で天安門事件の追悼集会、15万人が参加
天安門事件、いまだに謎の「戦車に立ち向かう男」
天安門事件20年 中国政府と運動側 和解を 改革派の作家訴え
6月4日の天安門事件。直後の授業の日、先生は言った。「あの国は、これから若い人の力が必要なのに・・・」
中国語は勉強していても、まだまだ中国という国や中国の文化に親しみを感じられないでいた頃。“怖い”というイメージが強くなってしまった。これから行く先が、大陸ではなく台湾であることが救いと感じられていた。
実はちょうどその頃、長男が胎内に宿っていた。(-nと-ngの区別を一生懸命やろうとすると、つわりのせいで気持ち悪くなったりして^^;) 結局諸般の事情により、つれあいは単身台湾に行くことになった。私の中国語の勉強は、のちに北京に行くまでお預けとなったのだった。
そして2年後、香港へ。中国であって、中国でない、不思議な場所からあらためて中国を眺めることになる。
天安門事件当時とその後、香港は北京の学生たちと共に戦いもし、逃れてきた指導者たちを匿いもした。かつて多くの“難民”を大陸から受け入れてきた香港、返還が1年また1年と近づく中で、その香港からさらに逃れようと移民していく人々がいて、逃れたくても行き場のない人々もいて、みんな北京・大陸に対しては複雑な思いを抱えていた。
毎年6月4日の夜、追悼祈念集会に、蝋燭を灯して祈る香港の人々。経済さえうまくいけばいい、自分が金儲けできればいい、そんな拝金主義と思われがちだけれど、守るべきものは何か、戦って勝ち取らなければならないものは何か、普通の市民が折々に考えて行動に移す。それができる香港であり続けることを願う。
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