森山直太朗。ギターとその声だけ。だからこそ。
平原綾香。この歌のこころに触れる。
一青窈。一人の声がみんなの声にとける。
中島美嘉。夜空の星に届いて。
Mr.Children。メッセージを抱いた物語を語り終えたとき、そのときを共有した喜びがはじけた。
♪
今年の夏、ある友人と袂を分かつことになった。
彼女とは、歌手Aのファンサイト掲示板で知り合った。当時PCを持っていなかった彼女と海外に住んでいた私は、ほどなくFAXや電話でやりとりするようになった。歌手Aの話や同じジャンルの音楽の話で、一度も会ったことがないのに、十年来の友人のようにいつも盛り上がっていた。
互いにお気に入り(音楽や本やマンガなど)を紹介しあったり、育児の話をしたり。彼女の話を聞くのも、彼女に話を聞いてもらうのも、楽しかった。
私が日本に帰国するころ、私も彼女もブログを始めた。彼女は携帯を持つようになり、FAXではなくメールがやりとりの中心になった。
なぜか、そのころから、彼女の書くものに、私はときどき違和感を覚えるようになった。私はやたら長い文を書く人間なので、携帯メールや携帯でUPするブログの短い省略的な表現についていけないのだ。ちょっとした調べ物を頼まれて「失礼だ」と怒ってしまったり、単語の意味を間違えていると指摘したら私の読み違いだったり。私からすれば、「あと一言」説明が入ってれば、、、と思うのだが・・・
そして、彼女が歌手Aについて書くことが、特に気になった。大ファンである彼女が、とても嬉しそうにちょっとしたニュースも取り上げて書くのは微笑ましいはずなのに…。事実関係などの彼女の勘違いを指摘すると、とても恐縮されて訂正される。それはいいのだが、訂正してもらっても、何かいつも不安が残るのだった。
彼女はブログで、歌手Aのアルバム紹介を始めた。ジャケット写真、アルバムタイトル、収録曲のほか、セルフカバーの情報も記述して、私はとてもいいアイディアだと思った。しかし、記述方式が微妙に定まらない。どれがカバー曲のタイトルで、どれがオリジナル曲のタイトル、はたまた収録アルバムのタイトル? 何度か指摘せざるを得なかった。
アルバム紹介の順番が時系列ではないので、どういう意味なのか尋ねたら、「目についた順」という答えが返ってきた。正直びっくり。「せっかくの企画なんだから、自分の好きな順とか、自分が聴いてきた順とか、テーマがあればいいのに」というような意見を伝えた。しばらくして、彼女はこの企画をブログから消してしまった。
歌手Aが、チャリティイベントの一環として、多くの有名人を集めた写真集に載った。シェイプアップした姿を彼女は「よく絞れてる、、、がんばったね」と評した。
私は、妙にその「がんばったね」が気になった。歌手Aはこの写真のためにシェイプアップしたのだろうか? そんなニュース、どこかで見たっけ? 最近いい体を保ってるから写真の話が来たのかも? 「がんばったね」では、「写真のためにシェイプアップした」ことが事実と受け止められてしまう。そう彼女に言ったら、「がんばったと思ったからがんばったって書いただけ、何がいけないの?」と言われた。
あとから思えば、「がんばったんだね」だったら私は納得したんだろう。「がんばったね」だと、がんばっているところを実際に見ていた人が言う表現だけど、「がんばったんだね」なら、「見てないけどきっとそうなのね」というニュアンスが入る。“見てもいないのに見ていたようなことを書いてほしくない”という気持ちがあったのだ。
私があれこれ言うものだから、ちょっと気まずくなった。「私の書くものが嫌いなんでしょう? だったら読まないでいいです」と言われた。私は「細かいことを気にしないで気楽に読むようにする」と言った。
また、「指摘はわかるけど、それを気にしていたら1行も書けない」「何のためにブログをやっているのか、わからなくなった」とも言われた。
人は、自分で当然と思うことは、他人も当然と思うと思ってしまう。
けれど、そんなことはないのだ。
たとえば。
私は料理が苦手だ。嫌いといってもいい。台所に立つ時間は1分でも短くしたい。当然、インスタントの材料は駆使する。だから出汁はいつも顆粒を使う。
しかし、料理が好きで、手作りを大切にして、時間も惜しまない人は、顆粒だしなんてとんでもないだろう。きっと「この料理には一番出汁を使いなさい!」と言いたくなるだろう。でも、もし私がそう言われたら、「うちのご飯なんだからうちのやり方でいいでしょう?」と怒って無視するだろう。
私が彼女に指摘したり意見したりしてたことは、「出汁は毎回料理に合わせて新しくとれ」と、よその家の料理に口出すようなものだったかもしれない。
たとえば。
私は車の運転をしない。免許を持っていない。だから、交通法規はくわしくない。自転車が車両だということも、つい数年前に知ったくらいだ。車を運転する人なら当然わかっていることを知らないから、運転者からすると、とても迷惑な歩行者/自転車になっているかもしれない。と思いつつ、だからといって今更交通法規を勉強しようとは思わないし、それで生活上困ることもない。
私は、自分のブログを書くとき、情報・推測・意見・感想などは自然と書き分けるようにしてきたし、それが当然だと思ってきた。
しかし、他人のブログでそれがごっちゃになっているからといって、書き分けろと言うのは、ただの歩行者に交通法規を完璧に実践しろというようなものだったかもしれない。
彼女があるときブログのコメントで、ある広東語の2字の単語を説明した。広東語の発音、北京語の発音を紹介し、「広東語では○○を指します」と書いた。
元々広東語の単語なので、北京語の辞書には単語としては載っていない。漢字1字ずつを引くと、紹介されているのと声調が違う。コメントで「単語だと声調が変るのかな? 台湾ではこの発音?」と質問した。「ほかの辞書にあたってみます」とコメントが返ってきた。。。そのまま、約1ヶ月が経過した。
実は、台湾でだけ独特の発音や声調になる単語がある。「~と」という意味の「和」は、辞書では[he2]だが、台湾では一般に[han2]と発音されるそうだ。この単語もそういう例の一つなら、ぜひ詳しく知りたいと思ったのだが・・・
そしてもう一つ、気になったのは「広東語『では』」。どうして、「広東語『で』」じゃなくて、「広東語『では』」なのか? そこに北京語の発音も並べて紹介されているだけに、「広東語『では』○○」だけど、「北京語『では』△△」と違う意味になりそうな印象を受ける。質問したかったのだが、まずは発音について確認するほうが先だと思い、そのままになっていた。
歌手Aのファンの一人、Bさんとチャット中、ふとこのことを思い出し、私の“日本語の解釈”についてどう思うかきいてみた。やはり、『では』と『で』で意味が違ってくるという意見だった。そして、「どうしてこのような記述になるの?」「何が言いたいんだろう?」と“筆者の意図・心情”を考える話になっていった。
そのやりとりを、ちょうどチャットに入ってきた彼女が読んでいた。読んだだけで発言せずに出て、あとで「このようなこと(本人が読むかもしれないところで、あれこれあげつらうこと)はマナー違反ではないですか?」とメールがきた。「あなただったら、平気ですか?」
平気です。
もし私が、私のブログに書いている内容について、あれこれ言われてるところに出くわしたら、そしてそれが批判的な話だったら。
多少はぎょっとするだろう。しかし、まずは内容をよく読むだろう。そして、説明が必要だと思ったら、出て行って説明するだろう。誤解があると思ったら、誤解を解こうとするだろう。
書いたものに対する批判を直接聞くことができるのは、得がたい機会だと思うから。
ブログを書いて全世界に公開する以上、誰かがどこかで批判することもあるだろう。直接コメントやメッセージをくれる人ばかりじゃないだろう。知らないだけで、どこで何を言われてるか?! でも仕方がない。公開してるんだから。それを止めることなんかできない。
本の読者同士が、本の内容について議論しているところに著者が出くわして、批判的な議論ならやめてくれ、なんて著者が言う権利があるだろうか?! ブログだって同じことだ。
それでも。
ブロガーとしては、読者の批判的な意見も受け止めるだけの覚悟をしていてほしかったが。
友人としては、彼女にそんなことができないかもしれないことを、予測しているべきだった。
ブログの内容についての議論をしているというより、彼女の陰口をたたいていると感じる可能性のほうを、心配するべきだった。
やがて。
彼女は、「もう、自分のブログを読みにこないで」と言うようになった。「嫌いなら、読まなければいいのに」「どうしてそんなに気にするの?」
気になるのは、かつて夜中に何時間も夢中で電話した相手だったから? 同じ歌手の同じ曲を、「これのここのところ、いいよね!」と言い合った相手だったから?
一番の理由は、彼女が歌手Aのファンだったからだと思う。歌手Aに関することだけは、いい加減なことを書いてほしくない。それを確認したかったんだと思う。
歌手Aの新譜が出ることになった。ファンたちの喜びようは尋常ではなく、もちろん、私も一日も早く聴きたい! ところが、いつも購入するショップCのサイトに新発売情報が出ない。どうしようかと思いつつ毎日チェックしてたら、ファンサイト管理者のDさんから、ショップCの発売情報がもたらされた。彼女がDさんに「どこで買える?」と質問していたらしい。みんな喜んで予約した。
発送の連絡メールがあったころ、彼女が自分のブログに新譜の感想を書いていた。ショップCで購入した人はまだ誰も入手してなかったのでびっくり。「どこで買ったの?」とメールできくと、別のショップEで購入したとのこと。ショップEのほうが早かったとは・・・ショップEも扱ってたとは! こちらもサイトに出ないので気づかなかった。
そして、ふと考えた。
みんなが毎日チェックするショップCのサイト情報は、わざわざDさんに教えてもらうまでもなかったのでは? 客観的に見て、Dさんが購入できるショップの情報を特別多く持っていたとは考えられない。そして、どうしてショップEに早く入荷することを、掲示板などで教えてくれなかったのか? もちろん、教える義務も何もないけれど…
そうメールすると、「Dさんとは以前から個人的なおつきあいをしている(だからメールしてきいたまで)」「掲示板にはずっと出入りしていない。掲示板に来る人たちともつきあっていない(だから掲示板に書くことは考えなかった)」「今後は袂を分かちたい」とメールが返ってきた。
と、メールではそれだけだったが、伝え聞いたところでは、さらに思っていたようだ。私が、歌手Aのファンたちと行動を共にすることを強要している、Dさんとの個人的なつきあいを禁じている、と。
・・・申し訳ないが、それは全然違う。
歌手Aのファンの集まりを企画したりしてきたが、ごくごくゆるい集まりで、そのとき参加したい人、できる人がすればいいことばかり。他の活動に忙しくなっていつのまにか消えるのもあり。企画とは別に、好きなことをして歌手Aの応援をするのもあり。xxしなくてはならない、というようなこととは無縁だったはずだ。
Dさんにわざわざ質問しなくても、と言ったのは、Dさんがめちゃくちゃ忙しいからだ。歌手Aの応援のために、いつも最新ニュースをサイトにUPし、歌手Aのマネージャーとも連絡を取り合い、ファンが集まるときは公平にみんなが楽しめるように、ありとあらゆることをしてくれている。そんな人に、毎日チェックしていれば誰でもいずれわかるような情報を「教えて」というのは、いいことなのか? Dさん自身は、ファンのために役立つことを喜びとしているので、喜んで教えてくれるけれど。Dさんに質問するのは、Dさんでなければ得られない情報を教えてもらうときにこそしたい。そう思うのは変だろうか。
こうしてみると、彼女は私との関係と、歌手Aファンの集まりとの関係をごっちゃにしていると思われる。
もし、本当に私が、歌手Aファンの集まりで、独善的な行動をしていたと思ったなら、それは、ほかのファンに相談したり意見をきいたり、必要なら意見をまとめて私に抗議したりするべきではないだろうか。
とはいえ、私も心するべきだろう。気づかないうちに、誰も私に何も言えない、言ってもしょうがないという状態になっているかもしれない。
最後のやりとりの中で、彼女はこう言った。「歌手Aのファンは、あなたたちだけじゃありませんよね?」
少しあとになって、この言葉は私の胸をえぐった。そのとおりだ。だからこそ、私も、彼女も、掲示板などで、もっといろいろ話をするべきだった。新譜をどこで買おうとか、そんなことを。
今では古参のファンの一人であるBさんですら、初めて掲示板に書き込むまで、長らく読むだけだったという。表に出てこない、名前や存在を知らないファンが、どこかで、情報を求めて検索してるかもしれないのだから。
彼女は言った。「これからは、歌手Aのことはブログに書きません。一人で応援していきます」
しばらく、私は彼女のブログを見続けた。言葉通り、歌手Aのことは書いてない。そうとわかっても、元気でいることを確認したくて、見ていた。彼女は嫌だと思っているようだったが。
ブログを書いていて、特定の人には見てほしくない。って、それは無理な話だ。直接批判を受けたくない。って、読者に強制はできない。自分の書くものをただ読んでほしいなら、それはコメントも返信も許可しないメルマガしかない。読む人を選びたいなら、SNSにでも書かないと。
ブログにあってメルマガやSNSにないものは、新しい出会いだろう。検索などでふと立ち寄った人が読者になっていく、ということはメルマガやSNSでは難しい。だから彼女もブログを書き続けているんだろう、と私は推測する。
彼女がブログを書くなら、何が書いてあるにしても見たい。それはかつて親しかったから。今元気なことを知って安心したいから。
でも、見るといろいろ気になる。かつて親しかったから。通りすがりのようにスルーできない。といって、何を言っても、彼女にはもう、干渉としか受け取られない。
だから、私は彼女と離れた。何を書こうと気にしないでいるには、もう、関係ない人と思うしかない。
ブログ上でしか知らない同士だったら、もっと早くにそう思えたのかもしれない。
以前、さまざまなことで価値観を共有した感覚があるから、共有できることが少なくなった事実を、私はなかなか受け入れられなかったんだろう。
香山リカ・辛淑玉著「いじめるな!―弱い者いじめ社会ニッポン」を読むと、「日本の社会にはすさまじい同調圧力がある」とある。私は知らないうちに、そんな圧力をかけていたんだろうか。(自分がその手の圧力に鈍感で、適当にあしらってしまうことも多いので、自分がかけていても気づかないかも…)
「いじめは当事者間の関係性から生まれる」という説も紹介されている。私と彼女は、歌手Aファンの先輩・後輩/先生・生徒みたいな関係で始まり、そこから二人とも抜け出せなかった。もし私がときには後輩/生徒になるような、彼女に教えてもらうこともあるような相互的な関係だったら、少しは違っただろうか。(でも、私は彼女の得意分野で興味を持てることがこれといってなくて…)
早い段階で二人の関係を客観的に見ることができたら、事態は変わっただろうか。
離れていくのは、時間の問題だったろうか。
「何のためにブログをやってるの?」と彼女にきかれたことがある。
私がブログでやりたいことは、発信と共有。
情報とか、感想とか、研究成果とか(?!)を発信して、楽しさや喜びや、驚きや感動を共有したい。誰か、読んでくれる人と。
だから、私はここで、ブログを書いてます。
私のブログは「文が長すぎて読んでられない」と彼女は言ってたけど、たまには読みにきてくれるといいと思う。