いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

なつかしい本の話; 石田保昭、『インドで暮らす』

2012年07月29日 18時25分01秒 | インド

二か月あまり前、猫々センセに言及されていた、石田保昭、『インドで暮らす』 (2012-05-30 何ゆえに)。

この石田保昭、『インドで暮らす』は、半世紀前に出た本だ。

小谷野さんはこの石田保昭、『インドで暮らす』の蝋山芳郎が書いた序文について、「序文に書くことじゃないというような感じの文章なのである」といっている。そして、「何ゆえに」と疑問を持っている。

「何ゆえに」?という疑問へのおいらの邪推は後段で書くこととして、そもそもこの石田保昭、『インドで暮らす』について書く。

▼こ の猫々センセの記事を見て、あーなつかしや、とおいらは思った。おいらがこの本を読んだのは1980年代前半。まさに小谷野さんが「83年の22刷だから 売れた本」というように、本来は1963年に出版された本なのに20年経っても巷では読まれていたのだ。ちなみにこの石田保昭がインドに滞在したのは 1959-1962年なので、60年安保の頃である。

すでに1980年代でも時代錯誤の印象が強い本だった。この後の日本保守革命とバブルでこの石田保昭、『インドで暮らす』を読む人は絶えたのだろう。

石田保昭という人は1930年生まれ。父も祖父も職業軍人という系譜。陸軍エリートの家庭の家風なのか、石田は陸軍幼年学校へ。そこで敗戦。

「一九四五年八月二日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校に二万発の小型焼夷弾が落とされた。直撃弾で死んだ三人の戦友の死体が、焼け残った倉庫にころがされていた。」

「 一九五六年、私は修士コースを終った。博士コースの入学試験に落第したので、高等学校の講師をしながらひきつづき『インド・イラン評論』に仕事に従事していた。

 日本ぜんたいがぬるま湯のような太平な社会であった。私の頭のかたすみには、一九四五年八月二日になくなった戦友の死顔が消え去らないのに、世間の人びとの顔つきからは戦争のきずあとはもはやかげをひそめてしまった。(中略)私は日本人のものわすれの早いのに絶望した。」 (石田保昭、『インドで暮らす』)

という意識をもちながらインドに行ったということだ。ここで、「戦友」の表記に注意。陸軍士官学校はともかく、幼年学校の生徒も軍籍をもっていたのであろうか?もし軍籍をもっていたなら、すなわち軍人であったなら、おいらの愚記事の題名「日帝海軍最年少の復員兵、あるいは日帝廃棄物; 木田元さん私の履歴書」に疑問符がつきそうであった。なぜなら、木田元さんは1928年生まれであり、石田保昭さんは1930年であるから、石田さんの方が若いのだ。でも、日帝海軍最年少の復員兵という題は、日帝海軍と限定されているので、まぁ大丈夫。でも、石田保昭さんは、15歳で、敗戦。15歳の日帝陸軍復員兵となる。ゾル転して、一高(?)⇒東大と進む。

東大文学部の東洋史でインド史を専攻する。マスターは出たけれど、ドクターコースの試験に落とされる。その落第の後に「インドに行って日本語を教えないか?」と指導教官あたりから勧められた。

奇書、『インドで暮らす』

突然ではあるが、林真理子の業績として”「ねたみ・そねみ・しっとを解放」したことである”との斎藤美奈子の評(『文壇アイドル論』)が知られている。しかしながら、この本『インドで暮らす』石田保昭では、呪い、が公然と吐露されている。そして、僻み根性に基づくぐち、ひいては中傷が舞う。

   ●ひがみ篇

例えば、石田が駐印中に東大の考古学調査団が来る。この東大考古学調査団への感想がすごい。

このくだりは本書をコピーした↓ (クリックで拡大)。酔狂な方はお読みください。

 コピペ画像1

 コピペ画像2

東京大学インド史蹟調査団が来た(上のコピペ画像1の③段落)。⇒ニューデリーの日本人社会⇒ある商社のニューデリーの駐在員は、・・・スキヤキ、・・・ジョニー・ウォーカー、・・・ボンベイは公認売春地域である・・・さっぱりしたほうがいいね・・・アングロ・インディアンを買いに行く(上のコピペ画像1の⑤~⑦段落、コピペ画像2の⑧~⑨段落)。⇒⇒

 このオッサンは極端な例だが、日本人のあいだにこのようなことを赦す雰囲気があるかぎり、インドの人びとの持つ悲しみはわからないはずだった。
 そして、日本の「伝統ある」東洋史学をどう考えればよいのであろうか。-私が日本にいた時から抱いていたこの疑問は、ついに結論に達するに至った。  (上のコピペ画像2の⑪段落) 石田保昭、『インドで暮らす』

 つまり、東大の調査団が来たことに始まるこの話は、なぜかしら商社のオッサンの酒池肉林ばなしを挟んで、最後は日本のアカデミズムである東洋史学へのある種の評価断定に終わるのである。

  呪い篇

 そして、石田保昭は、のろう。

 私は、インド人官吏と同じ待遇を要求してインドにやってきた自分自身の馬鹿さかげんをのろった。へんな意地をだして給与改訂願を提出しなかった自分をのろった。また、外国人がインドで、三一〇ルピーの収入で、食事、部屋代、敷金、計六四五ルピーを支払わなければならないことに少しも神経をはらわない校長をのろい、事務長をのろい、インド政府をのろった。

「何ゆえに」?

この石田保昭、『インドで暮らす』の冒頭にある、蝋山芳郎が書いた序文が小谷野さんが興味、あるいは疑問をもった。なぜこんな「ひどい」文章を序文で載せるかと。例えば上の商社マンの話との関連を踏まえて、蝋山芳郎は書いている; 

石田君のような二七五ルピーという低額所得者は、当然のこと、日本人コロニ―から離れ、孤独のなかに、生活していかざるをえない。ときには冷房のバンガローに住み、冷蔵庫、自動車、自動車をもつほかの日本人の生活を横目でみながら、彼らの暮らしをぜい沢な生活として(中略)、思わずうらやむ気持ちになって、ひがんでみたくもなろう。また自分が招いた生活であって、他人に責任を転嫁すべき筋合いのものでないにしても、そのようなねたみの感情のとりこになるのもいたしかたなしと理解できる状況のひどさなのである。  石田保昭、『インドで暮らす』の冒頭にある蝋山芳郎の序文より

こういう物言いを小谷野さんは「序文に書くことじゃないというような感じの文章」と指摘している。

おいらは、以下の理由からこの序文は蝋山芳郎の「親心」なんじゃないかと思う。そして、この一見失礼な序は岩波の編集者からの依頼なのではないかと邪推する。

①まず、この新書の刊行に先立ち、石田保昭はトラブルを起こしている。すなわち、1961年頃、岩波の雑誌『思想』で現代インド知識人論を書き、インド人から批判を受けている。そもそもその石田のインド知識人論がインド駐在経験にかさをきた印象論のようなものだったと、今から見れば、推測できる。

②当時、1960年代初頭、岩波新書や『思想』に執筆できるのは、相当の文化人か大学教官であった。例えば、この1962年の時点でのインド記は堀田善衛の『インドで考えたこと』(1957年)[関連愚記事: 【堀田善衛が『インドで考え』なかったこと】]、海外記という観点からは、小宮隆太郎、『アメリカン・ライフ』(1961年)などある。堀田は、かっぱらいだったけど、芥川賞作家だし、小宮は当時東大助教授だ。この頃の岩波新書の刊行点数は極めて少ない。 

③つまり、無名な石田が、しかもドクターの試験に落ち、インド滞在という経験だけで書いたものを出版するかどうするか編者者・出版社で議論になったのではないだろうか?出版をしたい担当編集者は、他の編集者、出版社側そして岩波で本を書きたいと願う凡俗なあまたの文化人・大学教官などの作家予備軍の目を気にしなければいけない。

④そこで、石田保昭、『インドで暮らす』出版をしたい担当編集者は、この本やそれまで書かれた石田の文章に「偏り」があることをあえて認め、それを自覚していることを表明するために、思わずうらやむ気持ちになって、ひがんでみたくもなろう。また自分が招いた生活であって、他人に責任を転嫁すべき筋合いのものでないにしても、そのようなねたみの感情のとりこになるのもいたしかたなしと理解できる状況のひどさであったと、蝋山芳郎の「親心」としての序文を巻頭に載せることにしたのではないだろうか?それを進めたのは担当編集者であり、その動機は、印象論に基づくインド論への批判をかわすための保身的なものである、とおいらは邪推する。


▼ 

上記の「東京大学インド史蹟調査団」の代表として来たのが、荒松雄 (関連愚記事: 若泉敬 荒松雄 インド1952)に違いない。

 (その成果は現在ネットで見れる; 東京大学東洋文化研究所所蔵 デジタルアーカイブ デリーの中世イスラーム史跡:図面・拓本・地図集成 インド史跡調査団 )

東京大学インド史跡調査団は、山本達郎(団長・現東京大学名誉教授)、荒松雄(副団長・現東京大学名誉教授,歴史学)、月輪時房(現聖心女子大学名 誉教授、考古学)、三枝朝四郎(写真撮影)、大島太市(写真測量)の諸氏から構成され,1959~60年、1961~62年の二回にわたって現地調査を実 施しました。 (情報元: デリーの中世イスラーム史跡:図面・拓本・地図集成とは

『インドで暮らす』にも書いてある。

調査団の先生はときどき私をまねいてごちそうしてくれた。だが私には、日本から持参の食料も胃に苦しく感じられ、私は調査団のニューデリー滞在中、彼らのやることを他人の目で見ているようなことになったのだった。

恐らく、その石田を招いて日本からの食料を恵んでくれたのが、荒松雄ら偉いセンセたちだ。そして冒頭にも書いたが、彼らこそ石田保昭をドクターコースの試験に落第させた御先生たちでもある。

ただ、石田はひねくれて(?)傍観者きどりではよろしくなかったかもしれない。なぜなら、その時石田が就任していたインド国防省の外国語学校に日本語教師のポジションに、その数年前に就いていたのが、荒松雄だからである。恐らく、過酷なデリーで日本語教師をやっている石田を荒が気に掛けないはずがない。なぜなら、東大東洋史学は、日本の他のあらゆる組織と同様に、ムラ社会であるに違いないからだ。荒はムラ人として、同じムラ人、しかも同じ役職に今ついている石田に気遣いしないはずはない。

でも、石田はムラ人として「素直」になれなかったようだ。つまり、積極的に「東京大学インド史蹟調査団」の仕事を手伝い、大センセに媚を売り、あまつさえ、潜りんで込んでしまって、日本でよいポジションを得ようなどいう魂胆は見えない。石田のしたことは、私は調査団のニューデリー滞在中、彼らのやることを他人の目で見ているようなことになったのだった。

その理由は、「時がたつにつれて疑問がわきはじめた。日本が中国を侵略していたころ、京都大学でも東京大学でも、東洋史学は戦争に反対もせず象牙の塔にこもって沈黙を守っていたといわれる。」という意識を持っていたからだ。おそらく、へんな意地をだしたに違いない。

 

 

 

 


おいらも、砂糖と塩

2011年06月12日 16時08分40秒 | インド

インドで買ってきた、砂糖の結晶。インドでは製糖関連産業で、ちぃーと、仕事をした(非コンビナート系・工場萌えな日々)。インドは砂糖であふれている。インドと日本の大きな違いだ。インド人が調理場で具体的に砂糖を使うかは知らないが、ひとつの砂糖の使い方は食後に使う結晶の砂糖。ミントと合わせて、バリバリ食べる。口を漱(すす)ぐのだ。

石で口を漱ぐのは無理でも(⇒愚記事;「滅びるね」 @浜松駅)、結晶で口を漱ぐ人たちはいるんだょ。 彼らは、核武装したんだょ(⇒愚記事;■核武装し大国化するインド;)。

"歯磨き粉"が砂糖とはこれいかに?インド人に虫歯が多いのだろうか?(たぶん、そんなことはないのだろう)。これは、インドでの食事で気づいたこと。そして、この、日本では見ない、砂糖結晶をなんとか手に入れたいと思った。

インドの食料品店にあった。袋詰めで売っていた。この結晶砂糖は調理に使うんだろうか?溶けにくいだろうな。砕いたりして使うんだろうか。あるいは砕いて使うんだろうか?

なお、一緒に仕事をしたインド人は、ものすごく砂糖を入れた紅茶を飲んでいた。びっくりするほど、砂糖を入れて飲む。インドは砂糖にあふれている。っていうか、おいらがさとうきび畑に働きいったんだよ。

インドでは古くからさとうきびを栽培して、砂糖をとっていたらしい。毛唐さんが砂糖を知った経緯については複数の説がある;

1.紀元前三二七年、インドに攻め込んだアレキサンダー大王の軍隊は、インダス川の流域などに茂するサトウキビを発見して、「蜂を要せずして蜜がとれる葦」と報告し、甘蔗糖(砂糖)がヨーロッバに伝わるもととなった、と伝えられる。蜂蜜をほとんど唯一の甘味としていた人々にとって、サトウキビは東方の神秘と思えたのでもあろう。(大塚滋、"戦争と食べ物"、別冊歴史読本「世界の戦史」)

2.ヨーロッバのキリスト教徒が砂糖のことをかなり詳しく知るようになり、自分で砂糖きびを栽培するようになったのは、一一世紀末にはじまった十字軍運動からだと思われます。(中略)

 こうして、聖地の回復という意味では、十字軍は成功とはいえませんでした。しかし、七回以上にもおよんだこの大遠征で、ヨーロッ人は、イスラム世界との交易の道筋をつけることに成功しました。また、当時、自分たちのそれよりはるかに高いレベルにあったイスラム世界の文化、とくに、医学や科学の技術をすすんで取り入れることにも成功しました。西洋近代の科学の基礎は、こうして築かれたのです。(中略)

 砂糖きびの栽培と製糖の技術もまた、このルートでヨーロッパに伝えられた技術のひとつでした。(中略) 

 それまで、甘味といえば蜂蜜しか知らなかったヨーロッ人にとっては、砂糖の強烈な甘さと純白さは、何か神秘的なものにみえたことでしょう。 (川北稔、『砂糖の世界史』)

 

砂糖になじみがなかった点は日本と同じだ。今でも、砂糖を取り過ぎるとヤバイという感覚は日本にはあると感じる。今はやっていないが、数年前はラジオでさかんに砂糖産業が「砂糖は体に有害はデマです!」とCMを打っていた。

日本人の一部の中にある"砂糖を取り過ぎるとヤバイ"という感覚は、ある種の禁欲主義から来ているのだろうとおいらは睨んでいる。砂糖の甘さは快楽であり、それが過ぎると、堕落するような気分になるのはないだろうか? おいらも、バカやキチガイはしかたないとしても、デブだけにはなりたくない。

猫猫センセも少なからずそういうデブだけにはなりたくないという感覚があるのだろう。なぜなら、デブにならないにように金剛杖とやらを使ってがんばっているらしいので。景気をつけろ!ちゃりん!ちゃりん! おいらは、ただただ、夜更けにおいらの部屋の窓の下を、ちゃりん!ちゃりん!と杖をついて歩く御大が通過しないことが願うばかりだ。でも大丈夫だ、ここは筑波山麓だ。来るわけがないのだ。

猫猫センセは、いうまでもなく、健康のためにデブを忌避しているのではない。なぜなら、本当に健康に気を使っているのであれば、まずは、タバコをやめることもできるからだ。でも、放射能を忌避した気配もあるので、長生きしたいという徴候も見える。

話は飛ぶが、デブじゃないと困る点は、"和服"を着た時、帯のすわりが悪いということがある。谷崎マニアの猫猫センセは、自らも和服コスプレをしたり、あまつさえ披露したりしないのだろうか?素朴な疑問。ママチャリのハンドルを握った姿じゃ、恰好がつかんべさ。

昔、はたちの頃、ちょん髷+和服というのは中年日本人男性、つまりはデブでハゲに(も)似合ったいでたちなのだと気付いた。

■さて、上記の川北の説に関連して、グラニュー糖といって粒粒の砂糖は、みなさんもなじみ深いでしょう。そのグラニューは英語のgranular=粒粒、から来ている。そして英語のgranularは典型的なアラビア語起源の言葉。砂糖移管とともに欧州入りしたのだろう。一番上の画像こそgranularだ。そして、自形(euhedral⇒google)の結晶だ。結晶の平衡系での出現する結晶面に囲まれている。結晶としての砂糖という認識は、日本人にはなじみが薄いと思う。一方、ヨーロッパには上白糖がないのだ(稀なのだ)といううわさも聞く。

ちなみに、この粒粒砂糖をナメクジにかけても、ナメクジの水分は吸収されづらいだろう。

■南の島; 近代日本では南の島でさとうきびを栽培、製糖している。おいらも、働きにいった。

 南の島⑥ さとうきび 

一方、南の島では、日差しが強く、そして風があって乾きが早いのだろうから(⇒こんな風景)、

塩もつくっている。⇒http://www.yukisio.com/products.html

砂糖と塩のリャンファンついているのだ。恐るべし、南の島。

なお、毛唐さんは塩を岩塩から調達している。岩塩は日本にはない。岩塩って昔浅瀬の海だったところで、海水が干上がって塩が堆積したもの。つまり塩田の化石だ。だから、ヨーロッパ人は塩田、つまり強い日差しの海岸が必ずしもなくても、社会を維持できたのだ。

地球上のいかなるぬんげん社会もかならず塩を調達しているので、どう調達しているかを明らかにすることは、その社会の特性の一面を明らかにする。

■インドと塩

デリーには6回行った。最初はなかったけど、ある年忽然とこの像が現れた。塩の行進。⇒wiki。知らなかったよ。ありがとう、像。知らせるという像の役目は果たされているよ。

 

 

■で、"本歌"の猫猫センセの「2011-06-11  砂糖と塩」 (直接リンクはしないょ);

ところで、仕事上の必要があって『ノルウエイの森』を読み返していたら、ナメクジを呑んだ男の話が出てきて、気持ち悪くてそのあとで塩水を飲んだ、とあったが、これは多分、ナメクジは塩で溶けるという俗説 を信じたのだろう。ナメクジに塩をかけると縮むのは、塩が水分を吸い取るからで、砂糖をかけても同じなのである。『ウルトラQ』でも、ナメゴンを海に落と すというのがあったが、あの場合、浸透圧とかの関係で何とかなるかもしれないが、塩水を飲んでも意味はないだろう。

 村上春樹が、そんなこと先刻承知で、バカな男を描いたのかというと、どうもそうは思えない節がある。

(強調ikagenki)

いいたいことから考えて、砂糖をかけても同じなのである、は、塩水をかけても意味がない、とした方がいいのではないだろうか?砂糖が引かれる積極的理由がわからない。なんなら、小麦粉でもいいわけだ。あと、そもそも砂糖(上白糖)が本当に吸水性があるかおいらは確認するまで不安だ。その物質が水に溶けることとその物質の吸水性って原理的には別のことだょ。

もちろん、でも、そうすると、砂糖の出番がなくなり、猫猫センセの砂糖と塩話が成立しなくなるのだ。竹に木を接ぐ話ならぬ、塩話に砂糖をかませるがうまくいっていないのだ。

三題噺どころか、二題噺だって、はむずかしいのだ。

って、いうか、これは、比較文学なるもの比較とか並列とかの虚無性を指摘しているのかと思った。なんなんだ!「砂糖と塩」。

 

 

 

 


地震で壊れたもの I; 素焼きの器

2011年06月07日 19時51分02秒 | インド

3/11の地震で壊滅したおいらの部屋(愚記事; 筑波山麓で受けたM8.8の地の波の結果について、おいらの見たこと)で壊れたもの、インドから持って帰ってきた素焼きの器;

壊れる前の姿⇒愚記事;インド:素焼きの器:あるいは持続可能性  。 うーん、もう7年前だ。

持続しなかったよ。インドの素焼きの器。大好きだったのに。

 

■先日、本屋に行って立ち読みしてたら、スピヴァクセンセの家庭は、チャンドラ・ボースの家庭と付き合いがあったとのこと。『ナショナリズムと想像力』Amazon

そのAmazonのお品書きにはこう書いてある;「母国インドの解放・独立に沸く幼年時の高揚した記憶をもとに」....。

スピヴァクセンセは、うちはチャンドラボースのおうちとは家族ぐるみのお付き合いだったと、"母国インドの解放・独立に沸く幼年時の高揚した記憶"を、旧枢軸国であったブルガリアで語る。そんなスピヴァクセンセは、1942年(昭和17年!)のお生まれ(知らない人のために、スピヴァクってこんな人⇒wiki)。当のチャンドラボース様は陥落したシンガポールでインド国民軍の創設に"高揚"していた(⇒愚記事;Chalo Delhi! INA :インド国民軍  )。その後、チャンドラボースは故郷のベンガルは、カルカッタ/コルカタには帰ってないはずなので、スピヴァクセンセは、残念ながら、チャンドラボース様の御尊顔には拝してないわけだ。でも、チャンドラ・ボースに言及せずして、"母国インドの解放・独立に沸く幼年時の高揚した記憶"は呼びもどせない。

 

"悪の化身に他ならない(⇒愚記事;アルカイーダ→ポチ・相転移 )"枢軸国と虎穴に入らずんば虎児を得ず!の冒険を犯したチャンドラボースは、日の丸を背にした;

(わずかに見える、スバス・チャン、はスバス・チャンドラボースの一部である)

愚記事;ラールキラー 新展示  。

資本と技術とグローバリゼーションの渦に巻き込まれて(愚記事:技術も資本も人間にとって不気味なもの)

さて、おいらが、7年前に素焼きの器にインドで出会ったのは、バイト先のお使いでインドに行ったからである。バイトは、資本と技術とグローバリゼーションの渦の真っただ中に巻き込まれたものであった。インドではIIT出のお兄ちゃんたちと仕事をした(⇒愚記事; IITの諸君; インドの衝撃 )。そのうち何人かはベンガルの出身であった。チャンドラ・ボースの話で意気投合。仕事そっちのけで、(ブルジョアさま、ごめんなさい。)仕事も一生懸命やったが、チャンドラ・ボースの顕彰に時間を捧げた。その時の模様が上記愚記事(ラールキラー 新展示)である。ベンガリ(ベンガル人)にとって、チャンドラ・ボースは、日本人にとっての"聖徳太子"みたいなものだ。その証拠に、会ってもいない、スピヴァクセンセも、チャンドラ・ボースとの心理的距離の近さを誇示して、"母国インドの解放・独立に沸く幼年時の高揚した記憶"を、語っているではないか!

 

それにしても、スピヴァクの師匠は、ポール・ド・マンだ......、枢軸・ファシスト....。うーん、やはり、おいらは、いい筋しているのではないだろうか.....。

 

 


インド・天地総子! YouTubeにあった。Leke Pehla Pehla Pyaar

2008年07月21日 12時43分09秒 | インド
2004年08月16日 に投稿した記事:インド・天地総子! のビデオクリップをYouTubeで発見。

こういうのは好き嫌いが激しいので、酔狂な方はどうぞ。はまっても知りませんが...

でも、コメントで、ugly! とか、she is behaving like slut and cheap act to getting famous by being stripper とか.....。

Leke Pehla Pehla Pyaar


title; Leke Pehla Pehla Pyaar

岸信介 ネルー あるいは、 安倍晋三

2005年08月01日 22時30分03秒 | インド

先日、日曜、あいつぐテレビ出演の 安倍晋三@長州。

■報道2001では、6カ国協議に出席している自国の外交官を、「外国のつくった土俵で,『いいこちゃん』になりたいだけ。戦後60年のばかのつけ(意訳)」、と評論。


■サンプロでは、アカの委員長と対峙。

その中で、戦争あるいは戦後責任を取るとは何か?について応答。

戦後日本、具体的には、岸内閣時代には、インドと国交回復。

先日、晋三が訪印した時には、インド/シン首相と、岸とネルーの会談、あるいはチャンドラボースのことに言及したと。

そうだ、ネルーこそ日本に来た最初のインドの(事実上の)最高権力者だ。

象さんくれた。 インディラ。 ネルーの娘、のち首相、のインディラからの名前である。

ネルーが日本のがきんちょに象をくれてやった理由は、

日本の敗戦廃虚の中からネルーに象さん下さいと送った日本がきんちょの象さんの絵がどれもこれも象さんじゃなかったことに、ネルーがショックを受けたとされている。

つまり、日本のがきんちょの象さんの絵はどれもこれも鼻の長い犬、あるいは鼻の長い牛だったのだ!

さて、サンフランシスコ講和条約に参加しなかったインドの理由は米国の沖縄占拠である。

つまり、沖縄を日本に返さないサンフランシスコ講和は間違いであると主張したのである。

パール判事にせよ、ネルーにせよ、いわずもがなチャンドラボースにしょ、愚民党や、(沖縄をちゃんと「預かってね!」といったとされる)ひろひとさんより、よっぽどまともなのである。

◆ここで、いつもなら、岸と宮本顕ニの写真をつけて、長州です、とキャプションをつけ。

ひろひとさんの写真をつけて、沖縄よろしく!とキャプション。

ネット環境悪くてあたわず。




ふらっしゅ・ばっく; いか@ :インドで働いたこと(7/4-19)。

2005年06月29日 06時13分26秒 | インド


この画像、もし手前のオートリキシャ、緑と黄色のオート三輪、が写っていなければ、北米あたりのインド人コミュニティーの学校帰りの子供にも見える。後ろには高級乗用車が写ってるし。

これは、デリー、それもオールドデリーの市街地での写真。

インドにも、みぎわさんとまるちゃん、がいるんだなとおもいますた。

実際、彼らはインドでは稀種で、インドの現実は、ずーずーしいおいらでも、カメラを向けるのがはばかれることの連続でした。むしろ、このブログにある「こじき」の写真はとりやすかったといえます。

去年の明日始まった「いか@ :インドで働いたこと(7/4-19)。」も今日でおすまい。

来週から、おいらは薩摩出張だす。


首相訪印

2005年05月03日 18時26分55秒 | インド
小泉首相が先週末訪印した。彼は初めて。日本首相としては森前首相の訪印以来4-5年ぶり。ただし日印首脳はここ1年4度も会談しているそうだ。インドは日本にとって重要である。外交的にも中国を牽制するため、経済的にも中国投資のリスク分散のため、重要である。

デリーはここ最近、大国のインド詣でが相次いでいるそうだ。パキスタン、中国そして日本である。先日、中国はデリーで「アジア」代表を僭称して、日本を非難した。インドは戦後長らく中国とは準敵対関係にあった。中印戦争までやった。

しかし、9・11テロ以来、アフガン攻撃のため米国はパキスタンに接近。インドとパキスタンはこれまた仲が悪い。だからこそ中国とパキスタンは仲がよかった。しかし、パキスタンと米国が接近したためパワーシフトがおこり、インドは中国をいつまでも敵にするわけにいかなくなった。さもないとインドは、米パキスタン中の3国トライアングルから孤立してしまう。そこで、数年前からインドは中国と関係を改善しはじめた。その最終仕上げが先日の中国共産党総書記の訪印である。

一方、インドは国連常任理事国入りを日本と協調している。中国が日印分断をしたいという政治的野望をもっていることは上記の「日本反省しない侵略国」プロパガンダから明白である。

さて、小泉さん。わずか2日あまりの日程。小学校を訪問し踊り、日本語授業など観たとのこと。

小泉首相とインド在住の日本人20人あまりとの会合に参加した青年の日記に会見描写が書かれている。我々がよく知っている小泉首相とそうでないところがいきいきと書かれている。インド状況論とあわせてとてもinformative.


おいらとしては、デリーのキラー城の歴史展示館のチャンドラ・ボース展示室に行って欲しかった。






JapanでなくNippon.当時日本ではJAPANは蔑称との認識運動があった。

キラー城外観