いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

横浜⇒東京散歩;JR/東急・長津田駅 → 玄海田公園 → 東急・すずかけ台駅

2021年04月25日 16時12分11秒 | 武相境

50年前はほぼ谷戸であった地域を、すっかり変貌した現在、散歩した。でも、玄海田公園の西には昔ながらの谷戸地域が残っていた。

1960年代の航空写真(1967年以降)。 位置を現在の施設でいうと;1;長津田駅、2;岩川、3;玄海田公園、4;長津田町、6;東工大裏人造切通し、7;東急田園都市線・すずかけ台駅

この当時、田園都市線はまだない。○2の南西(左下)に県営長津田団地がみえる。1967年建設とのことなので、この航空写真は1967-1969年に撮影されたとわかる(大前提でこの航空写真の年代が1961-1969となっている)。

■ 1.長津田駅 → 2.岩川

長津田駅

駅前は工事中。何やら大きな建物ができそうな気配。

駅近くを歩くと、土蔵。



国道246号線:厚木街道、御前田交叉点。

岩川

神奈川県横浜市緑区長津田町の旭区との境界付近に源を発し北流。概ね国道246号と平行し、緑区いぶき野で恩田川に合流する。

上流域は竹林などの自然が多く、中下流域は密集した住宅地の中を流れる。ほぼ全域にわたり高いコンクリート護岸に囲われ水辺に降りることができない。臭気は無いがゴミが散見され、清掃などの対策が課題である。

最上流に位置する長津田町岡部谷戸地域の源流は、長津田町小川アメニティとして整備されており、夏季にはホタルも観察できる。 (wikipedia

■ 2.岩川 ⇒ 3.玄海田公園


玄海田公園入口

▼ 玄海田公園 園内

 



玄海田公園地図(横浜市環境創造局)。数字(1→6)は歩いた道順。


1960年代の航空写真(右) 赤矢印は深い谷


上図の赤矢印の深い谷

 
2の草地広場

 
3の野球場


4のバーベキュー広場

▽ 樹木地区(谷戸の山の部分)を横断


西口広場と出口

■ 5.玄海田公園(西側出口) ⇒ 6.東工大裏の人工的切通し


地図5-1

地図5-1での「a」の谷戸

 
人造の切通し

■ 6.切通し ⇒ 7.東急・すずかけ台駅

Ba a great small

国道246号線:厚木街道


Google map

■ まとめ


Google map

神奈川県 横浜市 緑区 

長津田
長津田みなみ台
長津田町

東京都 町田市

つくし野

 


新しい街でもぶどう記録;第328週

2021年02月20日 20時35分59秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第328週 

■ 今週のよその猫

上記よその猫2枚は、都内文京区。

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

都内文京区、小石川植物園

■ 今週の草木花実

■ 今週の営業車

アヲハタ株式会社(あおはた、AOHATA Corporation)は、広島県竹原市に本社を置く食品会社。「アヲハタ」ブランドで缶詰・ジャム類を製造している。 (wiki

■ 今週の開きっぱなし

地下鉄のホームドアが閉まっていない。 工事中とのこと。

■ 今週の since

都内文京区小石川。 1971かと思ったが、よく見ると、1917。大正6年。 関東大震災(1923)より昔。

河野歯科 wb site

■ 今週のお遍路さん

都内文京区、小石川植物園

■ 今週の女優さん@令和の原節子

ユダヤ人を排斥し、最終的には大量殺害を謀ったドイツの政権政党ナチスのゲッペルスと映る女優、原節子。


google

当世、特定人種虐待国家のために演じる女優@令和の原節子

 google


「今度、一緒に写真撮ろうね! 待ってるぜ」

■ 今週のお支那さま


纏足用の靴  東洋文庫ミュージアム 『大清帝国展 完全版』web site

大清帝国の版図は現在の中共支配地域よりやや広い。その「やや」のひとつが台湾だ(他にモンゴルなどがある)。台湾は1683年に康熙帝により征服される。チベットも康熙帝により1721年に征服されている。さて、中共でチベットを征服したのが毛沢東。しかし、毛沢東は台湾を征服できなかった。なので、台湾を征服する者こそ大中華帝国の再興者となれるのだ。いよいよだ。

  +     = 

ふたり合わせて、大帝だ; 毛と習とで、大中華

・大清帝国をつくったのは満州族で漢民族を征服したとき「四書五経」を満州語に訳した。でも、北京に住み、チャイナ全土の支配者となった満州族は3代目にもなると満州語を忘れ、満州語を初代が訳した満州語の「四書五経」を参照したとのこと。そして、現在、満州族は「中国人」に同化しているらしく [1]、特に満州族アイデンティティを持っていないようだ。愚ブログで言及されている満州族の末裔はだ。その老舎が満州語ができたのかは、おいらは、わからない。

今その満州語をYouTubeで聞いてみた。その音や調子は、満州語は中国語より韓国語に似ているとおいらは感じだ。

[1] 居住地域を内城に限定されていた満洲旗人が,なぜどのようにして自らの言語から被征服民族の言語への切替えを行なったのか,その具体的な契機や経過はほとんど解明されていない。(ソース)

■ 今週の「変」

神変に続く、共変。


東京散歩;東急中目黒駅 ⇒目黒駐屯地 ⇒有栖川公園 ⇒麻布十番 ⇒芝 ⇒西新橋 ⇒浜離宮恩賜公園

2020年10月26日 19時03分37秒 | 武相境

1;東急中目黒駅、3;自衛隊目黒駐屯地、4;恵比寿(旧伊達町)、5;有栖川公園、6;麻布十番、7;西新橋、8;浜離宮恩賜公園

■ 1;東急中目黒駅 ⇒ 3;自衛隊目黒駐屯地


東急中目黒駅


目黒川


中目黒公園


目黒川沿いの桜並木

陸上自衛隊においては目黒駐屯地、海上自衛隊においては目黒地区、航空自衛隊においては目黒基地と呼ばれる wiki

駐屯地内に段丘崖がある。

1945年(昭和20年)11月:イギリス連邦占領軍(オーストラリア軍)が進駐(エビスキャンプ)。英連邦軍東京分区本部(Headquarters, British Commonwealth Sub Area Tokyo)を設置 (wiki

駐屯していたのは、3 RAR = 第3大隊、王立(royal)オーストラリア連隊らしい;

3 RARは、1945年10月20日に第67大隊として最初に結成されました。大隊は、日本の英連邦占領軍の一部としての占領任務を目的としており、オーストラリア第3、第6、第7、第11師団の志願兵で構成されていました。大隊は、1948年11月に連隊が結成されたときに、オーストラリア連隊の第3大隊に再指定された。1949年3月に「ロイヤル」接頭辞が追加された。

第67大隊は、1946年2月にオーストラリア第34旅団の一部として日本に到着した。[3]他の占領軍と同様に、大隊は重大な抵抗や市民の不安に遭遇しなかった。日本のオーストラリア軍は徐々に縮小され、朝鮮戦争の勃発時に国内に残された唯一のオーストラリア大隊は3RARであった。出典


4人の豪兵  この豪兵カルテットは上記の王立(ロンドンの女王陛下に忠誠を誓う)オーストラリア第3大隊の所属ではなく、第67歩兵連隊の所属。岡山に駐屯していた部隊。撮影場所は皇居。記録によれば、第67歩兵連隊は岡山から東京に2ヶ月東京に防衛任務遂行のため来たことがあるらしい。なお、豪兵を含む英連邦軍が連合国として割り当てられた領地は中国地方(中国、四国の中国)。呉や鳥取などに英連邦軍が進駐、占領した。鳥取にはインド兵部隊がいた。

■ 3;自衛隊目黒駐屯地 ⇒ 4;恵比寿(旧伊達町)


新茶屋坂通りを上り切ったあたりで後ろ(目黒川方面)を振り返る


恵比寿駅方面へ下る

このJR線(山手線、埼京線、湘南新宿ライン)を跨ぐ橋がアメリカ橋=恵比寿南橋と今回初めて知る。wikiに下記あった;

もともとはアメリカセントルイスで1904年に開催されたセントルイス万国博覧会に展示されていたものであった。それを日本の鉄道作業局(当時)が買い取り、鉄製の橋のモデル橋として1906年(明治39年)に現在地に架設したことが愛称の由来である。橋は1970年(昭和45年)に改築されている。


日仏会館。ここにあると初めて知る。

恵比寿(3)あたりを歩いていると、ばったり出くわした伊達情報。伊達といっても、宇和島伊達家だ。

恵比寿3丁目付近を散策していると「伊達坂」や「伊達マンション」なる、「伊達」という文字をよく目にする。1928年~1966年まで恵比寿3丁目付近は「伊達町」という町名でした。

江戸時代、恵比寿三丁目付近は宇和島藩伊達家の下屋敷が存在した

下屋敷は前藩主がすむ「おじいちゃんの家」的な扱いだそうです。そんな前藩主の住んでいたのが恵比寿三丁目にあった「下屋敷」 (恵比寿新聞より)

伊達坂という地名が残っていると初めて知る。仙台坂は聞いたことがあったが。

■ 4;恵比寿(旧伊達町)⇒ 5;有栖川公園


渋谷川を渡る。つまり、谷の最低地にたどりついたということ。


広尾

昭和のおもちゃ屋。 トミカのミニカーって今もある知る。


広尾、外苑西通りを渡る。広尾は低地(谷底平地、沖積平地)にあると知る。


外苑西通り


外苑西通りを渡り、有栖川宮記念公園に向かう。低地から台地(淀橋台)を登る。淀橋台は古い台地なので、そうとう開析され、段丘崖はなめされて、緩い坂となっている。淀橋台のなかでこの有栖川宮記念公園が乗っている部分を麻布台地という呼ぶ例もある。つまり、この散歩では「麻布台地」の登り、降りをする。

ちなみに、地名として「麻布台」がある。しかし、この「麻布台」が載っている台地は飯倉台地なのだ。ややこしいが。麻布十番の低地を越えて、古川を越えて北上すると台地があり、それが飯倉台地。(ラジオ日本がある)「麻布台」はこの飯倉台地にある。

▼ 有栖川宮記念公園

最高部へ登る。

最高部は台地面。「麻布台地」は淀橋台なので、この面は下末吉面ということになる。

有栖川熾仁親王像

■ 5;有栖川公園  ⇒ 6;麻布十番

麻布台地の最高面にある、仙台坂上交叉点。五差路とわかる。上の画像の奥へ行く道が下り坂で、仙台坂。

おいらは、仙台坂を下るのではなく、麻布台地の平坦面を北上する道を、麻布十番へ向けて、行く。

このあたり、麻布台地の北側の端。この先、下り坂。台地も終わりだ。

麻布十番に降りる。


きみちゃん像

麻布台地の地形図(左)と地図。地形図(左)での赤矢印が仙台坂。おいらの散歩経路は黄色田印。

■ 6;麻布十番 ⇒ 7;西新橋


一の橋


西新橋

■ ⇒ 浜離宮恩賜公園

■ まとめ;通過町名

目黒区

上目黒、中目黒、目黒

渋谷区

恵比寿、広尾、

港区

南麻布、元麻布、麻布十番、三田、東麻布、芝公園、西新橋、新橋、東新橋

 

 


今度読みたい親米派@敗戦で「奴隷状態から解放された」 常盤新平@武相境

2020年07月12日 10時47分37秒 | 武相境

愚ブログの「親米派」シリーズ;①黒塗りの家に住む親米派②赤レンガの家で中国整体を営む親米派、③蔦に覆われちまった親米派④犬を連れた親米派⑤絵にかいたような「親米派」⑥ネット広告でみた親米派@真打=米軍ハウスに住みたい!に続く第7弾。

直木賞作家、常盤新平。『遠いアメリカ』が、第96回直木賞、1986年。その『遠いアメリカ』の内容というのが、"アメリカにあこがれペーパーバックを読みあさり、翻訳の勉強にいそしむ大学院時代の自身を描いた自伝的小説" とwikipediaに書いてある。

おいらは、常盤新平を読んだことがない。でも、なんとなく知っていた。翻訳家だし、『遠いアメリカ』という対米憧憬意識のある人なんだろうと。今、たまたま手元にある雑誌『文藝春秋』2018.8月号の坪内祐三、人声人語 連載182にある;

(1980年に)書店に内容見本が差してあるラックで素晴らしい刊行物を見つけた。『ハッピーエンド通信』だ。同人をつとめていたのは常盤新平、川本三郎、青山南の三人で作家デビューしたばかりの村上春樹もよく登場した。

今度読んでみたい、常盤新平、『遠いアメリカ』。

さて、最近、その常盤新平にネット検索であたった(hitした)。仙台の進駐軍(当該ブログ記事)について調べるためネットで検索すると;

中学2年の時に終戦を迎え、焼け跡のバラックで雑誌『ライフ』を購入。アメリカへの憧れを抱くようになる。アーウィン・ショーの短編小説『夏服を着た女たち』に出会い、翻訳家への道を歩み出す。町田市民文学館 「常盤新平の業績」企画 

東京都町田市と仙台は関係ないはずのだか、なぜかしらhitした。調べるとわかった。常盤新平は仙台で育ったのだ。(仙台戦災地域

小学校時代に仙台市に落ち着き、高校卒業までを同地で過ごした。宮城県仙台第二高等学校を経て、早稲田大学第一文学部英文科卒。同大学院修了。(同上wiki)

常盤新平は敗戦時14歳。米陸軍第八軍の第11空挺師団が占領する仙台で18歳まで過ごし、東京に出たらしい。仙台の焼け跡のバラックで雑誌『ライフ』を購入。アメリカへの憧れを抱くことになる。

もっとも、常盤新平は仙台第二高等学校(この時代ならまだ旧制かもしれない;旧制仙台二中)に通学していたのだから、進駐軍の基地の横である(関連愚記事;仙台川内大工町段丘崖;あるいは、子供ながらに魅せられた陥落街)。ゆえに、『遠いアメリカ』、って...(???)

■ 常盤新平@2003

 Amazon

2003年のイラク戦争を受けて、識者の対米観を集めた本;

アメリカよ、どこへ行く? イラク戦争で浮き彫りにされたアメリカの姿をどう読むのか。マスコミにはない核心に迫る見解を提言、アメリカという国の本質がみえてくる。各界28人のアメリカ通による緊急提言。(上Amazon)

この本内容に関する情報は、 書評;『アメリカよ!』、澤喜司郎  にある。

のち大量破壊兵器が発見されなかったイラク戦争の正統性が問題となっていた。開戦前から米国はイラクの民主化をイラク戦争の目的に挙げ、あまつさえ、日本を占領モデルとして、戦争の正当化を図った。

つまりは、戦争の結果、イラクの被占領民は「自由」と「民主化」で喜ぶだろう、と米国(子ブッシュ政権&支持国民)は信じていたということだ。そういう米国人は、日本の常盤新平の2003年の1945年についての発言を見て、ほら、そうだろう!と、自分たちの信念を確実なものにするだろう。

常盤新平は、猿谷要 編『アメリカよ!』に寄稿した文章に書いている;

 対イラク戦争にもアメリカは正義を振りかざした。多くのアメリカ人はそれを支援している。私もサダム・フセインの追放に賛成した。民を飢えさせ、反対する者を平気で拷問にかけ殺害するという残虐な独裁者は早くいなくなってもらいたい。北朝鮮についてアメリカが妥協しないのも納得できる。
 ダグラス・マッカーサーはミズーリ艦上で日本国民を奴隷の状態から解放したと宣言した。私は燈火管制から解放された八月十五日の夜を忘れることができない。戦争が終わるまで私たちはまるで自由がなかった。イラクや北朝鮮と同じ状態にあったのだ。そのかわり戦争でたくさんの人が命をなくしていった。そのこともまた忘れることがでけいない。 (常盤新平、「謙虚な国」、猿谷要 編『アメリカよ!』)

なお、常盤新平、「謙虚な国」は上記のことを書いて、”いま、私がアメリカに望むことが、謙虚であるということだ。”と締めくくる。正直、論旨がわからない。米国が謙虚などいうことが想像できない。特に、常盤新平の文章のわからなさは、戦時下に自分が奴隷状態であったのか明言、断言していないことにある。それは端的に下記部分にある。奴隷状態であったと認識しているのか?していないのか?;

ダグラス・マッカーサーはミズーリ艦上で日本国民を奴隷の状態から解放したと宣言した。私は燈火管制から解放された八月十五日の夜を忘れることができない。戦争が終わるまで私たちはまるで自由がなかった。

さて、史実として、ダグラス・マッカーサーはミズーリ艦上で日本国民を奴隷の状態から解放したと宣言したのか? おいらは、そのようなマッカーサーの発言は確認できていない。ミズーリ号上でのマッカーサーの演説とされるものの情報がネット上にある。

ミズーリ号上でのマッカーサーの演説 (引用元)

上記演説の日本語約(津島一夫訳)

    われわれ主要交戦国の代表は平和を回復する厳粛な協定を締結するため、ここに集った。色々な理想と思想にからむ問題は既に世界の戦場で決定されており、もはやわれわれが討議すべきものではない。また地球上の大多数の人々を代表するわれわれは、不信と悪意と憎悪の精神でここに集ったわけではない。
     勝者も敗者も含めてわれわれに課せられていることは、われわれがこれから追求しようとしている神聖な目的にふさわしい,より高い尊厳を目指して立上がりわれわれ全ての国の国民がここに正式に引き受けようとしている責務を忠実に課すことを誓うことである。
     この厳粛な式を転機として,流血と虐殺の過去からよりよい世界、信頼と理解の上に立つ世界、人間の尊厳と人間の最も渇望している自由、寛容、正義の完成をめざす世界が生れてくることを私は心から希望している。それはまさに全人類の希望でもある。日本帝国軍隊の降伏条件は諸君の前にある降伏文書の中におさめられている。
     私は連合国最高司令官として、私の代表する諸国の伝統にもとづき、降伏条項が速やかにかつ忠実に実行されるようあらゆる必要な措置をとる一方、私に課せられた責務を正義と寛容の心で果す決意であることをここに宣言する。

奴隷あるいは奴隷状態とはいっていない。

■ 常盤新平@武相境;谷戸を潰す親米派

常盤さんは、1994年から2013年に81歳で亡くなるまで町田市で過ごした(町田市民文学館 「常盤新平の業績」企画 )。 上記wikipediaには、東京都町田市つくし野在住、とある。


GoogleMap [つくし野]


印は、東急田園都市線つくし野駅。画像左:1960年代の航空写真、右:現在

別に、「親米派」であることが谷戸を潰す本質のわけではない。ただし、東京「郊外」(郊外と呼ぶには遠すぎる)の丘陵地帯を切り開いて振興住宅を建てたところに住む人たちの多くは、戦後の"日本人の「生活のアメリカ化」[1]"の流れで出現した人たちであろう。生活親米派だ。

[1] 駅は芦屋川の上にあった。川の両岸は閑静な、見知らぬ高級住宅街である。(中略)このままでは「中流の生活。」に落ち着いてしまうという恐怖ー。併し会社の同僚たちはみな「中流の生活。」を目指していた。あんな生活のどこがよくて。ピアノの上にシクラメンの花が飾ってあって、毛のふさふさした犬がいる贋物西洋生活。ゴルフ。テニス。洋食。音楽。自家用車。虫酸が走る。あんな最低の生活。私の中の「中流の生活。」への嫌悪感。
車谷長吉、『赤目四十八瀧心中未遂』

 


占領軍・アメリカル師団の進駐した Hara-Machida (原町田)とはどこなのか? 竹前栄治の間違い

2020年07月03日 20時56分56秒 | 武相境

【要旨】竹前栄治(1930-2015)という占領史研究者がいた(wiki)。占領史研究の第一人者であったとのこと。その竹前栄治の著作に些細な間違いがあったので書く。1)何が間違いなのか、2)なぜその間違いが生じたのか、3)なぜおいらが間違いに気づいたのか、4)この間違いの影響(2021.5.4追記)を書く。

【1)何が間違いなのか?】

竹前栄治も編者となっている『昭和史』有斐閣選書、1982年(昭和57年)における竹前栄治自身が執筆している章・第3部、第1章、占領と「開国」の図;連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)でのアメリカル師団の進駐場所が間違っている。

 図A
連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)(部分) 図中ではアメリカル師団司令部が原町田にあったことになっている。
都県境の東京都側に〇印が示されている。

「アメリカル師団司令部が、東京都町田市に進駐、駐屯していた」と竹前栄治が示していることが間違い。

<アメリカ師団とは?>

アメリカル師団は1945年の日本敗戦の時、進駐してきた米陸軍のひとつの師団。進駐してきた米軍は第1騎兵師団、第11空挺師団など師団名が番号を持つ。それに対し、アメリカル師団には番号がない。アメリカル(Americal)とは何か?アメリカン(american)とは違う。Americaに何か接尾辞(physical、とかradical)が付いたものなのか?違った。アメリカル(Americal)のcalはニューカレドニア(NewCaledonia)のcal とのこと。オーストラリアの東にあるフランス領のニューカレドニアを防衛するための米軍師団。ガダルカナルで日本軍と戦闘。 アメリカル師団の wikipedia あり。ただし、日本進駐時代の情報はない。


連合国軍進駐状況・終戦連絡事務局ならびに委員会所在地(1945年10月15日現在)(部分、凡例) アメリカル師団は番号を持たないので凡例が別途 ☆A となっている

<原町田とは?>

出典 最後の文章に書いてある;「Hara-Machida(原町田)で、アメリカル師団の182旅団は第11空挺師団(仙台に移動)と交代した」。(なお、第11空挺師団(仙台に移動)のことは以前、愚記事に書いた。)

確かに、アメリカル師団はHara-Machidaに来た。

原町田とはどこか? をGoogleマップで見てみよう

Google Map [原町田]  横浜線町田駅と小田急線町田駅を含む町田の中心繁華街。こんなところに進駐軍の基地があったのか?原町田は町田の一区画であり、東京都である。

<何が間違いなのか?>

アメリカル師団は淵野辺(神奈川県相模原市)に進駐したらしい。Google [182nd infantry americal division "Fuchinobe" camp]。少なくとも、町田市ではなく、相模原の大日本帝国陸軍のたくさんあった施設のひとつに進駐した。

アメリカル師団の182歩兵隊の歴史を示すweb site に兵士が淵野辺で撮ったポートレートがある。


Photo #3

Ken Vander Molen poses here in Photo #3 for a studio portrait that he recalled was taken in Fuchinobe. By early November, the mission of the Americal in Japan was complete, and transports began to depart for home.  (ソース:上記歴史を示すweb site

以上のことから、アメリカル師団は、町田市の原町田ではなく、現・神奈川県相模原市淵野辺、当時、大野村に進駐、駐屯した。

したがって、『昭和史』有斐閣選書、1982年(昭和57年)の240-241ページにある「原町田(アメリカル師団司令部)」という情報は、間違いである。

<淵野辺とは?> 横浜線の淵野辺駅付近

図B
栗田尚弥 編『米軍基地と神奈川県』より ⑧が淵野辺の陸軍兵器学校、現在麻布大学

図C
相模原市立公文書館第11回企画展  「軍都計画」と相模原 展示資料目録 より

⑤が淵野辺の陸軍兵器学校

【2)なぜその間違いが生じたのか?】

当時陸軍はこの地域を原町田地域(東京府南多摩郡町田町、現在の東京都町田市)の一部としてまとめて扱うことが多く、同じく大野村に所在した原町田陸軍病院(後に相模原陸軍病院に改称)や原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校)などと共に原町田通信学校と呼ばれる事もあった。 wikipedia[陸軍通信学校]

つまり相模原の陸軍施設一帯を、旧軍は原町田ではないのに原町田と呼称していたのだ。占領米軍はそれを踏襲してHara-Machidaと呼称したに違いない。でも、実際は相模原、あるいは当時の町村である。原町田ではないことは確実である。したがって、学術的には、旧軍が慣習で原町田と呼称していたことを踏まえて、真実の地名と位置を示さなければならない。この間違いをした竹前栄治(占領史研究の第一人者)は、米側の資料でHara-Machidaをみて、このHara-Machidaとは、現在(執筆時当時=1980年頃)の原町田と称する位置だと判断したのだ。

【3)なぜおいらが間違いに気づいたのか?】

アメリカル師団がHara-Machidaに進駐したと、英文で知った。町田に進駐軍がいたのかぁ。原町田のどこだろう?と思った。調べたが、わからなかった(たかだが、ネット程度だが)。そして、ある日わかった。第1騎兵師団の歴史を見ていた。

On 05 September, long lines of vehicles, carrying solders and equipment of the off-loading units, moved west to the designated bivouac area in Hara-Machida District, where Japanese Signal and Ordnance schools were located web site

1945年9月5日、兵士と荷下ろし装置を運ぶ車列が西へ原町田にある指定された野営地に移動した。その原町田には通信学校と兵器学校があった。

つまり、通信学校と兵器学校があったところが原町田とわかった。そこで、ググって、相模原だとわかった。

そもそも、おいらは、町田駅の南裏が、すぐ相模原市と知らなかった。

<竹前栄治と進駐軍キャンプ>

竹前栄治に自伝がある; 占領研究40年 。そこに書いてある;

その後アルバイトとして軽井沢で進駐軍のゴルフのキャディをしたり大学に入ってからは東上線の先の成増にあるキャンプ・ドレイクでビアホールのウェイターをやったり御殿場にあった米軍の第43工兵大隊のキャンプで通訳をやったりしましたが占領についてはほとんど関心がありませんでした。

米軍キャンプでバイトしていたのに、「占領についてはほとんど関心がありませんでした」というのが、すごい。何なんだ!? 竹前栄治。 

キャンプ・ドレイクは知っていたが、相模原方面は知らなかったのだ。

■ 4)この間違いの影響(2021.5.4追記)

竹原が一般向け歴史書『昭和史』で示した図Aでは、神奈川県・相模原地域の米軍基地が厚木だけとなっている。「厚木」はマッカーサーが飛来し、日本に最初の一歩を印したので有名。でも、図B、Cに示された、現在のキャンプ座間などの帝国陸軍の基地だった膨大な面性の進駐軍基地の記載がない。竹原の図(図A)の説明文の「連合国軍進駐状況」にもとる図の内容となっている。

これでは、朝鮮戦争で重要な機能をし、そして、現在は米陸軍の第1軍団(前方)司令部となっている座間地区は敗戦以来米軍に占拠されているという認識がないことを示す。図Aでは、相模原において、厚木以外占領されていないようではないか!


散歩;横浜(こどもの国駅)⇒川崎(岡上) ⇒ 町田(野津田公園)

2020年05月10日 15時05分39秒 | 武相境

東急電鉄、こどもの国駅から、小田急鶴川駅を経て、野津田公園まで散歩。見どころは、歩いてしか超えることができない、玉川台団地から川崎岡上の谷(和光大学がある谷)へ抜ける経路を散歩したこと。


図1. 1;東急電鉄こどもの国駅(横浜市青葉区)、2;小田急線鶴川駅(東京都町田市)、3;野津田公園(町田氏)、a;玉川学園台団地、b;岡上の和光大学のある谷、Z;河岸段丘(立川面)

■ 半世紀前の当地; 谷戸の時代

今回の散歩経路は50年前は谷戸の発達した丘陵地帯。今では地形が違う。下記画像は1960年代前半の航空写真。谷戸が見事です。これらをことごとく潰して今に至っています。


1;こどもの国駅、2;鶴川駅、3;玉川学園駅


現在

■ こどもの国駅 ⇒ 玉川台団地 ⇒ 川崎市岡上入口

こどもの国駅。ひつじでんしゃ。


戦前からある建物。

▼ 玉川学園台団地

玉川台団地の奥、縁。階段で尾根に登ります。


玉川台団地を振り返ってみる。


尾根。横浜市ー川崎市境。

尾根から下へ降ります。川崎市岡上地区へ入ります。

■ 川崎市岡上へ

川崎市岡上は飛び地。東京都町田市と神奈川県横浜市に囲まれている。この岡上の南は横浜市の玉川台団地、東は町田市の三輪緑山の団地であり、これらの地域は谷戸を潰して宅地造成している。地形が完全に変わってしまっている。一方、岡上地区は造成は行われていない。岡上地区は尾根で東西に分かれている。農地となっている東地区と、現在和光大学がある西の谷。下記図2を参照。


尾根から岡上に降りる道はほとんど獣道(けものみち)。


図2. ① 玉川学園台団地、②和光大がある谷
下のつは同地域の航空写真;左(現在)、右(1960年代前半)


道幅は広がったが、急傾斜。 降りる。


谷の底に着いたようだ。

谷を降りていくと、川崎市的(!)集合住宅。初めて出くわしたこの時点は何だかわからなかった。近づくと、しばらくして、和光大学の寮とわかる。

たまさか今も教員として教えているキャンパスには当時、八〇年代だというのにまだ、大学内の目抜き通りには様々な党派、そしてノンセクトのタテ看(死語だろうが、立てて見ることができるベニヤ板のボードに模造紙を張り、それぞれの主張がマジックで書かれている)が林立していた。(上野俊哉、『思想家の自伝を読む』)

この日の散歩、この谷に降りてくることを狙ったわけではなかった。和光大学。ここにあると初めて知る。和光大学は行政境界では町田市側とのこと。上記寮は川崎市。

おいらは、和光大学の名は岸田秀の勤め先ということで高校生の頃から知っていた。和光大学って、埼玉県の和光市にあるのだろうと、なんとなく勝手に思っていた。武相境に越してきて、こちら方面にあることを知った。針生一郎がいた大学だ。1974-1996年にいたとある。今、wikiを見ると、笠井潔がいたとある。

■ 和光大学の谷 ⇒ 鶴見川 ⇒ 鶴川駅



鶴見川を渡る小田急線列車。

鶴川駅付近

コロナ禍で出動できないようです。

小野路交差点。鎌倉街道。

■ 野津田公園

サンシティ町田前。

おしまい

 


東京散歩;町田市・鶴川駅 ⇒ 薬師池公園

2019年12月01日 13時40分38秒 | 武相境


1;小田急鶴川駅、2;金井入口、3;金井東、4;薬師台、5;薬師公園

■1.鶴川駅

■ 鶴川駅 ⇒ 2.金井入口 ⇒ 3.金井東


谷筋を行く。行く手の右は丘陵。


鶴見川


まっすぐな道。谷筋。のち、これは元の谷戸とわかる(後述)。


路の脇は農地もある。

■ 金井東 ⇒ 薬師台 ⇒ 薬師公園


尾根筋を行く。脇を見ると丘陵面の住宅地。


薬師台。平坦で広く、道は整然としている住宅地。
元は谷戸に隣接する丘陵地であるが、削って平坦の住宅地にしたとわかる(後述)。


鎌倉街道


google 3D


左上;地形図、右上;地図、左下;航空写真 1961-1969年、右下;航空写真 現在
同じ範囲。図を上下に走っているのが鎌倉街道

薬師台は元は谷戸と丘陵地の山林であったと左下図の航空写真でわかる。
1970年以降、谷戸をつぶして宅地開発したと明らか。

▼ 薬師池公園


鎌倉街道から薬師池を望む。窪地であるとわかる。


鎌倉街道沿いの門から入る。下り坂。


薬師池


坂を上って、鎌倉街道に帰る。


鎌倉街道。バスに乗って、町田へ。

■ 参考

「薬師池公園」は、なぜ町田市を代表する公園なのか。 山下和美、京都造形芸術大学通信教育学部 芸術教養学科WEB卒業研究展

 


横浜散歩;菊名駅 ⇒ 鶴見駅

2019年07月28日 13時54分21秒 | 武相境

■ 菊名駅 ⇒ 横溝屋敷


a:菊名小学校、b:師岡、c:横溝屋敷、d:獅子ヶ谷市民の森

<菊名⇒横溝屋敷>
菊名駅はJR横浜線と東急東横線の交差駅。菊名駅で降りる。菊名駅の東側の下末吉台地に入り、まずは、横溝屋敷へ。a→dの地域の下末吉台地は浸食が進み、谷と尾根となっている。まず、北上。綱島街道を離れ、台地を登る。尾根に登り、北上。尾根筋を歩くと、西側には新横浜地域の高層ビル、さらには遠くに丹沢が見えた。尾根をbから東の谷筋へ降りる。師岡。新築分譲戸建てを見た。谷を降りて行くと、谷底平野となっていて平坦地が認められるようになる。田んぼが見えて、その奥の尾根側は森となっている。谷の出口に横溝屋敷がある。


綱島街道


綱島街道から台地の方へ。


開析でできた急崖。


崖に沿った道。


立派な家。


台地を登る。


新横浜の方向。


台地面。尾根筋に平行な道。a地点 :菊名小学校付近。


b地点。尾根道から離れ、坂を降り、谷へ。師岡。


東を望む。


~新規物件~全7棟・デザイン性と格調の高い家 ショッピングモール「トレッサ横浜」徒歩圏内 一戸、5,000万円ほど。

 


谷底平野。


谷底平野の農地。奥は台地(尾根)。斜面は森。


横溝屋敷。

● 横溝屋敷

 横溝家は、16世紀末の慶長年間から、獅子ヶ谷村の名主をつとめてきた家です。名主の身分は百姓で、名主という名は関東地方の呼び名です。関西では庄屋、北陸・東北では肝いりといいましたが、横溝家文書には「きも入り」の名も見えます。
 横溝家の初代の名前は、五郎兵衛といい、代々この名前を継ぐ習慣がありました。江戸時代には、村人と力を合わせて鶴見川の周辺を開拓して水田にしたり、谷間にため池を作ったりしました。明治になると横浜港から輸出される生糸やお茶の生産をはじめました。主屋の二階では盛んに養蚕が行われました。 (施設案内の文書より)


主屋。中へは、入れる。


二階へも上がれる。


上記説明では、この二階で養蚕が行われていた。


二階からの眺め。


横溝屋敷を出て、振り返る。

■ 横溝屋敷 c ⇒ 獅子ヶ谷市民の森入口 ⇒ 獅子ヶ谷市民の森出口 d

<横溝屋敷⇒獅子ヶ谷市民の森出口>
 横溝屋敷を出て平坦な谷底低地を横断。向かいの台地に向かう。この向かった先が急崖となっていて森に覆われている。そこが獅子ヶ谷市民の森。入り口から入る。すぐに鬱蒼とした森、かつ急な登り坂。坂を登って台地面に上がると、森の出口がある。出口の先は狭いながらも台地の平坦面。住宅が、多くはないが、あった。


獅子ヶ谷市民の森入口

● 獅子ヶ谷市民の森


急な斜面を結構登る。尾根に上がる。


尾根を行く。森の出口。位置は、台地の上、すなわち、高い場所。


森を出ると、すぐ、住宅。


振り返って、森の出口を見る。

▼ 獅子ヶ谷市民の森出口 d ⇒ 獅子ヶ谷交差点 e ⇒ 北寺尾; 赤塚犬猫病院 f

<獅子ヶ谷市民の森出口⇒北寺尾; 赤塚犬猫病院>
 森で覆われた崖を登って台地面に上がる(d)。そこは少し平坦面がある(下末吉面)。崖を下る。会談が整備されていた。獅子ヶ谷交差点に出る(e)。その位置は谷筋が合流する位置。そこから台地を登る。その道は緩い坂道。e⇒fへの道は台地の端を走っている。位置fで台地面から谷に降りる。そのfは北寺尾という地名で、赤塚犬猫病院があった。

<獅子ヶ谷市民の森出口 d ⇒ 獅子ヶ谷交差点 e ⇒ 北寺尾; 赤塚犬猫病院 f 概略>

■ 獅子ヶ谷市民の森出口 ⇒ 獅子ヶ谷交差点


台地面。


台地を下る。


下る。


獅子ヶ谷交差点。

■ 獅子ヶ谷交差点 ⇒ 北寺尾;赤塚犬猫病院


台地へ登る。


登って来た坂を振り返って、見る。


突然、ぎょっとする建物が目に入った。この時点でこれはなんだかわからなかった。


台地面。


赤塚犬猫病院 web site


赤塚犬猫病院を右折して、谷へ下る。

■ 北寺尾・赤尾犬猫病院 ⇒ 鶴見駅


f:北寺尾、g:配水搭、h:響橋、i:総持寺、j:鶴見駅

<北寺尾・赤尾犬猫病院 ⇒ 鶴見駅>
 北寺尾で南へ向かい、開析谷へ降りる。谷底を渡り、再び台地を登る。台地に登ると配水搭に出た(g)。そこは水道道という名の道路が走っている。この水道道を東へ歩く。そうすると、響橋がある(h)。響橋国道1号線を渡る陸橋。その先は下り坂。南側に曹洞宗の総持寺が見える。切通し的形状の道を通り台地を横断。沖積平野に出る。そして、鶴見駅へ。

■ 北寺尾・赤尾犬猫病院(f) ⇒ 鶴見配水搭 (g)


降りてきた会談を振り返る。

■ 鶴見配水搭 (g) ⇒ 響橋 (h)

● 響橋

横浜市鶴見区寺尾地区に広がる台地を南北に掘割で貫く第二京浜の上にかかり、台地を東西に結ぶ橋である。第二京浜は長い坂の頂点付近でこの橋と交わっている。後述するように、第二京浜ランドマークのひとつである。「響橋」の名は、橋下を通行するとコンクリート製のアーチに音が反響することから名づけられた。wiki


響橋から国道1号の上り下りを見る↓↑。

■ 響橋 ⇒ 鶴見駅


水道道(横浜市主要地方道85号鶴見駅三ツ沢線 )を東へ。台地を下る。


水道道から見える開析谷。


総持寺


鶴見駅。


多摩散歩:はるひ野、防人見返り峠、ニュータウン、旧聖蹟記念館

2018年12月09日 14時59分20秒 | 武相境

小田急はるひ野駅から東京都立桜ケ丘公園の旧聖蹟記念館まで散歩した。目的は、防人見返り峠、多摩ニュータウン、旧聖蹟記念館の見物。

小田急多摩線、はるひ野駅 (川崎市)

小田急ではるひ野駅へ。


はるひ野駅。


駅の北側の尾根に向かって坂を登る。ここは川崎市。とても静か。


尾根に着く。尾根は「よこやまの道」(wiki)が通っている。


尾根、よこやまの道から眺めた南側、川崎市側。


防人 見返りの峠。


手前に多摩ニュータウン、遠目に丹沢・富士山から秩父山系まで見えるとのこと。
この日、やや曇り。富士山は見えなかった。


多摩ニュータウン、永山。昭和46年(1971年)建設。


尾根から東京都側に急坂の階段を降りる。尾根と並行している南多摩幹線道路へ降りる。


多摩給食センター前交差点からニュータウン、団地内に入る。


団地。とにかく人がいない。


あけぼのすぎは伸びにけり。


昭和の成仏で頭がいっぱいで人気のない団地を歩いていて、突然、眼に入った風景。
工事の作業員なのだが、最初、何かの人たちかと誤認した。


団地から再び南多摩幹線道路へ出て、北上。都立桜ケ丘公園へ。


多摩東公園交差点。


聖ヶ丘四交差点を左折。


多摩大前の通りの東側の崖。


「おそば増田屋」。

▼ 公園へ

1930年にできた鉄筋コンクリート製の建物。戦前のモダニズムですね。先日のブログの小石川植物園、共同印刷麻布の連隊の鉄筋コンクリート製の建物、あるいは、朝香宮邸と同時代。


館内は撮影禁止。展示の中心はこれ↓。

 
明治天皇騎馬像 (ソース

旧多摩聖蹟記念館は明治天皇を顕彰する記念館。設立者は田中光顕。おいらが田中光顕の明治天皇顕彰に出会うのは、2回目。一度目は;

この記念館は田中光顕という、土佐出身の維新の志士(このブログの表現でいうと、土佐出の日帝捏造に参画したチンピラ兄ちゃん)、彼は後に宮内大臣などを務める政府高官となるのですが、当時宮中行事で着ていた礼服やむつひとさん(明治天皇)から下賜されたものがまとめてこの茨城県の大洗にある常陽明治記念館に展示してあります。 愚記事

この旧多摩聖蹟記念館では田中光顕が収集した坂本龍馬関連遺品が展示されている。

なお、明治天皇の食器というのが展示してあり、その茶碗が大きく(小どんぶりみたい)、食事中重くなかったのだろうか?と思った。

⇒ wikipedia [旧多摩聖蹟記念館]

⇒ 旧多摩聖蹟記念館こども用パンフレット


五賢堂。五賢人とは、岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、西郷隆盛、三条実美だそうです。

のち総理になった人はいません=のち総理になった人は入っていません。

まとめ; はるひ野⇒桜ケ丘公園、土曜の昼間なのに、通りに、とにかく、人が少ない。

 おしまい。