いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

散歩:大分県杵築 [きつき]、重光葵 [まもる]・無迹庵 [むせきあん]⇒城下町域:酢屋の坂

2024年07月15日 18時23分54秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

大分県に行った。大分県は、おいらが今住んでいる福岡県の隣の県。これまで一度行ったことがある。当時は「つくば山麓」から出張で行った。ホバークラフトに乗った。今知ったが、この空港から大分をつなぐホバークラフトはこの後なくなったらしい。そして、今、再開を検討中とのこと。

2006年 愚記事

今回の大分県旅行の第1日目は、杵築(きつき)に行った。目的は(外交官、政治家の)重光葵(しげみつ まもる)の出身地であり、家がある。JR杵築駅から歩いていく。

重光葵(1887-1957)

明治44(1911)年東京帝大法科大学卒。昭和4(1929)年以降、上海総領事、駐華特命全権公使等を歴任し、7年には爆弾テロ事件で片足を失う。8年以降、外務次官、駐ソ、駐英、駐華の各特命全権大使を務め、また東条内閣、小磯内閣、東久邇宮内閣でそれぞれ外相に就任し、戦中、戦後外交を進めた。23年A級戦犯として禁固7年の判決を受け、25年仮釈放。27年改進党総裁、同年第25回総選挙で衆議院議員に当選し、以後第27回総選挙まで連続当選。日本民主党副総裁、第1次~第3次鳩山内閣の外相を務め、日本の国際連合加盟に尽力した。近代日本人の肖像

1.JR杵築駅、2.無迹庵、3.杵築バスセンター、4.酢屋の坂、5.きつき城下町資料館

■ 1.JR杵築駅 


小京都というけれど、京都に天守閣はない。

杵築駅(きつきえき)は、大分県杵築市大字八坂野添にある、九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線の駅。当駅から日出駅までが単線区間である。特急は「にちりん」「にちりんシーガイア」と「ソニック」のそれぞれ一部が停車する。また、大分方面からの一部普通列車が当駅で折り返す。wiki

■ ⇒ 2.無迹庵(むせきあん)

■ 2.無迹庵(むせきあん):重光葵(まもる)が幼少期ー旧制高校入学まで過ごした屋敷

日本の変革期に名を残す名外相「重光葵(まもる)」が幼少期に過ごした屋敷。重光葵は明治20年(1887)に大野郡三重町(現豊後大野市)に士族の次男として生まれ、3歳の時に父の実家の杵築に移住。杵築高等小学校、首席で卒業した旧制杵築中学校と幼少期のほとんどを杵築で過ごした。努力家で蔵の2階で勉強に励んだという屋敷は「無迹庵(むせきあん)」と名付けられ、遺品や写真の数々が展示されている。(杵築市 web site)

▼ 母屋内部

木箱の中には降伏文書のレプリカが展示してある。

 

兄・簇(あつむ)、葵(まもる)、弟・蔵(おさむ)の三兄弟

▼ 別棟

▼ 庭

「本庄」バス停から杵築バスセンターに向かう

■ ⇒ 杵築バスセンター

3.杵築バスセンター、4.酢屋の坂、5.きつき城下町資料館、A:大扇旅館(お食べ家まる)、B:勘定場の坂

お食べ家 円 (食べログ

 


マップ 3.杵築バスセンター、4.酢屋の坂、5.きつき城下町資料館、A:大扇旅館(お食べ家まる)、B:勘定場の坂

河岸段丘の段丘崖らしい。坂で段丘面に登る。

▼ 

段丘面のに上がる。武家屋敷街。

▼ 酢屋の坂

今立っているのが北台。北台と南台の間に谷筋が走っている。その谷に降りる坂。

杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区(杵築市 web site

谷筋。谷町。

南台へ登る。

振り返って見る。

振り返って見る。

▼ 展望台

杵築城: 

杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。連郭式の平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。

戦国時代には大友氏と島津氏の戦い(豊薩合戦)の舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。wiki

■ きつき城下町資料館

きつき城下町資料館 大分県博物館協議会

■ ⇒ 杵築バスターミナル

● 11時頃杵築駅に着き、14:40に杵築バスセンターから去った。時間が全然足りなかった。特に、肝心の武家屋敷はまわれなかった。交通はあるが、便数が少なく、時間が取れなかった。また来る。



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