渡辺昇一センセが、現代日本はアメリカに対して、徳川家康に徹底的に仕えた藤堂高虎のごとく対応せよ、との御主張。これが「アメリカ幕府」論。論というほどでもないので、「アメリカ幕府」モデル。
■さて、その藤堂家がどうなったかというと、伊予の宇和島で築城したのち転封した後、伊勢の津に移り、津藩・藤堂家32万石の外様大名として江戸期を完走した。
そして、1868年、鳥羽伏見の戦い勃発。藤堂軍は京都南の山崎の関の守備軍。もちろん徳川幕府軍として。山崎は淀川のほとりにあり対岸が橋本。そこには同じく幕府軍がいる。藤堂軍のいる山崎には高浜砲台があり藤堂軍が管理していた。鳥羽伏見から後退していた新撰組を含む幕府軍は山崎で迫撃してくる薩長軍を食い止めなければならなかった。幸運にも背後にの淀川沿いには高浜などの幕府の砲台がある。この砲台から薩長軍を砲撃すれば薩長軍を食い止められる。
ところが、その高浜砲台が砲撃したのは薩長軍ではなく、幕府軍であった。つまり藤堂家は徳川を裏切り薩長に寝返ったのである。
これで幕府軍は退路を絶たれて、総崩れ。この夜、慶喜は大坂から船で逃亡する。
■最後の藩主は藤堂高猷(たかゆき)。明治新政府では伯爵。30万石以上の大名だったのに侯爵になれなかったリストに載っていた。例えば仙台伊達家(62万石→30万石)は維新後伯爵。これは「賊軍」だからでしょう。一方、秋田の佐竹は20万石で侯爵。これは奥羽越列藩同盟を裏切った恩賞。これらを考えるとなぜ藤堂家が維新後伯爵だったのか謎。ちなみに、公爵>侯爵>伯爵>子爵>男爵、です。
▼で、渡辺センセは藤堂の数百年後の最後の裏切りも含んだ上で、「アメリカ幕府」に奉公せよ、とおっしゃっているでせうか?
▲後記;もし、渡辺センセが幕末の藤堂家のことも知って、「アメリカ幕府」モデルを言ったとしているのであれば、それは日本は数百年後も見て生きよ(つまり米国が弱体化したらやっちまえ)という高等なモデルを言外に提示しているのかな、ということです。
単なる「アメリカすがりつき」論と違うかと。
■さて、その藤堂家がどうなったかというと、伊予の宇和島で築城したのち転封した後、伊勢の津に移り、津藩・藤堂家32万石の外様大名として江戸期を完走した。
そして、1868年、鳥羽伏見の戦い勃発。藤堂軍は京都南の山崎の関の守備軍。もちろん徳川幕府軍として。山崎は淀川のほとりにあり対岸が橋本。そこには同じく幕府軍がいる。藤堂軍のいる山崎には高浜砲台があり藤堂軍が管理していた。鳥羽伏見から後退していた新撰組を含む幕府軍は山崎で迫撃してくる薩長軍を食い止めなければならなかった。幸運にも背後にの淀川沿いには高浜などの幕府の砲台がある。この砲台から薩長軍を砲撃すれば薩長軍を食い止められる。
ところが、その高浜砲台が砲撃したのは薩長軍ではなく、幕府軍であった。つまり藤堂家は徳川を裏切り薩長に寝返ったのである。
これで幕府軍は退路を絶たれて、総崩れ。この夜、慶喜は大坂から船で逃亡する。
■最後の藩主は藤堂高猷(たかゆき)。明治新政府では伯爵。30万石以上の大名だったのに侯爵になれなかったリストに載っていた。例えば仙台伊達家(62万石→30万石)は維新後伯爵。これは「賊軍」だからでしょう。一方、秋田の佐竹は20万石で侯爵。これは奥羽越列藩同盟を裏切った恩賞。これらを考えるとなぜ藤堂家が維新後伯爵だったのか謎。ちなみに、公爵>侯爵>伯爵>子爵>男爵、です。
▼で、渡辺センセは藤堂の数百年後の最後の裏切りも含んだ上で、「アメリカ幕府」に奉公せよ、とおっしゃっているでせうか?
▲後記;もし、渡辺センセが幕末の藤堂家のことも知って、「アメリカ幕府」モデルを言ったとしているのであれば、それは日本は数百年後も見て生きよ(つまり米国が弱体化したらやっちまえ)という高等なモデルを言外に提示しているのかな、ということです。
単なる「アメリカすがりつき」論と違うかと。