いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

夕顔

2005年10月08日 12時29分49秒 | 草花野菜


夕顔。たぶん、だって朝は花が閉じてるし、昼過ぎに開くから。

■毎日なんか、ブログで、「つくる」。内容は、おいらは、気にしない。でも毎日いいものを書こうと「苛んでいる」ブロガーもいるようだ;

ひきこもり日記、 空更新について

このブロガーは筆一本で、やっている。文章はまとまっていて、よい。なにより、書いてあることが明瞭である。なのに、時には文章へろへろ、と自分に厳しい。なんなだろう、これは? 「私は自分自身を無能だとしか自己評価できないし」といいながら、本当は文章うまいね、と言って欲しいのだろうか?もちろん頭脳明晰であろうことは誰の目にもわかるのだが。

【後記】思い出した。これだ;
ところが、この二人が二人とも、服のことでも、顔のことでも、あるいは何か精神的なことでも、なんのひけめも感じていないらしいのである。(中略)ぼくはむやみと虚栄心が強く、そこで当然、自分自身に対してあまりに厳格であるために、しばしば狂人めいた不満を抱いて自分を眺めることがあり、ときにはそれが嫌悪の念にまで高まったものだった。

ドストエフスキー、『地下生活者の手記』

内発性を育てる「新教育」
宮台ブログ; 平井雷太『新版 セルフラーニング どの子も学力がつく』[新曜社]に寄せて では、動機について、 「自発性」と「内発性」に分けて、従来の学校秀才ちゃんの動機づけを「自発性」型と位置付け、限定された課題が既に与えられ、評価してくれる人がおり、同じ競争ゲームの参加者がいるような疑似環境。疑似環境が消えれば動機づけは枯渇する。 と見て、「官僚エリート」がその典型であり、疑似環境維持のためやっきであると批難している。これは言えている。日本の最大の問題は、エリートが低能なことである。ここでエリートとは「有名」大学を出て役所や大組織の管理職あたりの中年・老人男性である。彼らは、大学受験あるいは公務員試験を最後の「勉強」として、そのことの論功行賞だけで、身分が保障されている御仁たちである。彼らは米国や他の大国の同種職を担っている人たちより責任を果していない。

さて、宮台は、この旧教育法である「自発型」に対して、「内発型」を賞賛する。こういう2分法のばかばかしさとなんの恥ずかしげもないその運用はさておき、その「内発型」教育の目指すところは、あらゆる状況で自己推進する力を養う「新教育」。他者と入替可能なスキルを養う「旧教育」に対し、入替不能な自己を養う「新教育」、だそうだ。ではその時、旧教育法が資本制における労働者の創出のイデオロギー装置であったとするならば、この新教育法はいかなる理由で、条件で、何の目的で、そしてどういうメカニズムで可能となるものであろうか?