魯迅博物館の記帳より。
そこで、魯迅ノート。
まずは3人の生没年(西暦)。
福沢諭吉 1835-1901
夏目漱石 1867-1916
魯迅 1881-1936
魯迅と福沢諭吉の共通点は「一身にて二世を経た」ことである。つまり、諭吉は人生の途中でちょんまげを落とし、魯迅は辮髪を落とした。辮髪とは清朝時代の髪型である。そしてなにより儒教的封建制の克服を、文化革命により、行おうとした。しかしながら、その手法は異なった。諭吉は『学問のすすめ』を著し、評論による啓蒙活動を行い、一方、独立自尊のため私学を創設した。魯迅は、文学者、小説家として、文化革命を行い、支那人を啓発しようとした。魯迅は中国で国民的作家とされていて、その点は日本の国民的作家である漱石と共通する。ただし、魯迅は多量の評論も書いている。魯迅が帰国した頃の支那は未だ辛亥革命前の清朝であり、魯迅は清朝統治下で師範学校の教員となる。その後辛亥革命を経て新政府の文部官僚・教官を勤める。政府の役人・教員となった点は、諭吉や漱石とは異なる。
魯迅、諭吉、漱石に共通なのは西洋/近代社会との遭遇である。諭吉は欧米に渡航して見聞、書籍の収集を行った。しかし、長期の滞在はしていない。漱石は英国に滞在した。愉快な滞在ではなかった。魯迅は、1902-1909年の7年間、日本に滞在する。日本語はかなり自由になったらしい。その滞在は日清戦争の後であるから、魯迅は戦勝国に留学に来たことになる。もっとも清朝に敗戦国意識があったかわからないし、魯迅が清国人意識を持っていたかを、おいらは、知らない。(魯迅全集に清国人としての私という内容のエッセイがあるかどうかを知らない)。魯迅は日本に来る直前に辮髪を止めている。つまりこれが魯迅の清朝卒業の儀式であったのかもしれない。辮髪の意味とは、封建支配の象徴という点と清朝をつくった満州族の漢民族支配の象徴と2重の意味を持つ。つまり、辮髪切断は、封建支配と清朝支配からの脱却の象徴である。
魯迅の目指したものは、支那人の意識革命、とされている。その手法は、前述したように、諭吉のように啓蒙書を書いて民を啓発するのではなく、支那人の「奴隷」根性を描いた『阿Q正伝』という短編小説を書くことだった。なぜ、阿Qのような救いのない「奴隷」根性の下層日雇い人夫を描くことが支那人の意識革命につながるかというと、「中国が革命すれば、阿Qも革命するでしょう」と魯迅が言ったされるように、阿Qの意識革命によってしか中国革命の主体が成立しない、とのメッセージなのであろう。
【阿Q正伝あらすじ】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BFQ%E6%AD%A3%E4%BC%9D