村松 封建時代のはなしが出ましたけど、例の安政の大獄で死刑になった者が何人か御存知ですか。
勝田 かなりいたのではないですか。
村松 たった七人ですよ。(中略)それでもいまだに井伊直弼は憎まれているのですからね。
勝田 あっ、そうなんですか・・・それでも井伊大老は、結局報復をうけて殺されたですね。
村松 そうなんです。「大獄」っていうから、私も漠然と何百人も殺したのかと思ったら、たった七人。(笑い)
村松剛、勝田吉太郎、『対談 一つの時代の終りに』
井伊 掃部守 直弼像。 横浜掃部山公園
■ 掃部〔かもん〕寮
宮内省配下の小寮で、掃除や調度設営などを担当し、和名で『かむもり〔かんもり〕つかさ』とも言います。
掃部守殺害絵図 解説
■近代日本の外交史の印象を、現実策を取る玄人と理想主義に燃える素人の相克と表したものを見たことがある。
■今で言う「グローバリゼーション」の荒波に襲われた19世紀後半(幕末なんて言葉を使いたくないのだ)の日本で、現実的な策を取り、開国した井伊直弼。
日本国の事実上の宰相であった井伊直弼は、攘夷を志向する孝明帝のシンカン(漢字でない)に励まされたテロリストに暗殺された。
理想主義に燃える素人を帝が教え唆し、煽り導いたのだから、たまらない。もちろん、帝さまだって、国際情勢は素人である。ちなみに、「テロリスト」たちは後に官位を授けられている。だから、テロリストよばわりするなんて、尊皇ウヨの風下にもおけないということになる。
■ここで、暗殺したテロリスト=素人、井伊=玄人、ということで終わるわけでもない。
井伊直弼を評して、彼こそ、素人政治家であったという評もある。
おいらが、井伊直弼を大好きになったのは、彼の諧謔のココロに驚いたから。
埋木舎(うもれぎのや)
彼は、もちろん、彦根井伊家の殿様の息子なんだけど、十何番目。あまった男の子はどうするかというと、養子に行くしかない。それでも井伊家は徳川家臣の筆頭なので、結構口がある。直弼の兄弟たちの少なからずは結構の大名に養子に行った。
直弼はもらい手がなかった。特に悲惨なのは、弟と一緒に養子のお見合いに行っても、弟が決まって、直弼はあまる。たぶん、かわいくなかったんだろうね。行かず隠居、だよ。 さびしいじゃないか、哀しいではないか、井伊直弼、21歳。
もうトウがたったので、城を出て、捨扶持をもらって暮らしていた。その住居を、埋木舎(うもれぎのや)と自分で名づけたのだ。 すごいじゃないか。 自分の運命を諦め(正しく認識すること)、覚悟したにほかならない。
おまけに『埋木舎の記』なる日記を書き、
これ世を厭ふにもあらず。はた世を貪るごときかよわき心しおかれば、望み願うこともあらず。ただうもれ木の籠もり居て、なすべき業をなさましとおもひて設けしを、名にこそといらへしままを埋木舎のこと葉とぞ。
と、失意の余生を ぐれずに、「なすべき業をなさましとおもひて」、舎に住んで過ごすことを覚悟。21歳から死ぬまでの果てしなき暇つぶしが始まった。
世を恨むことなく、けなげに暇つぶしを覚悟し、実行したところが、泣けるよ。
ちなみに、自ら恃むところ強く、たかが!「学識」の「高い」ことを誇り、所を得ることがなかったすね者の物語は、こちら→Amazon 幕末の毒舌家 ここのカスタマーレビューはよく書けているよ。
▼しかしながら、32歳の時、井伊家の世子が死んで、急遽当主(兄ちゃん)の養子となる。 32歳まで実際の政治の場で鍛えられることもなく、「学芸」で世捨て人として暇つぶしをしていたのに。
36歳で藩主、44歳で大老となり、46歳で死ぬ。
直弼も傍流から突然権力者になったので、自分の経験に基づいて自分の責任での融通無碍なおしたり・引いたりができずに、幕府の伝統的流儀を堅持することに汲々とせざるを得なかったのだろう。
それでも、武士は戦争をするのが本業だから、本質的に現実主義者、機会主義者でなければならない。さもなくば、滅んでしまうから。だから、幕府の官僚組織は、「世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲」、せざるを得ないことを充分承知し、井伊もそれをわかっていた。だから、開国した。
埋もれそこない
攘夷派→憂慮 開国派、「お出かけですか~?」って、てめえがお出かけの時、やられちまった。
■PS;掃部守なんて朝廷での官位のは名目で、重要なことは井伊が朝廷から官位を授かっていたということ。そんな朝廷で、名目上でも、地位をもつ者を、「天皇の名のもと」にちんぴら兄ちゃんが殺害する。 まさに、アナーキーではないか!
アナーキズムの源泉としての天皇!
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オレの人生
=ハナの生涯