- - そして、この朝も、すでになじみになった例の二十五番教室で、田中務教授はいつもと少しも代わらぬ調子で、「物理実験第一」の講義を行った。私は必死になってノートを取った。前夜のことから離れ、物理学の世界に没頭した。東大アカデミズムの存在感が身に伝わったときであった。- - (昭和20年3月10日朝の回顧)
江崎玲於奈・『限界への挑戦 私の履歴書』
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上野の「山」は武蔵野台地の一番端にある。上野寛永寺や本郷の加賀前田の屋敷の江戸のひな壇にあった。東京大空襲の罹災地域はそのひな壇の端より東の低地の墨東地区。隅田川と荒川に挟まれた地域を焼夷弾で襲えば川に行く手を阻まれみんな焼け死ぬだろうとルメイさんは考えたのだろう。
図はここからいただきました。
▼未来のノーベル賞研究者が学生として「物理実験」の講義を受けていた頃、別の未来のノーベル賞研究者は、すでにその時点でその業績は発表されていたのだが、原爆開発に努めていたらしい。