いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

床次正精 『福山城』

2008年12月25日 20時49分42秒 | 筑波山麓



昨日の記事)「巨匠たちの足跡から、今、あらためて時代の潮流をふり返る
1st. 「日本近代洋画への道」 平成20年12月3日(水)~平成21年1月12日(月・祝)

の話の続きです。

この展示でおいらが一番気に入ったのは、床次正精(とこなみ・まさよし) 『福山城』。

さんざんネット上を画像を求めて探し回り、やっと見つけました。でも小さくて、本物のよいところがほとんど見えません。でも、雰囲気だけでも見てください。

どんな絵かというと、おいらは表現ビンボーなので、ひとさまの文章をパクリます;

明治初めの絵師武士・床次正精『福山城』 石垣の上にぽこぽこ城が建つ。岡鹿之助風な描き方で、しかもアンリ・ルソー的構図。 素朴派が日本にもこの頃?という感じ。実に可愛い。  ブログ・遊行七恵の日々是遊行 さま、記事「日本近代洋画への道」

ちなみに、岡鹿之助 ってこんな風。

はたまた; 技術の稚拙さや素朴さが、逆に魅力となっている例もある。例えば、独学で油彩画を習得した床次正精(とこなみまさよし)の「福山城」には、フランスの日曜画家アンリ・ルソーにも通じる、不思議な静けさ、詩情が漂う。 神戸新聞の記事; 「日本近代洋画への道」展に見る明治 神戸

アンリ・ルソーはこんな風。 なお、アンリ・ルソーの本物が一枚日動美術館にはあります。

■床次正精さんの『福山城』は大きな絵で、ともに黎明期の「洋画家」・徳川慶喜さんの小さな絵、それは床次さんの素朴な印象とは違いリアリスティックで渋い色調の風景画でした、のとなりに展示してありました。

●『福山城』が一番好きな絵だったので、床次正精を調べました。ネットでです。

薩摩藩士でした。 「 なぜ、旧幕臣は洋画を 」は底が浅かったです。

長崎で、西洋の船に乗り込んだとき洋画と出会い、画家になったとありました。

なぜ薩摩藩士の床次さんが長崎で西洋の船、それは英国船だった、に乗り込んだかというと、薩英戦争で英国の威力を思い知った島津久光に「おまえ、長崎で英国など西洋の軍事力の強さを見てこい」と指示され、薩摩から長崎に行ったらしい。そこで洋画と出会ったらしい。

慶応元年の十二月に島津久光公の命で、外国の事情を探りに藩士数十人づれで、長崎へ出張せられたことが有る。是れはつまり英艦と戦つた結果で、英艦はどうやらこうやら退却させて仕舞つたやうなものゝ、彼我の兵器は到底比べ物にならないことを悟つたのであつた。其処で、英人のガラハと云ふ者に就て、色々取調をされた。丁度英国の艦隊が碇泊して居て、床次君等一行の為めに態態湾内で演習をやつて見せたり、戦艦内へ導いて其構造設備の完全な所を示したりしたので、一行は大に敬服したそうだが。又一日ガラハが皆を招いて、大に饗応したそうだが、其時四壁に洋画の額が掛けてあつた。元より画好きの床次君の事であるから、直に其額に目が着いて、見れば見る程真に迫つて、只驚くの外は無かつた。是れが床次君の洋画の見初めで、亦是れから始めて洋画をやつて見たいと云ふ念も起つたのである。

と、床次さんは黒田清輝さんに語ったそうだ。 黒田清輝、「故床次正精君」に書いてある。