いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日の看猫 20090927

2009年09月27日 22時21分47秒 | ねこ

今日の看猫 20090927

■神社焼き打ちの思い出;

近代日本の空虚さを描く、村上春樹の『羊をめぐる冒険』で、十二滝村の発展のひとつの頂点を描く場面がある;

明治二十五年には四家族、十六人がやってきた。明治二十九年には七家族二十四人がやってきた。
 このように住民は増えつづけた。共同小屋は拡張されて立派な集会所となり、その隣りには小さな神社も作られた。十二滝は十二滝村と改められた。人々の主食はあいかわらずイナビキ飯だったが、時折はそれに白米も混じるようになった。不定期的ではあるにせよ郵便配達夫も姿を見せるようになった。


北海道の開拓の進展を描く上で、神社建立に着目している。なお、神社はゼロから作るわけでなく、どこかのオリジナル神社が分かれて来る。十二滝は津軽の出身なので、その出身の村から来たはず。これは小さな神社の話。

▼この場面を読んで、がきんちょの頃を思い出した。大きな神社の話。大人になるまで「神宮」というのは指折り数えるほどしかない「格式」の高い神社とは知らなかった。つまり、がきんちょの頃から知っている北海道神宮が格式の高い神社とは自覚していなかった。

でも、北海道神宮は大日本帝国の領土拡張の象徴である立派な神社だ (参照:昭南神社)。上記「なお、神社はゼロから作るわけでなく、どこかのオリジナル神社が分かれて来る。」は厳密に言うとウソで、北海道神宮はすめろぎさんの詔で「ゼロ」から発足。いわずもがな、昭南神社もゼロから取って付けた神社である。

そして、1974年焼き打ち (北海道神宮放火事件 wiki)にあった。この事件のことは覚えている。たぶんこの放火は日曜深夜、月曜早朝に行われたのではないだろうか?それというのも、日帝侵略庶民のおいら家族は、おいらの兄弟の七五三に行ってその翌朝テレビのニュースで炎上する神殿を見た。なぜ記憶に残っているかというと家族が、あれ昨日行ったところでしょう、と言っていたからだ。もちろん当時、なぜ神宮が放火されるのか意味がわからなかったし、そもそも1)放火の動機を考えもしなかったし、そもそも2)日帝を呪う彼らの悪意を全く感じることはできなかった。なぜなら、おいらががきんちょだったからだ。今から考えると、「北海道神宮は大日本帝国の領土拡張の象徴」という言い分で左翼/アナーキストがパフォーマンスをやったのだ。"思想"と言えば「思想」ではある。

■しかし一方、訳わからない神社焼き打ちもある。

長じておいらが、仙台に行って、昭和が終ってまもなくの話。この頃は大喪の礼や新帝即位などで新左翼残党の方々が、今から思えば、最後の花火をくすぶらせていた。宮城県内の竹駒神社という古い神社が焼き打ちにあった。これは北海道神宮放火と同様、事件未解決だと思うし、当時犯行声明文が出ていたかも知らない。ただ、"過激派"による放火というのが流布しているうわさではある。

でも、竹駒神社は北海道神宮と違って筋違いもはなはだしいと当時思ったのであった。

●そして何より今日最も重大なことは、上記『羊をめぐる冒険』のイナビキ飯が何だかわからないことである。

↑後記:わかっただよ。ひえ・あわ・いなびき、とかそういう類のものらしい。
Google; いなびき