いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ムスカリ群生

2010年04月25日 16時36分00秒 | 草花野菜


■週末、のんべんだらりんと、『福翁自伝』を読んでいたら、福沢諭吉は加藤弘之(1836-1916)とすれ違っていたのだなぁと気付く。『福翁自伝』を読むのは数度目だが昔は「加藤弘之」の意味(東京学士会院会長、東京大学綜理、帝国大学総長、貴族院議員、帝国学士院院長、枢密顧問官)を知らなかったから。

すれちがった場面というのは、鳥羽伏見の戦いの直後の江戸城中。薩長軍東上中。諭吉は、裃を決め込んで薩長に徹底抗戦をすることを慶喜に進言しようとする加藤弘之と対峙する。

東昭神君三百年の洪業は一朝にて捨つべからず、吾々臣子の分として、義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、言わずと知れた加藤らもその連中で、慶喜さんにお逢いを願うに違いない。

これに対し諭吉は「いよいよ戦争に決まれば僕は荷物を拵えて逃げなくてはならぬ」と加藤に言う。「僕は(戦争が)始まると即刻逃げて行くのだから」と言ったら、加藤がプリプリ怒っていたことがあります。

もちろん、加藤弘之は「忠臣となって死する」ことなく薩長新政府で「東京学士会院会長、東京大学綜理、帝国大学総長、貴族院議員、帝国学士院院長、枢密顧問官」となることを、歴史は示しています。

諭吉が瘠我慢の説を書いた宛先は海舟・榎本ばかりでないと、今日おいらは気付いた。なにせ、加藤弘之は明治なって諭吉の同業者 but 政府公認・税金蕩尽だから。