―筑波山麓は昨日から新学期―
余計者による、余計者たちにかんするメモ;
■"余剰学士"ってgoogleで引いてもないね (←ってか、おいらのこの記事が冒頭にきちまったょ)。大卒の2割が行き先なしというのに。"余剰博士"は検索でいっぱい出てくる。
■最近、"ハイデガーとその時代"関連の本をみている。ナチス台頭の直前の時代状況の描写が面白い。小泉改革の雰囲気、あるいは今のネオリベ残党に似ている。参考愚記事; 小泉さんを支持したのは「精神の貴族」なのか?あるいは「紅衛兵」なのか?
「保守的革命家たち」は、貴族階級によって国家行政の重要ポストから追い払われたブルジョアか、高学歴を持っているせいで強くなる上昇願望の中で欲求不満を感じているプチブルである。彼らは、「精神的ルネサンス」とか「魂の革命」としての「ドイツ革命」とかの中に、自分たちの矛盾した期待の解決策を発見する。国民の構造を革新することなしに国民を「再活性化するような」「精神的革命」のおかげで、この現実的ないし潜在的な落伍者は、社会秩序の中で或る特権的地位を維持したいという自分の欲望と、自分にその地位を拒んでいる秩序に対する反逆とを調停できるようになり、同時に、自分たちを排除しているブルジョアジーに対する敵意と、プロレタリアに対して自分たちが際立つための価値すべてを脅かす社会主義革命への反発とを、調停できるようになるのである。
ブルデュー、『ハイデガーの政治的存在論』
↓現状語意訳
「ネトウヨ」たちは、正社員サマによって社会の安楽席から追い出された大学出ても就職できなかったバイト・フリーターか、あるいは高学歴を持っているせいで強くなる上昇願望の中で欲求不満を感じている余剰博士ら高学歴ワーキングプアーである。彼らは、「正社員の解雇解禁、タダ乗り正社員をクビにせよ!」とか「自由な競争」としての「同一労働同一賃金」、「労働市場の完全自由化」とかの中に、自分たちの矛盾した期待の解決策を発見する。日本社会の構造改革をなすこと、日本を再生、立ち上がらせることを叫ぶことにより、現実の社会では落伍者であり負け犬である彼らは、「改革者」あるいは「日本を変えよう」という志をもった特権的地位を占めることができる。同時に彼らは、民主党が嫌いである。なぜなら、子ども手当や社会的弱者保護の福祉を行うからだ。現実の社会では落伍者である彼らは、「日本を変えよう」という志を持っているので、他人に対するものにせよ施しが嫌いなのだ。つまり、社会的落伍者でありながら施しを拒否することで、その傷ついた自己愛から生じる葛藤をうまくやりすごしているのである。
●余計者; 社会の文字通りの廃棄物
ケープ・コロニーに集ってきた余計者、(中略) 彼らが無頼の徒として寄り集まったのは彼ら自身の決断によるものではなかった。彼らは市民社会が窮屈すぎるといって自分から飛び出したのではなく、市民社会から吐き捨てられたのである。彼らはこの社会の文字通りの廃棄物だった。認められた限界を彼らに踏み越えさせたのは彼らの冒険心ではなく、彼らの存在と労働力の不必要であって、彼らはその犠牲だった。
アーレント、『全体主義の起源』
この描写はファシズム時代のものではない。ただし、アーレントが"モッブ"という人間類型を彫琢したいので、南アフリカへの侵略など大英帝国における事実や人物をモデルにして、あるいはキプリングやコンラッドの小説を使って、「モッブ」概念を鋳造した。「モッブ」はファシズムを担う人間のモデル。
さすが、ハイデガーのチ○ポしゃぶっていただけあって[要出典!]、ファシストに対するデータベースは豊富で、そして、彼らに対する認識は鋭いんだろうか?あるいは、「彼は冒険心から不倫の愛に走ったのではなく、家庭で妻に性交を拒否された文字通りの家庭内性愛からの廃棄物だったのだ」といってくれればニコニコできる。
●余計者たちは社会から返事をもらうことはできない。それが現実である。
The Beatles - "No Reply"
そして、次の曲は、I'm a looserだ!
職がない(=全然自分の労働力商品が売れない)あなたのために、その昔、売れすぎちゃったbeatles for sale を!
++はじめに余計者たちがいたんだよ++
はじめにEXCESがあった。