― ハイデッガーについて聞いた話では、彼はある版を気に入ったそうなのです。「日本語がわからないのに、どうやって確認したのか?」。ハイデッガーは答えました、担当したのは神風特攻隊に志願した元兵士だから、わけがわかっているはずだと。彼らは利口な手に出ました。この翻訳者に連絡し、彼を問いつめたのです。「ちょっと待て。もしカミカゼだったならば、死んだはずではないか」。すると、彼は実に滑稽な言い訳をしました。近眼だったので、船に突撃する際に違う眼鏡をかけてしまい、標的を逃してしまったのだと。 ―
スラヴォイ・ジジェックのインタビューでの発言;『人権と国家―世界の本質をめぐる考察』
― ハイデガーはソ連戦線が終局を迎えるころになっても、なおも、東部戦線にいた弟子のカール・ウルマーに宛てて「今日、ドイツ人のとって唯一ふさわしい現存在は前線にあります」と書き送っている。(中略)「前線」はハイデガーにとって、つねに「危険の最も外側の硝所」であった。学長演説のなかで軍事的雰囲気をもつことば―危険、苦境、極度の困窮、力、権力、訓育、淘汰、徹底徹尾の突撃、きわめて厳しい明晰さ、といった語彙をよく見てほしい。―
フーゴ・オット、『マルティン・ハイデガー、伝記の途上で』
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もちろんおいらは新聞を読まない。先週ある日、仕事で常磐線に乗った。他人の見ている新聞の裏が見えた。廣島原爆のキノコ雲写真があった。こんな古典写真を何度も載せるって新聞ってやっぱりバカなんだなぁと思いつつ、何の記事だんべと覗くと、木田元さんの回顧録だった。すなわち、日本経済新聞でいつもやっている著名人の「私の履歴書」に木田元さんが登場したのだった。なぜ、木田元さんはおいらを呼ぶのだろう。前回は等身大御本尊画像であったのでわかりやすかったのだが(愚記事;日帝の手切れ金)。もちろん、木田元さんはおいらなぞ呼んではいない。あちこち首を突っ込み、キョロキョロしているおいらのセンサーに「木田元さん」が反応しているのだ。対象は認識する者のセンサーに応じて立ち現われるのだ。
週末に公立図書館に行って、日本経済新聞の木田元さんの「私の履歴書」をみた。ただし、”なめるように”は読んでいない。積年の疑問であるなぜ海軍兵学校に進学したのか?を説明しているか確かめたかったからだ。
■― なぜ、木田元さんは闇屋ぶるのか?、あるいは、海軍兵学校在籍であったことを”隠して”いた1983年 ―
木田元さんは1990年代以降の回顧では自分は海軍兵学校に在籍していたこと、すなわち大日本帝国海軍に軍籍があったことを普通に書いている。そして、今回の日経での回顧録ではいかに死と直面していたか書いている。しかし、1983年は違った。おいらの知るかぎり木田元さんの最初の身の上話は生松敬三との対談(1979年)であるが(現在、『木田元対談集、哲学を話そう』に収録)、1983年刊の『20世紀思想家文庫、ハイデガー』に詳しくある;
妙な身の上話をはじめることになるが、第二次世界大戦の直後、父がシベリアに抑留されていたので、その頃は十七、八歳だった私が満州から引き揚げてきた四人の家族を養わねばならぬ羽目になり、山形県の日本海岸の小さな町で表向きは市役所の臨時雇やら小学校の代用教員やらをしながら、実質的には闇屋をやって暮らしを立てていた。
と今ではおなじみの木田元物語が披露されている。そして、彼に関する情報が増えた今から見ても"嘘"はかかれていない。でも、普通に読むと自身も家族と一緒に満州から引き揚げてきたように思ってしまう。なにより、木田元さんが、嘘をつかず済む書き方で、そう思わせるように書いたのだ。1983年に書かれた回顧では、闇屋でひともうけして農林の学校に入ったこと。ドストエフスキー、キルケゴールを読み、ついにはハイデガーという哲学者が『存在と時間』という本のなかで、キルケゴールが自己と呼び精神と呼んでいる人間存在のその存在構造を時間性としてとらえ、時間を生きるそのさまざまな仕方を分析しているらしいということを知るに至る。そしてこれは大学の哲学科に入って哲学書を読む特別の訓練を受けなければ読めない本にちがいない、と思い込む(強調、いか@)。
今からこの1983年の文章を読んで不思議なのは、ハイデガーの『存在と時間』を読みたくて哲学を始め、大学に行った、というのはいいとして、なぜ、ハイデガーの『存在と時間』を読みたくなったのか?ということの分析がないことである。
ハイデガーの『存在と時間』では現存在=人間は、「死へ臨む存在」であることがその顕著な属性であるとうたっている本らしい。とすれば、木田元さんの戦争と終戦直後の経験、すなわち、1)将来戦死することを想定した生業に身を投じたこと、そしてその訓練を受けたこと、廣島原爆を目撃したこと;2)終戦直後、原爆でやられた広島を出発に、西は九州から、東は東京までの山陽線、東海道線を列車で彷徨しなければいけなかった日帝の廃棄物であり(参考愚記事;This happens once before, 余計者たちの叛乱)、そして帰るあてのない故郷喪失者であったこと。無蓋の列車から廃墟の街並みを目の当たりにしたこと。これらの死を身近にした経験こそが、木田元さんをハイデガーの『存在と時間』にしびれさせた原因に他ならない、とおいらは思う。なぜかこのことを、1983年には語っていない。
ハイデガーの『存在と時間』は、死へ先駆する決意を充満させていたが、死にそこなった高級 復員兵を呼んでいたのだ。
今度の日経の連載では”成績が悪いと回天等の特攻部隊に配属”などと努力していい成績を取らないと死に近づくという現実に直面していたことを書いている。「死へ臨む存在」!
確かに、木田元さんがハイデガーの『存在と時間』と出会ったのは闇屋時代、あるいは直後かもしれないが、木田元さんと『存在と時間』の出会いを準備したのは、海軍兵学校の経験だろう。それなのに、― なぜ、木田元さんは闇屋ぶるのか?
木田元さんには『闇屋になりそこなった哲学者』という本があるらしい。おいらは未読。文庫本の表紙写真は兵学校時代のものに違いない。ならば、なぜ、『海軍大将になりそこなった哲学者』、あるいは『靖国の英霊になりそこなった哲学者』ではないのだろうか?
▼そして、面白いのは、訓練。ハイデガーは造語と言葉遣いに定評、悪評があるらしい。木田元さんのこの「哲学書を読む特別の訓練」という言葉使いは、お里が知れて、にこにこできる。上記の画像、猛烈訓練にも注目。
なお、のちの木田元さんの猛烈講読訓練の話は、上野俊哉、『思想家の自伝を読む』にある;
ちなみにわたしは大学院の修士課程を木田のもとで学んだが、ゼミ中の木田は本当に怖かった。勉学の態度から語学の能力まで、万事、頭から雷が降ってくる調子の教え方だった。
哲学徒たちは、江田島仕込とは気づかず、"雷撃"を受けていたのかぁ。恐るべし帝国海軍の伝統!