中山茂という学者がいる。科学史家として有名で、著作も多い。特に世間に知れているのはトーマス・クーンの『科学革命の構造』の日本語への翻訳者としてかもしれない。事実、Amazonで「中山茂」で検索すると、彼の著書は多い(⇒Amazon)。 著名な『科学革命の構造』も出る。
そのトーマス・クーンの『科学革命の構造』は科学史にとどまらず、20世紀後半の思想史での歴史的著作である⇒wiki。
もちろん現在にいたるまで賛否両論が多く、20世紀後半吹き荒れた相対主義の嚆矢として、批難する者もいる。とまれ、賛否を超えて、『科学革命の構造』を経ることなしに、科学という人間が行う現象を論じること(「科学」って何だべ?)はできない。
(今、トーマス・クーンがシンシナテイの出(で)だと知る。おいらは、行ったことがあるだよ;愚記事① 、愚記事②)
さて、おいらは、なぜ、中山茂がトーマス・クーンの『科学革命の構造』を翻訳したのかの理由は知らなかった。そんな1998年、講談社から、"現代思想の冒険者たち" というシリーズが刊行された。トーマス・クーンもあり、野家啓一が担当であった(現在、『パラダイムとは何か クーンの科学史革命』として再販Amazon)。その野家啓一の『現代思想の冒険者たち、トーマス・クーン』の中に月報があった。そして、その8ページのパンフみたいなものに、中山茂の回顧文があった。中山は1955年にフルブライト留学生として渡米し、まだ「無名」だったトーマス・クーンと出会っていたのだ。その中山版 "「藤野先生」物語" がその文章では語られていた。もっとも、なぜ中山にそんなに親切であったのかは特に書かれていない。後で触れるように中山茂がHiroshima-survivorであったと知っていたわけでもないだろう。一部を下に抜き書きする。
― クーンは一九五五年に私が初めて会ったころはまだ業績も少なく、無名で、ハーバード大学院に入ったら、たまたまそこにいたに過ぎない。
クーンはテニュアなしの助教授で、「科学的宇宙観の興隆:アリストテレスからニュートンまで」がその講義の出し物であった。ところが、私はアメリカへ渡る 前には英語の講義など聴いたことがなかったから、さっぱりわからない。それも全神経を尖らせて集中しても、五十分の授業の半ばに達すると、疲れが出てき て、ついて行けなくなる。(中略)こういう調子だから、中間試験はうまく行かなかった。
後から知ったことだが、ハーバードでは外国から大学院生を採るときは、そこの国の学問水準がわからないものだから、一応試用期間として入学させておいて、 残すかどうかを最初の学期の実績で評価する、ということになっていた。そしてどうも当時のまわりの様子から察するに、私も追い出されかけていたらしい。
クリスマスの休みの前に講義を終えたクーンは、私に「僕の講義をどれくらいわかるか?」と尋ねた。「二十%くらい」と私。「それは少ない。じゃあ、僕のこ の講義ノートを冬休み中貸そう。ただ、これは僕の命の次に大事なものだから、決して失ってくれるな」と念を押した上で、分厚い講義ノートを渡してくれた。―
そして、皮肉なことに当のトーマス・クーンは任期切れ、再任されず、ハーバード大学を去らねばならないといけないことになる。クーンはテニュアを取れなかったのだ。一方の中山は無事ドクターコースを乗り切る。まだトーマス・クーンの無名時代、もちろん『科学革命の構造』出版前のことだ。中山は上記文章に書いている;
―私の方は生き残れたが、クーンの方はハーバードに生き残れなかった。―
―クーンにとってハーバードから追われたことはショックだった。さんざん恨み節を聞かされた。それは彼が名声をはせた後まで、生涯続いた。私に会うと最後はその話になるのが通例であった。でも私は、クーンが『科学革命の構造』を書けたのは、ハーバードを離れたからではないか、とひそかに思っている。―
■ この話は1998年から知っていたのだが、去年、中山茂にまつわる話を知った。猫々センセの『文学研究という不幸』に”東大駒場の中山茂事件”という題で書かれていた。もちろんこういう状況であったとは知らなかった。なぜこんなに履歴も十分で、業績のある研究者がひどい状況にがまんさせられるのかびっくりし た。びっくりしたのは、少し別の観点。人事やポストにまつわる「嫌な」状況というのは、ふた昔前くらいの時代においては(今でも?)、(古い)大学では、よくあることだった。もっともその大半が、 「業績のない古株の助手(当時のポスト名)」 をどうするという問題 (消えて欲しいけど、居残っている!) だったように、当時のがきんちょであるおいらには見えた。さらには、例は少ないが、助教授センセなのに教授サマより業績がずばぬけすぎている研究者の処遇問題もあった。
中山茂の場合は、履歴も十分で、業績のある中山が「借りてきた」ポストにいることに対する周囲からの隠然とした「白眼視」に苦しんでいたというのだ。
猫々センセのゴシップ報告だけなら、今日のブログ記事にするほどでもないのだが、なんと、中山茂センセご本人の回顧文がブログとして公開されているとわかった。一部を抜き書き;
ここで僕は、この手記、記録をもとにして書けばよいのだろうが、それは欲求不満、怒り、呪詛の塊のようなものであって、決して僕にとっても思い出すにも楽し いことではないし、読者にも読むに耐えないものだろう。今ここで、遅ればせながら、この事件の僕なみの解釈を得て、多少心の平安を取り戻し、その高みから 書いてゆくことにしよう。
こういう事で、僕は毎日苦しんでいた。定年まで30年近く毎日怒っていたのである。怒って何も出来ないその時間は毎日平均3時間以上はあったろう。
このことの中山の当事者としての回顧は彼のブログの記事「自伝51」あたりから詳細に書いてある。
「paradigmerのブログ、中山茂 (科学史)、自伝50 事件に巻き込まれる」 現在リンク切れ。 自叙伝として出版済み。
OhSって、大森荘蔵のことなんだろうなぁ。表記が、途中でOhSが、OhMになっちゃってる。心の中ではオーモリって名指ししているからだろう。
それにしてもおいらが不思議なのは、こんなに苦しんでまで、なぜそんなポストにこだわっていたことだ。80歳の今でもポストがあるとのことなので、壮年の当時なら国内でも米国でもいくらでももっとポストがあったはずだと思うのだが。そんなに東大駒場が好きだったんだろうか?
⇒ 中山茂web site ホームページ (現在、リンク切れ)
■自伝はいろいろ詳しく書いてある。中山がHiroshima-survivorであったことも書いてある。
■今日のつれづれ;
「自発核発生」ならまいぬつ考えているので、知っていたが、「自発核分裂」なんて言葉は聞いたこともなかった。外来中性子なしに核分裂するってことなんだろうな。その活性化エネルギーはゆらぎで実現されるのかな?
もっとも、「自発核発生」と「自発核分裂」って同じ核という文字で意味が違う。だめだな、日本語による科学。
自発核発生::spontaneous nucleation
自発核分裂::spontaneous fission