「榎戸庄衛展」・茨城県つくば美術館に行く。
20世紀の日本人洋画家だなぁ~って感じ。「本家」の西洋絵画の影響を受けた結果としての、その変遷がとてもわかりやすい。
彼ら、「在日」の日本人洋画家って画集でピカソをみたのだなぁ~と、考えればわかることを、改めて認識する。
つまりは、本展示での榎戸庄衛の持ち物としてのピカソ画集。
戦前期の洋行の意義を考えさせられる。その点、パリに行った岡本太郎、そして軍隊生活にぶちこまれた岡本太郎との違いがわかる。
そして、日本の20世紀、つまりは昭和の時代の作家という面も濃厚。
おいらの趣味としては、大好きです。
同じく土器、埴輪をキュビズム的抽象的扱っていますが、岡本太郎ほどぶっとんでなくて(参考愚記事;⇒岡山駅 『躍進』)、穏健です。きれいです。
年代順にどうぞ;
『緑蔭』 1938 (昭和13)年
1940年、つまりは昭和15年に東京と札幌でオリンピックが予定されていた。恐慌と戦争の時代が来て、頓挫。
実は、昭和の恐慌の前には経済成長があり、日本でもプチブル層ができてきた[#1]。この絵はそういう「戦前日本のプチブルの小春日和」の模様なんだろう。プチではなくもう少し立派なブルジョアさまかもしれないが。
[#1]日本の大ブルジョアのことを忘れているわけではない。当時の世界で一番の格差社会は日本である(例えば→三井)。オノ・ヨーコとかそういう出自である(⇒関連愚記事; ■君は、ブルジョアを見たか?)。
戦後高度成長を経てこういう風景が、薄められて拡散し、庶民にも一般化する。
そして1964年(昭和39年)に東京オリンピックが、本当に、開催される。札幌オリンピックは1972年(昭和47年)。
(参考愚記事;① 1964東京五輪の東京砂漠 ; ② おいらが、畏れ多くもひろひとさん御臨席の場に、衆の一滴としてあったのは、1972年2月3日のことである。)
「予期せぬ」恐慌と戦争が来たため、「プチブルの小春日和」の一般化は四半世紀遅れたのだ。でも、今考えてびっくりするのは、時間をかければ元の軌道に戻ったということだ。今後はこういうことはないだろう。破綻の結果がずるずると....
↓20世紀前中半期的抽象画へ;
『うみのさち』 1957 (昭和32)年
こういう絵よくみるよね。っていうか、まんま、クレーだよね。ミロ風味も入ってる。
↓そして、現代抽象へ;
『てのかみ』 1966 (昭和41)年
『あるシュール画家の像』 1970 (昭和45)年
■そして、今回の展示ではあまりなかったのですが、戦時期の作品があります。
戦場には行きませんでしたが、内地の飛行場などで取材した作品があります。きれいです。
第1回航空美術展(⇒Google)に出した作品があります。
疎開先で描いた雨引観音での絵が今回展示されていました。
●余談; 思わず昭和の成仏のために;
ネットで検索サーフィンしていたら、見つけた;
十一月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 榎戸庄衛筆「秋果豊収」の絵はがき)〕
この絵は光線ばかりにとらわれている作品だそうです。ギタギタですって。こうやってみると人間の危っかしい描き方ばかりが眼について、女の人などひざを 一寸押すと、それきりガクリとゆれそうね。本当の動きの為に全身の筋肉を緊張させて爪先だっている女の弓なりの体などは本当に美しいのに。こんなアトリエ のうそでごまかして。ブリュウゲルの写真版のいいのがあってペンさんが貸してくれ、台紙に入れて今日出来上りました。この画家の健全な面が発揮された絵で 収穫の図です。色彩も非常に新鮮です。お目にかけられないのがざんねん。
ここよりコピペ; 宮本百合子、獄中への手紙、一九四二年(昭和十七年)
知らなかった。絵画の話題が多い、「宮本百合子、獄中への手紙」。網走の御大は(←まちがい。ちゃんと巣鴨拘置所の顕治宛って書いてあるね)、絵葉書で目の保養をしていたらしい。昭和17年にはまだ巣鴨にいたのだ。網走はその後か。
(関連愚記事; "北海道って空襲がなかったから網走にいた宮本は妙に安全だったというわけ")
なお、この「秋果豊収」は昭和17年の作品なので、新作がすぐ絵葉書になって、それを批評しているのだ。ただし、絵葉書はモノクロなのだ。
今回の展示にも絵葉書が披露されていた。
ちなみに、「秋果豊収」とは、こんな絵だ↓ 色彩も非常に新鮮です。お目にかけられたのが幸いです。