―都内新宿区―
↓目指したもの (Google画像:かまくら)
■ Ikagenki @ 1983 あたり in ten words (十個詞彙裡的Ikagenki @ 1983)
【戦メリ】 「戦場のメリークリスマス」。見なかった。今に至るまで見ていない。当時、「戦場のメリークリスマス」の公開にあわせて、大島渚の旧作を上映する企画が別の映画館であった。おいらが中二病をこじらせていた札幌でのことだ。そっちに行った。すでにその頃から「後ろ向き」の姿勢、新しもの嫌い、resentimennt根性を発揮していたのだ。3本立て。『愛と希望の街』、『儀式』そしてあと1本。忘れた。『愛と希望の街』はわかりすぎたし、『儀式』はわからなさすぎた。
【ラロトンガ】 「戦場のメリークリスマス」を撮った場所はラロトンガという島だ。ガダルカナルに近い。そこには女王がいたとのこと。ビートたけしが彼のラジオ番組で言っていた。そのラロントンガ女王は原チャリに乗って買い物に行くんだと、いっていたような記憶がある。1983年の戦メリの公開前の話だ。
【監督】 そのたけしの大島渚についての報告。南方の戦場の映画シーン。イモリだかヤモリだかとにかく爬虫類を撮る場面。カメラアングルがあわないので、地面を掘り下げろ!とか、その爬虫類にダメ出しして、どこの所属なんだ!?と怒るとか、もちろんネタではあろうが、のめり込む映画監督を描写していた。
【団塊】 「戦場のメリークリスマス」では坂本龍一、ビートたけしらが役者として採用された。当時のビートたけしの位置づけを説明するのは難しい。大人からみればちんぴら芸人に毛が生えた程度であったであろうし、当時の中高生にとっては教祖化しつつあった。今改めて確認するに坂本龍一、ビートたけしって団塊なんだ。当時のビートたけしは30代半ば。結構いいとしだ。そして、たけしと大島渚とは15歳しか違わないのだ。
【ラジオ】 もちろん当時はネットなんかない。おいらの情報源はラジオだ。坂本龍一も番組をもっていた。たけしと違ってFMで。はじめてたけしに会ったことを報告していた。「いい人ですよ」みたいなことをいっていた。たけしは、ラロトンガうなぎ事件を報告していた。日本からもっていったうなぎのレトルトを求めての坂本龍一の悲喜劇だったような記憶がある。
【復権】 大島渚の戦メリのキャストは坂本龍一、ビートたけしら情報発信力と話題性のあるタレントを抜擢することで、当時過去の映画監督と大島渚が揶揄されていた状況で、復権を果たした。どうやら、『仁義なき闘い』に学んだらしい。山守@金子信雄だ。たけしは広能@菅原文太であり、坂本は武田@小林旭に他ならない。あるいは、毛沢東のようではないか。四人組や若者を使嗾し、自らを復権させた。1980年代初頭の若者たちは大島渚の映画なぞ(マニア以外)観たことがなかったのだ。ちなみに、過去の映画監督と揶揄していたのは、ほかならない、ビートたけしである。映画も撮ってないのに、大島渚監督という呼び方はおかしいだろうと言っていた。
【抜擢】 周知の通り、たけしは後映画監督になる。おいらは以前から思っていたのだが、このラロトンガで大島渚が映画撮っているのを目の当たりにして、こんなんならおいらにもできる、と確信したのではないだろうか。大島渚は後世、たけしを抜擢した監督として知られることになるのだろうか。
【東京裁判】 「戦場のメリークリスマス」をみなかったおいらが、この年観たのは『東京裁判』だ。
【湧いた館内】 その映画『東京裁判』で、東條内閣の成立という場面があって、当時のニュース映像が使われた。首相官邸で大臣が車から降りて官邸にひとりずつ入る。そこで、商工大臣の岸信介が登場。その瞬間、映画館が「うをー」という声で沸いた。みんな、示し合わせたわけでもないのに、一斉に「うをー」といったのだ。こんな状況においらが映画館であったのは後にも先にもこれだけである。
【大川周明】 映画『東京裁判』では、大川周明が東條英機のハゲ頭を後ろからぴしゃりとはたく。さて、1980年代前半、札幌の古本屋を丁寧にまわると大川周明の本が二束三文で売っていた。集めた。
これだ↓