昔のものを整理していた。ひょんなことから、「麦笛」に気づく。「むぎぶえ」と読んでいたが、「ばくてき」らしい。
そして、「麦笛」というものの具体的なことは知らなかった。端的に麦わら=ストローを吹くと、いい音がなるらしい。
こういう風な音がするのだ ↓
くりの木幼稚園の遊び 麦笛
これはおもしろいと思った。なにしろ、通勤途中に麦畑がある。1本拝借して、「麦笛」=「ばくてき」を作り、ピーピー鳴らしながら週末を過ごそうとした。それで、麦をかっぱらった。
作ってみた。ネットでつくりかたを探した(google)。できなかった。うんともすんとも鳴らなかった。
うーん、残念。 かっぱらい、麦 笛 の作製に失敗。
■
麦をかっぱらわないという伝説を持つのは、八路軍(パーロ)だ。
■ 麦 笛 の作製に失敗した後は、のんべんだらりんとお支那さま物語を読んだ。そして、わかったこと。
1921年7月23日に上海で開かれた中国共産党の発足会議に参加した中国人13人のうち (この会議の参加者は15人であり、あとのふたりはコミンテルンのロシア人である)、28年後の1949年10月1日に北京は天安門での中華人民共和国の建国宣言に参加したのは、毛沢東と董必武のふたり(当然、中国人である)だけである。つまりは、毛沢東以外に政治的に生き残った唯一の人物が董必武だということ。
董必武、って読めなかった。
おいらは、支那文字に弱いのだ。
董必武 = とう ひつぶ。
念のため言っておくと、1949年10月1日に北京は天安門での中華人民共和国の建国宣言は史実であり、画像も映像も音声も残っている。それとは対照的に、上記画像左の1921年7月23日に上海で開かれた中国共産党の発足会議の様子は蝋人形である。毛沢東が中心になってこの会議が行われた「史実」はない。この蝋人形の再現は神話である。この神話で、董必武が毛沢東の「側近」なのも、1949年10月1日の史実を遡及したものではないだろうか。
そして、何と、董必武は文革期の国家主席でもあったのだ。全然、知らなかった。なんと、劉少奇国家主席なき後、つまり、劉少奇が牛小屋に送られた時に、副国家主席だったので、董必武がもちあがったらしいのだ。ということは、1968年から1973年まで5年半の間監獄にぶちこまれていた山本市郎さんの人権問題(愚記事;山本市郎さんは秦城監獄にいたのではないだろうか?)の最高責任者は国家主席である董必武さんにあるということになる。
さらに、びっくり驚いたのは、法政大学卒業とのこと。
董必武は一九〇三年に科挙の試験で「秀才」の資格を得たが、辛亥革命に参加して孫文の中国同盟会の会員となり、一九一四年、法政大学法科に留学中に、孫文の中華革命党に入党した。興味深いことに、彼は在学中に一旦帰国しているが、卒業がせまった一九一八年三月、卒業試験だけを受けに日本に戻り、無事卒業証書を手にして帰国した。正式卒業にこだわる心理は、どうも革命に携わろうとする者にしては不似合な気がしないでもないが、真面目で律儀な性格だったようだ。
譚瓐美、『中国共産党を作った13人』
魯迅にせよ(在仙台1904-1906)、周恩来(在東京 1917-1919)にせよ日本に留学したのちに有名になる中国人は多いが、卒業した例はめずらいいのではないか。そして、日本滞在時期は、魯迅より、周恩来に近いのだ。
ただし、生没は、魯迅(1881-1936)、董必武(1886-1975)、 周恩来(1898-1976)。
なお、wikipedia[董必武]には、日本大学などにてで学ぶとあり、そして、法政大学が全く言及されていない。
譚瓐美さんが正しいのであれば、wikipediaは誤り。
1921年 毛と董(右端、帽子の人) 1949年 毛と董(右端)
● ま と め
董(とう)さんは、全然、毛沢東を董(ただ)さなかったので、生き残ったのだ。
● ま と め 2
董必武。 「必要」の片割れではないか! 必武があれば、要武もあり;”毛泽东回道:“要武嘛。”
毛さんに、「必要」な人物たち;
要武 必武
▼ 参考リンク
・さて、日本留学組の四人とは──東京の第一高等学校に在籍中の李達、法政大学を卒業直後の董必武、
● 補遺; 1921年7月23日に上海で開かれた中国共産党の発足会議は当時は閑静な高級住宅街で開かれた;
関連愚記事;上海参り 2012