― 日本外交の不幸の一つは、理想主義と現実主義が対極的なものであるかのようにとらえられることが多かったことである。理想主義と現実主義は矛盾するものではない ―
解説/戦後日本の外交思想、 リアリズムとアイディアリズム、 北岡伸一(解説での言葉)、『戦後日本外交論集』
本日のお題:首と胴体を切断された二人は、案外、近くに埋まっていた; 井伊直弼と吉田松陰。 すみません、また、奇を衒ってしまいました。
結論は何のことはない公知情報である。井伊直弼と吉田松陰のお墓はお互い1kmも離れていない場所にある。
世田谷区を斜断する散歩をした。豪徳寺と松陰神社によってみることにした。豪徳寺は行ったことがある。猫寺として有名だ。そして、井伊家の菩提寺だ。一方、松陰神社には行ったことがなかった。地図で、松陰神社の存在と場所を知ってはいた。東京で松陰を奉った神社なんだろうなぐらいにしか感じていなかった。そして、案外両者は近いとわかってはいた。しかし、松陰がその松陰神社に埋葬されているとは実際行ってみるまで知らなかった。そして、その間にはなぜかしら国士舘大学があるのだ。
こうして地図でみると鉄道駅がたくさんある。したがって、いかにも大きな縮尺の地図に見える。でも、駅と駅の間は500メートル程度なのだ。東京ってこういうのが普通なのだろうか?
時代の順番から確認すると、1859年(安政6年)11月21日に吉田松陰は死刑となり、首と胴体を切断される。罪状は「政府転覆計画」である。具体的には老中・間部詮勝殺害計画。安政の大獄 [1] の一環と位置づけられている。したがって、死刑命令の責任者は井伊直弼ということになる。この安政の大獄で「攘夷派」との権力闘争に区切りをつけ、開国条約の実現をなした。
[1]関連愚記事: 例の安政の大獄で死刑になった者が何人か御存知ですか。
その井伊直弼は安政の大獄で政敵から恨みを買い、水戸脱藩浪士と薩摩藩士に暗殺される。1860年(安政7年)3月3日。 桜田門外の変。
井伊直弼は首と胴体を切断された。その首級は薩摩藩士の有村次左衛門に持ち去られた。しかし、有村も合戦で深手の傷を負い、足取りもままらなかった。その藩主の首を取り返すため彦根藩士が追撃する。有村はよろよろと1.6km、首をもって逃げた。しかし、若年寄遠藤邸の前で、これ以上逃げ切れず、もはやこれまでと決断したのであろう、自刃。直弼の首級は遠藤家に一旦引き取られる。その後彦根藩士がその首は自藩の某徒歩の首だといって取り戻し、抱えて藩邸に持ち帰った (安政7年のラグビーボール !)。藩邸では藩医岡島玄達が首と胴を縫い合わせた[2]。 ([2] 吉田常吉、『井伊直弼』)
吉田松陰の墓、松陰神社(東京都世田谷区)
この世田谷の地に、刑死した松陰が埋葬されたいきさつは、この地が毛利家ゆかりの土地だったかららしい。そして、この地に最初に埋葬されたのは幕府による長州征伐の前。この松陰埋葬には、高杉晋作、伊藤博文ばかりでなく、あの赤根武人も参加している。赤根武人はこののち内ゲバで殺される。
将軍継嗣問題で、井伊派と反井伊派(斉昭など一橋派)が対立するときの争いにおいて、「保守」"頑迷派"""守旧派""である井伊派は血統こそが重要だと主張する。この井伊派と反井伊派の争いとは別途、吉田松陰は一君万民を説いたとされる。しかし、吉田松陰の松下村塾グループでは内心エリート主義の高杉晋作と赤根武人ら現実の草莽派とで内ゲバ。実際は、高杉の「血統派」=エリート主義者が勝利する。この後、実際は草莽である伊藤博文や山縣有朋らはホントは草莽だけどエリート意識に覚醒し、御屋敷や庭園づくりや淫乱行為に走る。
井伊直弼の墓、豪徳寺(東京都世田谷区)
新鮮な花がそなえてありました。
井伊直弼に関する関連愚記事;
どうして、豪徳寺が猫寺(招き猫寺)であるかは;
江戸で直孝が鷹狩に出た帰りに小さな貧しい寺(弘徳庵)の前を通りかかると、中に入るよう手招きする猫がいたため、その寺に入った。すると辺りは突然雷雨 となった。雨宿りをしながら寺の和尚と話をしているうちに、直孝は和尚と親しくなった。この寺は後に寄進を受け、立派に改築されて井伊家の菩提寺とされ、 直孝の法名にちなんで豪徳寺と号した。それからその寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として、招猫堂を立てて祀った。この話が招き猫、ひこにゃんの由来である。(wiki)
奉納猫の全景
■そして、横溢するアイディアリズム
- ネット上での拾い画像 -
「草莽崛起」が言葉コスプレとなるか、本物なのか?
あるいは、支那の水爆で武蔵の野辺に朽ちるのか?
● まとめ; 国士舘大のみなさんは佐幕派(保守)なんだろうか?討幕派(革命:政府転覆)なんだろうか?どっちなんだ???!!!