1937年(昭和12年)4月27日の朝日新聞
文化勲章の制度が始まったのは1937年(昭和12年)である。なお、その年、7月、盧溝橋事件、そして12月、南京陥落。1937年(昭和12年)の文化勲章は、今の11/3 文化の日(旧明治節)と違って、4/28だったらしい。つまり、大日本帝国の戦争前の 小 春 日 和 の最末期なのだ。
理系で受賞したのは、本多光太郎、木村栄のお歴々と、そして、長岡半太郎。本多光太郎はノーベル賞候補だったらしい。
大日本帝国の戦争前の 小 春 日 和 の御学問所(2013年撮影)。1937年の建物はどれだけ残っているか知らないが、1937年にはこの地で世界的水準からみてそこそこの科学技術的研究を行っていた(らしい)。
嘆きの壁?画像
愚記事より
(かの金研はKS鉄鋼を開発し、世界最強の磁石鋼として国際的に注目され、ジーメンス、GEなどがあいついて特許使用権を購入した。大正ぬっぽんは外国から富を得た=頭脳で経済的価値を生んでいた。)
(下記のことは公知でいろんなところで、さかんに書かれている;)
長岡半太朗は第1回目の文化勲章を受章したが、それに先立つ13年前の1924年に水銀を金に変えることができると発表している。実験は理研(理化学研究所)で実施。そして、その報告は今に至るまで「撤回」されていないのだ。
もちろん、これは最初からの計画的捏造とは証明できず、かつ、長岡半太朗は死ぬまで本気で1924年の技術で水銀を金に変えることができると信じていたのかもしれない。
「ない」ものを「ない」と証明することは困難なのだ。
一方、STAP細胞も、再現が確認されない、で幕引きとなるのだろう。
最初からの計画的捏造とは証明できないのはもちろん、理研の「打ち上げ花火&予算獲得」戦法による恒常的な研究不正の結果であるとも確認されないのである。
1924年9月に発表された水銀を金に変えることを可能にする夢の研究である。水銀は原子番号80、金は原子番号79であるから、「水素元子」(陽子)1個を除去すると金が得られるとし、水銀の「核を攪乱」したところ金が見つかったとされる。長岡の目的は原子を改変して原子の理解を深めることで水銀から金を作る研究は部分的な応用例であったが、理化学研究所の広報が報道をあつめて発表し、この研究は資源の少ない日本に多大な恩恵をもたらす「錬金術」であるとセンセーショナルに報じられた。しかしその後10年研究が続けられたが成果なく、誤りであったのだが、長岡半太郎は認めることはなかった。また他の学者も物理学の重鎮に対して批判をすることはなかった。(wiki) 下線 いか@
理研の伝統継承力はすごいものである。