いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第280週

2020年03月21日 18時13分43秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫
▼ 新しい街でもぶどう記録;第280週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の花

■ 今週の訂正

愚記事; 1945年9月2日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち

が間違っていた。9月8日だった。 明日のブログで修正記事を出す。

■ 今週知った上等兵; ポール・デイビス上等兵

上の1945年9月8日に東京に入城した米軍で、東京入りの第一歩を印したのが、ポール・デイビス上等兵という米兵なのだという。賞金をもらったそうだ。(上の写真も含めて、web site

■ 今週知ったこと;

1945年9月8日に東京に入城した米軍の総帥は、もちろん、マッカーサー。そのマッカーサーについて、あるアメリカ人が「マッカーサーは、インディアン掃討将軍のようなので、好きだ」と江藤淳に云ったということが江藤の本のどこかに書いてあるはず [0]。すなわち、マッカーサーの東京入城はひとつのインディアン狩りの終着と云える。

その文章を探すため、江藤の『アメリカと私』(1963-4年の滞米記録文学)をみていたら、先月死んだジョージ・シュタイナー [wiki] に言及していたと気づく。『アメリカと私』は何度も読んでいるが、特に気にも留めなかった。ジョージ・シュタイナーは江藤がプリンストンに行く2年前にプリンストンにいたのだ。そして、『アメリカと私』での、ジョージ・シュタイナーへの言及[1]は、江藤はあまり摂取した学術内容(=自分に影響を与えた"外国"批評家)を書かないので、やや唐突な感じがする。ジョージ・シュタイナーは当時34歳くらいで、まだそんなに著名でもないと思われる。江藤にはジョージ・シュタイナーを知る慧眼があったということを示す。その後、1974年にジョージ・シュタイナーが来日した時、江藤は会ったとwikiに書いてあった。

[0] 本記事投稿後、記す;見つかった;

私がプリンストン大学にいたとき、同僚の温厚な中国史の学者が、なぜかマッカーサーが好きでたまらないというのです。ちょっと意外だったので理由を聞くと、「いや、結局インディアン退治の将軍の伝統を受け継いでいるところがなんともいえないのだ」といいかけて、比喩がよくないと思ったのか、そのまま口をつぐんでしまったことがありました。(江藤淳、『日米戦争は終わっていない』)

[1] 私は、二年前に、新進批評家ジョージ・スタイナーが、このセミナーで『悲劇の死』という野心的な連続講演を行い、その結果が翌年本になって出版されたことを知っていた。もし、スタイナーのような俊才が現れて、壮大な議論をくりひろげてくれたら、それは自分にとって刺激的なことであるに違いなかった。(江藤淳、『アメリカと私』)

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