■ 「札」ナンバー
今秋、札幌に行ったとき、「札」ナンバーの車を見た。今、普通は「札幌」。「札」ナンバーは年季もの。
車のナンバーの制度を正確には知らないのだが、一度発行されたナンバーは廃車にしない限り、継続するらしい。筑波山麓でも、「桜」ナンバーのバイクを見たことがある。「桜」とは今はつくば市となった桜村のこと。常磐高速で「桜土浦」インターとあるが、桜村のことである。筑波大学が開学した時は、桜村。寮にいた学生は桜村村民(関連愚記事:開学間もない、新治郡桜村の筑波大学の学生が大量選挙買収されたという話)。
■ 北海道神宮わずか50年
「北海道神宮」は1964年に「神宮」になった、とさっき知った。「神宮」というのは日本にどこにでもあるものではないことは知っていた。なので、おいらの札幌のあの神社は格が高いのだなぁと知った。30過ぎてのことだ;
大人になるまで「神宮」というのは指折り数えるほどしかない「格式」の高い神社とは知らなかった。つまり、がきんちょの頃から知っている北海道神宮が格式の高い神社とは自覚していなかった。(愚記事;■神社焼き打ちの思い出;)
でも、さっき知ったさ。「北海道神宮」は札幌神社と呼ばれ、1964年に「神宮」になった(wiki)。そもそも「神宮」は勅許(すめろぎさまのおゆるし)が必要。戦前には、札幌のあの神社は、「神宮」ではなかったのだ。なぜ、1964年に「神宮」となったかの理由はわからない。
でも、邪推してみた。1945年、三つの神宮が「廃社」となっている。つまりは、なくなったのだ。すなわち、「なくなった」神宮は、朝鮮神宮、台湾神宮、そして関東神宮(旅順)の三つである。大日本帝国の瓦解とともに、廃(すた)れたのだ。
そして、札幌。敗戦時、大日本帝国が奪取した土地で唯一残った領土である。B-29だって来なかった。もちろん、この時、琉球は米軍領だ。札幌こそが、大日本帝国瓦解時の日帝 残滓 残”宝”だったのだ。敗戦時は「札幌神社」だった。
「札幌神社」の石碑が見える。
[この画像は「"米"衛隊]殿よりの無断転載です、ゆるしてください。 ソース]
昭和20年(1945年)札幌に進駐する米占領軍。(関連愚記事;札幌に占領軍が進駐するのは、10月になってからだ)
札幌市内中心部で「支配者は我々だ!」と示唆行軍する米軍。「札幌神社」の石碑が見える。
(米衛隊殿の表現は; 昭和21年 米軍進駐に伴う札幌市内での行進)。「伴う」って、米衛隊文学的語彙らしい。[2023/8/18記す] この米軍部隊は仙台から来たスイング中将率いる第11空挺師団の札幌入城、昭和21年(1946年)4月7日と思われる(根拠資料 千歳市)。街路樹の葉が生えていないことも4月であることと調和的である。
これは、おそらく北一条通り(西4丁目)だろう。今は、「北海道神宮」の石碑となっている。
すなわち、大日本帝国の瓦解で神宮の数が減り、「神宮ポスト」がかなり空いたのだ。そして、札幌が日帝残”宝”である背景で、1964年に「神宮」に格上げしたのではないかと邪推している。なお、戦後は皇室が勅許を出せないので、神社本庁の特別な承認を受けて改称(wiki)されたのではないだろうか?なお、1964年という年は明治百年の1968年とも関係がありそうだ。
■ 神宮で命[みこと]の賊
北海道開拓の父(開拓の神)と呼ばれ島義勇(しま よしたけ)[1]は、1874年の佐賀の乱に参加、死罪にあい、かつ、晒(さら)し首となる。当然、島義勇は天皇の軍隊に弓をひく賊軍である。でも、「北海道神宮」には命(みこと)として祀られている。
[1]■島判官
おいらが生まれて初めて覚えた歴史上の人物は島判官こと、島義勇。少なからずの札幌っ子はそうだ。なぜなら、島判官が「札幌」を創ったのだから。小学校3 年生の郷土史で習う。3年生札幌の歴史、4年生北海道の歴史と習い、多少なりとも人物の名前を覚えた。クロダキヨカタとかなんとか。そういう人物が明治維 新関連人物とは全然知らなかった。
さて、おいらが、そんな島判官のその後の人生を知ったのは30歳過ぎてから。西南戦争に先立って、政府要人なのに、「不平士族」の反乱を起こして、失敗、死んだと。 (愚記事; また、君か! 岩村高俊)