いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

帰路東京湾中より富士見事に見ゆ。

2009年09月02日 19時12分19秒 | 日本事情


⇒人物の同定はこちら:戦艦ミズーリでの降伏文書調印全権(重光・梅津)と随行員の人物同定と所属、役職、階級

(『重光葵手記』より昭和20年9月2日の項の一部を抜き書き)
■九月二日午前三時起床、竹光秘書同伴、総理官邸に向かった。
(中略)
 集まるものは梅津全権の外、随員として外務省からは岡崎(勝男)終戦事務局長官、加瀬(俊一)情報部長[内閣情報局第三部長]、太田(三郎)終戦事務局部長の三名、陸軍より参謀本部第一部長宮崎(周一)中将の外、陸軍省永井(八津次)少将及杉田(一次)大佐、海軍から横山(一郎)、高岡(定俊)両少将(柴勝男大佐帯同)であった。
 朝食後午前五時首相官邸出発、見渡す限りの焼け野原を見て横浜に向かう。
 (中略)
 六時四十五分米駆逐艦ランスダウン号に移乗して港外に向かう。東京湾上に向かって走ること小一時間、濤声舷を打ち、旭光漸く海波を照らす。海上無数の大小敵艦を見る。
 二百十日横浜沖の漕いで出て
 プリンス・オブ・ウエールズの姉妹艦キング・ジョージ五世も白く塗った巨艦を横たえて居る。九時十分前米海軍旗艦「ミズリー」号に到着す。更にランチに移乗してミズリーの艦側に近づくことが出来、それから記者を先頭に舷梯を攀ぢて上がった。式場外は立錐の余地なき迄に参観の軍人や新聞記者、写真班等を以て埋められ、大砲の上に馬乗りに跨って列をなして居る。
 上甲板の式場には、正面に敵側各国代表がすでに堵列して居つた。左側は写真班、右側砲塔側には参観の将官等重なる軍人が列んで居る。其の中には比島で俘虜となったウエーンライト将軍やシンガポールで降伏したパーシバル英将軍も並んでいた。
 中央に大テーブルあり、マイクは向う側に立つ。我等は之に向かって止まり、列んだ。艦上声なく、暫時我々を見つめた。室外なれば着帽の儘で敬礼等の儀礼は一切なし。
 敵艦の上に佇む一と時は  心は澄みて我は祈りぬ
 九時マッカーサー総司令官簡単なる夏服にて現われ、直ちに拡声器を通じて二三分間の演説をなす。
 戦争は終結し、日本は降伏条件を忠実迅速に実行せざるべからず
 世界に真の平和克復せられ、自由と宏量の尊奉せられんことを期待す。
との趣旨を述べた。
 全権委任状の提出、天皇の詔書写を手交し、先方の用意してある降伏文書本文に記者が調印を了したのは、九時四分であった。
 マッカーサーは連合軍最高司令官として、日本の降伏を受け入れる形を以て、文書に署名した。
 (中略)
 ペルリ提督日本遠征の際に檣旗として掲げた星条旗を博物館から持って来て、ミズリー号式場に飾ったのは、占領政策の政治的意義を示す用意に出たものと認められた。
 退艦も乗艦の時と同様の儀礼にて、ランチに移り、駆逐艦に移乗して、湾内を巡視して埠頭に帰り、接伴員に慇懃に分かれを告げて、神奈川県庁に帰着した。米国側の取扱は総て公正であった。
 帰路東京湾中より富士見事に見ゆ。
 首相官邸に帰り着いたのはすでに十二時過ぎで、直ちに総理宮に報告を了し、昼を了りて、一行を解散した。

▼昭和20年9月6日 戦艦ミズーリ降伏文書調印式




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