いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日もつくばで; さらば! 筑波山麓 ① 日庄ふとん店

2014年10月12日 19時26分39秒 | 筑波山麓

さらば! 筑波山麓

ちくしょう、転勤だ!ということになった。筑波山麓での見納め遊山で過ごしてる。

"筑波研究学園都市"は周知の通り人造都市である。その街の背骨のような道が「学園東大通り」である。がくえんひがしおおどおおり。とーだい(東大)通りではない。"つくば学園都市"は建設当時、つくば市はなかった。現在のつくば市は多くの町と村の合従体である。

  愚記事; ひろひとさんのゴーサイン

さて、極私的記録。 1997年12月、おいらは"つくばに"やって来た。

バンクーバーからのフライトはがらすきで、隣の座席に横になり寝て渡洋した。見た目があきらかにぬっぽんずんでしかない客室乗務員(@黄色い人)が英語でサービスするので、英語で応答し続けた。おいらのことを「華人」さまだと思ったのであろう。

おいらは"つくばに"やって来た理由は、ポスドク2巡目を始めるためだ。カナダから成田へ夕方に到着した。その成田空港で買った雑誌『文藝春秋』には江藤淳の評論、「第2の敗戦」が載っていた。「たくぎん」が潰れて間もない頃だ。「たくぎん」が潰れるということの衝撃は、今となっては、限られた世代の道産子にのみ理解されるのだろう。成田からバスでつくばセンターについたおいらは、タクシーで、東大通りの竹園付近のホテル・ニューたかはし に行き、泊まった。ホテルにチェックインすると間もなく、今度のボスとなる人から電話があった。すなわち、フロントにおいらがチェックインしたら直ちに連絡するよう指示があったに違いない。その晩はゆっくりできるとのおいらの期待ははずれ、今度のボスとすっかり日が暮れた時間に会わねばならなかったのだ。会った。それが初対面だった。そのボスは晩飯を共にしたいと思っていたのだ。

「何が食べたい?」と新ボス。

「カレーライス! 典型的な日本風カレーライス!」とおいらは即答した。

その時、即答したことに新ボスが何か感じたことが表情に出たことを、おいらは見て逃さなかった。のち、こういう質問に即答するとは思わなかったと述懐している。おそらく、初対面のカナダ帰りのポスドクとの会食について、何か腹案があったのかもしれない。

我々は竹園の スカイトット すかいとっと に行った。 今はもうない [google; 竹園 カレー すかいとっと]。

つくばについて、ホテル・ニューたかはし に何泊したか覚えていない。今の記憶では到着の晩、ひと晩だけだったと思う。次の晩からは研究所の付属の宿泊施設=ベット部屋、に泊まったのだと記憶している。一方、すぐに不動産屋に行き、アパートを決めた。すぐ決めた。特に考えずに決めた。のち11年間暮らすこととなる(愚記事; 11年暮らしました)。

その時アパートを斡旋した不動産屋のその営業のひとは、現状の経済状況は「壊滅的だ!」と言った。たくぎん破綻を受けて、数年前に生じたバブル崩壊を現実のものとして不動産屋が実感していたのであろう。この不動産屋のその営業のひとが持っていた「恐慌感」は、おいらがカナダで感じていた日本恐慌状態!と整合していた。

おいらがカナダで感じていた日本恐慌状態!と不動産屋のその営業のひとが、現状の経済状況は「壊滅的だ!」と言ったことを、国研の研究者に話すと、全然反応が違って、「どこのクニの話ですか???!!!」という感じだった。今から思えば当時は、おいらが tax-eaterという言葉=概念=文節できる能力=認識能力を持っていなかったのだ。食税ぬっぽん研究者さまは、こういうものだったのだ。と今、思う。1998年1月のことだ。

さて、アパートを決め、札幌に一旦帰った。理由は車を取りにかえるためだ。つくばは車がないと生きていけない。苫小牧発、大洗行きのフェリーに乗り、つくばに再来したおいらのしたことは、ふ と ん を買うことである (なお、苫小牧発、大洗行きのフェリーには、 見 送 り の じ い さ ん はいなかった)。 そのふとんを買ったのが、学園東大通りに面した、一の矢・八坂神社に近い「綜合寝具日庄」である。車で乗り付け、ただちに買って、アパートに帰った。

 

竹園のカレー屋、スカイトットは無くなってしまったが、ふとん屋日庄はまだあるのだ。

なぜ、1997年にこのふとん店・日庄で寝具を買ったかというと、このふとん店を知っていたからだ。

そして、極一部のつくば市民を除いて、この東大通りにおける「綜合寝具日庄」の意味、位置づけはわからないだろう。

「綜合寝具日庄」が面する東大通りにおいて、このあたりは両側に人造の並木が続く、まるで高速道路にように=つまりは左右の文物は並木のみで立ち止まって何かするような通りではない==通るだけのための大通りという雰囲気なのである。

さて、その「人造の並木が続く、まるで高速道路によう」な道路は、いつ、何のためにつくられたのか?

それは、ひろひとさんがゴーサインを出した"筑波研究学園都市"の北端の目玉施設がKEKだからである。

KEK=高 K エネルギー E 研究所 K !

どういうabbreviationのつくりかたなんだ! 昭和のぬっぽん!

"筑波研究学園都市"の北端の目玉施設であるKEK(高エネルギー研究所)とつくばセンターを結ぶためである。


1972年のKEK。 トリスタンのカケラもない。


1997年のKEK

おいらが、初めてつくば山麓にやってきたのは、周恩来より相当遅れた[1-2]頃、すなわち、昭和は終わっていたが20世紀はまだ終わっていなかった頃だ。

 おいらが初めてつくばに来たのは平成になって間もなく。仙台からみんなで車で行った。今から思うと国 道6号線で南下、学園東大通り入口の交差点から東大通りに入った。ナビをするわけでもないが、車外の風景と地図の地名を照らし合わせていた。運転者と今ど こを走っているか確かめていた。オオカドマメって読んだことは記憶がある。  (愚記事; 十六大角豆(じゅうろくささげ

 

    (  [1] 周恩来が若き時日本に留学していたことは有名。そんで、筑波山にも遊びにきたんだとさ! 遊学する周恩来!  

    [2] ▼ 筑波山と周恩来   )

そして、その後しばしば、筑波山麓に来た。KEKで実験するためだ。1990年代前半。その時は、筑波の状況は今とは相当違っていた。例えば、夜中に食事に行くのは、当時やっていたのは、春日あたりのファミレスのみであり、大穂のKEKから車で飯を食いにいったのだ。大穂、柴崎=桜テクノパークあたりは全く拓けてなかった。

そういう実験修行の間で、いつも目に入るのが、何も沿道に目立った店がない、学園東大通りの一の矢付近のこの布団屋であった。

ポスドクで筑波に来て、ふとんが必要なので、行ったのだ。


一の矢・八坂神社付近 1997年


一の矢・八坂神社付近 1972年


一の矢・八坂神社付近 1960年  東大通り建設前

 



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