11月17日(水)、早稲田-雑司ヶ谷付近へ行く。行ったこととがない肥後細川庭園に行くことにして、周辺の名所を探すと、漱石山房記念館、雑司ヶ谷・宣教師邸が未訪問なので散歩経路に入れた。結局、地下鉄・早稲田駅からJR池袋駅まで歩いた。
1;地下鉄・早稲田駅、2;漱石山房記念館、3;肥後細川庭園、4;護国寺、5;雑司ヶ谷・マッケーレブ宣教師邸、6;鬼子母神、7;池袋駅
■ 1;地下鉄・早稲田駅 ⇒ 2;漱石山房記念館
新宿区立漱石山房記念館(しんじゅくくりつそうせきさんぼうきねんかん)は、夏目漱石の生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館である。2017年(平成29年)9月24日に開館した。
漱石は新宿区で生まれ育ち、また1916年(大正5年)の死没までの9年間を現在の新宿区早稲田南町の「漱石山房」で過ごした。「漱石山房」は漱石の弟子や知人など多くの文人が集うサロンの様相を呈していたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、戦後その敷地の半分は「漱石公園」、残る半分は区営住宅(元は都営住宅)となっていた。2011年(平成23年)、この区営住宅の立て替え・移転を機に、区では「漱石公園」の敷地と合わせてかつての「漱石山房」を再現。(wikipedia)
漱石山房記念館 web site
森田草平展をやっていた。漱石の弟子として有名なのは、小宮豊隆、森田草平。
Q: 森田草平と小宮豊隆は、宿命的ライバル関係にあり、・・・・実際はどうだったのですか。)
A: その後の人生にしても東北大学の教授になり漱石の遺品を空襲から護り抜いた豊隆と法政大学騒動で野上・内田と言う漱石門下の友人達を大学から追放しようとした草平とは対象的です。 (ソース :Yahoo)
▼ 些細な指摘
史実として、漱石の弟子であった小宮豊隆が仙台の東北帝国大学の図書館長であり、昭和18年(1943年)に同図書館が、この地のこの漱石山房にあった漱石の蔵書と資料を購入した[1]。展示には、譲渡とある。この購入に小宮豊隆の決断があった。ただし、この蔵書売買については、漱石縁者との摩擦があったとされる。
[1] 東北大学附属図書館「湫石文庫」について 木戸浦豊 (リンク)
漱石山房は戦災にあった。1945年5月25日。もし、この地にそのまま蔵書があれば灰燼に帰したに違いない。そして、漱石山房の展示の説明には、「これにより漱石の蔵書は戦災を免れ、今日に伝えられることになったのです」とある。しかし、これは結果である。漱石の蔵書があったはずの仙台の東北大学(片平)の周辺の戦災状況は下記のごとし;
赤い部分が戦災被害地域 愚記事より
黄色の矢印の地区に漱石の蔵書を購入した図書館があったはず。つまり、「偶然」焼け残ったのだ。
かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った
漱石の終焉の地、家屋は亡びたが、蔵書が残ったいきさつである。
■ ⇒ 3;肥後細川庭園
神田川
本園は無料です。庭園は河岸段丘の段丘崖を含む区域で、段丘崖を登ったところに永青文庫があり、入館料、1000円。
文京区立肥後細川庭園 [web site]
肥後細川庭園(ひごほそかわていえん)は、東京都文京区目白台にある文京区立の公園。改修工事に伴い新名称を公募し、2017年3月18日、「新江戸川公園」から改称された。
当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷のひとつとなり、明治時代には細川家の本邸となった。1960年に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園。1975年、文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。 (wiki)
■ ⇒ 4;護国寺
目白台地を上がる。
和敬塾。 google [村上春樹 和敬塾]
目白台三丁目
目白台地を下る。
■ 4;護国寺
■ 4;護国寺 ⇒ 5;雑司ヶ谷・マッケーレブ宣教師邸
■ 5;雑司ヶ谷・宣教師邸 ⇒ 6;鬼子母神
■ 6;鬼子母神 ⇒ 7;池袋駅
この古本屋が、好きです。
池袋東口の、宮城県のアンテナショップへ行く。