いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

林芙美子 些細(トリビア)

2015年11月01日 20時11分19秒 | その他

1. 女学校卒業証書破り捨て伝説

 

林芙美子に関するエピソードで、「女学校卒業証書破り捨て」というものがある。2003年に開催された『生誕100年記念 林芙美子展』の図録の"芙美子ショート・ショート"として数々のエピソードが紹介されてる。その中にも、この「女学校卒業証書破り捨て」が記されている。

これは伝説であると、平林たい子は云っている;

 彼女の生年月日はいろいろだが、私は若い時、四年制女学校の卒業証書をあずかっていたことがある。それには私より二歳上としるしてあった。尚私は現に証書を手にしているのだから、卒業直後に燃やしたという伝説は事実ではない。 平林たい子、『林芙美子』

2.小林秀雄の と ぼ け

小林秀雄がとぼけている。雑誌「文藝」の臨時増刊で『林芙美子読本』が昭和32年・1957年に出た。芙美子の死後、6年目。その中で<座談会>お芙美さんのこと、というのがあり、川端康成、芹澤光治良、井上友一郎、壺井榮、小林秀雄が出席。その中でこうある;

編集部  小林さんは講演旅行にご一緒にいかれたことはないですか。

小林  一緒になったことはないね。何かありそうな気がするんだけれども、ないね。

林芙美子の年譜にある;

昭和十五年 十一月 小林秀雄らと朝鮮へ講演旅行  (現代の文学=17 林芙美子集 河出書房新社)

なぜ、とぼける? 小林秀雄。

3.久米正雄との関係

小谷野敦博士が、web site: http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110702 にこう書いている

 桐野夏生の『ナニカアル』を数日前に読んだ。これは久米正雄が出てくるので、読売文学賞をとったころに購入して、久米関係のところだけ見た。

 戦時中の林芙美子の、インドネシアでの恋愛を中心としたものだが、昭和12年の漢口一番乗りで、芙美子が久米を出し抜いたと言われていて、久米がずっと林に怒っており、東京日日新聞学芸部長が久米だったので、大毎東日から林は締め出されて朝日に書いていたとある。さらに、東京日 日記者の米田源助に林が話をしたら、久米が「米田に謝ったくらいで済むと思っているのか」と怒り、ねちねちと林に意地悪をした、とあるので、これは実話な のか創作なのか、桐野氏に訊こうと思って、ツイッターにいた桐野氏に承認申請していたのだが、ならぬままに終わってしまった。 (2011-07-02 『ナニカアル』を読んだ)

要は林芙美子と久米正雄との関係が険悪であったのか?ということだろう。この支那事変の時点での関係はわからないが、林芙美子と久米正雄との関係を示す資料はある。昭和24年に座談会が行われた。出席者は、久保田万太郎、廣津和郎、久米正雄、川端康成、舟橋聖一、今日出海、横山隆一、そして林芙美子。『文藝往来』という雑誌の創刊号らしい。その中で、林芙美子と久米正雄は和気あいあいと座談しているようにみえる。この出典は、国文学 解釈と鑑賞、「特集 林芙美子の世界」からの孫引き;

 今日出海が、また林芙美子の「最初の旦那さんというのは?」と質問して、田辺若男の名前を引き出し、久米正雄が「エーッ、田辺若男だって? これは驚いたね。(笑い)」 林芙美子の魅力 長谷川泉

とやっている。 桐野夏生が描くほど険悪であったならその後このようなことにはならなかったと推定できる。

なお、ペン部隊でひとり抜け駆けして朝日新聞と陸軍に話をつけて漢口進軍に参加したことに嫌悪感をもったのは菊池寛という報告もある(出典すぐ出てこない、最近読んだ何かに書いてあった)。

 



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