1995年に西部邁は云っている;
そのとき逆らったのは不肖私めくらいで、私はこう言いました。何を言うんだ、もしあそこで解放軍が何百名の人間を轢くなり撃つなりしなければ、あの反社会主義運動はたちどころに上海だろうが成都だろうが広東だろうが、どこにでも飛び火したでしょうと。中国十二億人の民のなかで反社会主義運動があのような形で起こってしまったら、文化大革命ですら数千万人、人民公社だって一千万死んだ国柄です、どう考えても、まだぞろ数千万人が死ぬことになる。いったい全体、日本人の言う人道的見地というのは、どういう見地なのか見せてもらいたい。死者五百人で悲鳴をあげて許せないと言うのだから、数千万人が死ぬとなったら、おまえたち人道主義はどうするつもりなのかと逆らったわけです。 (『ポップコン宣言 偽りの戦後史を書き換える 対談 西部邁・秋山祐徳』1995)
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愚記事より
なお、西部は樺美智子の死については、「樺美智子さんが逃げ惑う学生の下敷きとなって圧死した」と認識している(『ファシストたらんとした者』、西部邁、2017)。
当時、西部邁が所属していたブントは国会突入を目指していた。ただし、突入して何をするのかというのは示されなかったと、当時ブントとともに国会突入をしたと自称する田中英道が云っている。西部邁はブントの扇動家だったので、国会突入もアジっていたのだろう。事実、田中英道は西部邁が「(国会に)突っ込むことが重要である」とアジっていたと証言している(ソース:YouTube 田中英道「西部邁氏の死と近代保守の死」 の14分あたり)
そして、国会突入に失敗した学生が、逃げ出した最中に、樺美智子は仲間の学生に踏みにじられて死んだと西部は認識している。つまり、警察に「虐殺」されたわけではないと。