再掲:近郊の藻岩山から見下ろした札幌@B-29の戦災(そして大きな地震)を免れた街は、毎年5mの積雪の洗礼を受ける百万都市としては地球上唯一の街である。
掘り出したものは殆ど全部が無事で、消しゴムなどは、その後五年位はまだ使へ、机上にころがってゐるのを見て、私はにやりとほくそ笑んだ、B 二十九と一人で戦つて勝つたような氣になり、密かに溜飲を下げたものである。 福田恒存、『福田恒存全集 第一巻』 覚書一
どうでもいい話です。 上述のどおり、福田恒存さん [愚記事関連記事群] はひとりでB-29と戦って、しかも、勝ったとのこと。 東京の話だ。 一方、おいらの故郷には、そもそも、B-29が来なかったのでした。
猫のうんこを包んで捨てるために、北海道弁でいうなら猫のうんこをなげるために、古新聞を使っている。その古新聞でみた。2013年12月14日、毎日新聞、オピニオン、保坂正康の昭和史のかたち、 良質な戦後史の危機;
そこで、保坂正康は言っている;
大日本帝国は広島、長崎に原爆を投下され、国土は荒廃の極みに達し、非戦闘員が100万人近くも亡くなるという状況で敗戦を受け入れた。
とある。
この保坂の文章にはないが、敗戦時に「日本は焼け野原となった(google)」という記述・紋切りがしばしば用いられる。保坂の文章では 国土は荒廃の極みに達し、 となっている。
われらが日本が「日本は焼け野原となった」いきさつのまとめをコピペするとこうだ;
アメリカは一九四五年三月に日本の各都市を焼夷弾爆撃することによって一般市民に損害を与えることを決定した。この殺戮的な空爆は戦争が終わるまで五か月続き、上から数えて六十四番目までの規模の大きさの都市の四十%を破壊し、七十八万五千人の市民を殺害し、八百五十万人の人々を自宅から避難させることになった。 ミアシャイマー [奥山真司 訳]、『大国政治の悲劇』
別に、目くじらをたてることでもないが、保坂正康がいうように日本の国土は荒廃の極みに達したという状態には必ずしもなっていない。極みに達したということはそれ以上荒廃する余地がないということだ。 もし、敗戦が長引けば、それ以上の荒廃する余地はあった。 例えば、札幌。
何より、保坂正康自身が彼の中学・高校時代に、近隣の「白石村」[1] から通った街だ。
保坂が戦後まもない1951年から1957年通った札幌は荒廃を免れたので、保坂は広島や東京や大阪など本当に戦災に遭った都市の同世代と比較して、相対的に「恵まれた」状況で勉強できたに違いないのだ。
何でこんなことを書くかというと、「歴史」が劇的な出来事史になっていることに対するささやかなつっこみである。戦災で壊滅した街もあれば、そうではない街も日本にはあったと書き留めたいだけだ。
少なくとも、日本の国土は荒廃の極みに達したという状態には必ずしもなっていない。
だから、どうした?ということもない。もちろん、日本の国土は荒廃の極みに達したという状態には必ずしもなっていないから「戦争に負けてはいない」と言いたいわけではない。そして今日のこの愚記事では、日本の国土は荒廃の極みに達したという状態には必ずしもなっていないから、もっと戦えばよかったことを喧伝したいわけでもない。
ただ、その「札幌」出身の歴史家/ノンフィクション作家[2]の保坂正康が、札幌は戦災を免れたことを無視しているようなので、この記事を書いてみた。
私事で恐縮だが、おいらの本籍・親の実家は時計台から1kmも離れていない(っていうか全然もっと近い)。敗戦時、おいらのとうちゃん7歳、かぁちゃん5歳。保坂正康 [敗戦時6歳] と同世代だ。札幌の一族(父方)で戦争や戦災で死んだ人は一人もいない。おいらのとうちゃん7歳(当時)の方のじいちゃんは戦争に召集されずに済んだ。年が40歳を過ぎていたからであろう。
おいらが、B-29が来なかった街に生まれたのは、敗戦後20年あまり経ってからだ。
■ B-29の戦災(そして大きな地震)を免れた街の昭和20年の画像を見つけた。そして、空襲で焼けなかった街を構成していた木造家屋は今となってはほとんど何も残っていないのだなぁという確認である。
終戦時の札幌: 北海道新聞社、『さっぽろ文庫 14、昭和20年の記録』より勝手に転載
戦前はこのような木造の家屋が札幌の中心部でも大半を占めていたのだ
下記画像は2006年頃に札幌で撮ったもの。おそらく戦前から残っている建物。
愚記事;札幌のトリビア 旧アメリカ屋
こういう木造家屋は戦後の経済成長で建て替えが進んで、ほとんどが姿を消したのだ。
もちろん、時計台や豊平館やこういう↓建物は残っている:
愚記事: 永山武四郎邸(明治10年代建築)
▼ 例えば、仙台と比べた札幌
仙台で今大きな通りは、青葉通り、広瀬通、定禅寺通りなどである。ああいう大きな通りはいつできたか?それは戦中・戦後なのである。伊達藩政時代にはなかった。仙台は大規模な空襲に遭った (そして、政宗公はB29によって 荼毘に付された のである) 。それで街が再建された。その時、青葉通り、広瀬通、定禅寺通りなどができた。厳密にいうと、空襲前にこれら大きな通りはできていたかもしれない(調べればわかる話だが;今は推測)<関連愚記事; シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日>。すなわち、戦時中に仙台に限らず江戸時代から続いた街は空襲に備えて、延焼を防ぐために道路拡張を行っていた。主要な通りに面している街が立ち退かされ道となったのだ。京都も実はそうらしい。
一方、札幌は明治に街をつくった頃から道を太くしていた。理由は大火を防ぐため、延焼防止に道を大きくしたのだ。大通り公園は官庁街と南の庶民街の間の「防炎堤」なのだ。なので、戦時中も札幌は空襲による延焼を防ぐための道路拡張が不要であったと、おいらは、推定する。だから、札幌(中心街)は明治初期と道路と面する街は変わらない。その点、仙台と違う。札幌は意外と「古い」街なのである。
ここで、なぜ明治・札幌が大火や延焼を防ぐ策を採っていたかというと、道産子には野暮な解説、内地人には説明した方がいい理由は、札幌は寒いので各戸で石炭を燃やして暖をとるのだ。だから、火災リスクは極めて高くなる。
ちなみに、モスクワなどロシアの大都市、あるいは、おいらが居住経験があるマイナス40℃にもなるカナダの大都市は、集中暖房=蒸気を各戸に給付するので、火災リスクは低い。最近の札幌もこうらしい。よくいわれることだが、札幌の冬の生活は、普通にアイスクリームを食べている。おいらは、はたち前=内地に行く前、セーターというものを着たことがなかった。
● B29が来たとき
札幌の最寄空港は千歳空港である。千歳空港は「札幌」扱いである。札幌から小一時間かかる。元々海軍航空隊の基地・飛行場である。B29の日本版である「連山」という大型機が離発着できる長い滑走路があった。通称、連山滑走路というらしい。さて、昭和20年に札幌に進駐軍が来たのが、10月4日である(米第八軍団七十七師団・ライダー少々・ブルース少将)。今から見れば、降伏調印から丸ひと月たっているので、ノンビリしているように見えるのだが。
その10月の札幌進駐の前に千歳に米軍は来ている。たしかな情報は、
ところで、北海道にいちばん最初にやってきた米軍は、捕虜をうけとりにきた第五空軍の一部である。千歳飛行場に降りて、道庁警察部外事課などの案内で米軍捕虜をうけとって一週間でかえった。 (奥田二郎、 『北海道戦後秘史』)
一方、こういう情報もある;
この第二滑走路は通称・連山滑走路と呼ばれ米本土爆撃を 期待された四発重爆撃機”連山”用の二千五百m×八十mの 大滑走路です。実際には連山が使われる事無く…このコンク リ滑走路は皮肉にも敗戦2日後にB-29が完成直後のこの滑 走路に初着陸をしたと謂います。(~ 旧 千歳海軍航空隊の遺構 ~)
北海道に最初に来て捕虜を救出した米軍が、敗戦2日後にB-29で来た部隊なのかは不明。ただ、「敗戦2日後」というはないだろう。ミズーリ号での降伏文書調印の2日後ならありえるかもしれない。
● [1] 昭和20年の札幌
札幌市の人口は22万3千人。 規模も今の中央区+αくらいだ
[2] 旧知の西部邁は、保坂正康を「ノンフィクション作家」と呼称している。西部邁、『サンチョ・キホーテの旅』