いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第452週

2023年07月15日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第452週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の「お芙美さんに何があったのか?」

ブログの訪問履歴から世間がわかることがある。特に、訃報など。今週は林芙美子関連記事にアクセスがあった。何かあったのだろうと思い、ググると、おそらく、これだろう;

林芙美子“放浪記” (2)お人好しの嫌われ者 

▶ 愚ブログにおける林芙美子関連記事群

■ 今週読んだ物語:『海辺のカフカ』、村上春樹、2002年

父殺しの物語。作品そのものは別として、作者の村上春樹が父殺しを想起したことについて書く。この作品は2002年に公表された。今から、21年前。時代は、9.11テロから1年目の頃。今からみれば、イラク戦争に向かっている頃だ。愚ブログは始まっていない。つまり、相当「昔」だ。一方、村上春樹は2020年に『猫を棄てる』を出版。父についての思い出を語っている。

 この2020年の『猫を棄てる』を読んだあとでは、20数年前の『海辺のカフカ』の意味合いも違って見えるだろう。

 村上春樹はフィッツジェラルドの翻訳を出版した時、フィッツジェラルドの人生を丁寧にたどった上で作品紹介を行い、人生と作品の関係を説明している。決して、人生抜きでテキストそのものだけが重要だなどとは云っていない。

 村上春樹の人生で、最重要なのは、彼が小学生の頃父が息子に自分のチャイナ出征時代にチャイナ兵(以下、支那兵)の処刑に「立ち会い」、支那兵が殺され、死んでいく様子を聞かされた。それが、村上春樹の心障(トラウマ)になっていると告白している(『猫を棄てる』)。この心障(トラウマ)が原因で村上春樹は中華料理を食べられないと伝えられている。さらには、デビュー作以来、チャイナへの、独特の、こだわりが表現に組み込まれている。村上春樹は父親と確執があり、父親の死に際まで没交渉であった。その原因は必ずしも上記の心障(トラウマ)であるとは明言されておらず、別の原因(父が村上春樹に「エリート」街道を進むことを望み、息子が拒否した)が述べられている。しかし、この支那兵の死はのちまで村上春樹の心を占めていたことは、イアン・ブルマーにより伝えられている。そもそも、村上春樹は自分の父親について絶対人にしゃべらなかった(妻の証言)。理由は、上記のように、自分の父親が日帝侵略兵士であり、虐殺に携わっていたからだ。そして、息子は父のチャイナでの所業について詳しくは知らないらしい。知ろうとしなかったのだ。

父親に中国のことをもっと聞かないのか、と私は尋ねた。「聞きたくなかった」と彼は言った。「父にとっても 心の傷であるに違いない。 だから僕にとっても 心の傷なのだ。 父とはうまくいっていない。子供を作らないのはそのせいかもしれない。」
 私は黙っていた。彼はなおも続けた。「僕の血の中には彼の経験が入り込んでいると思う。そういう遺伝があり得ると僕は信じている」。村上は父親のことを語るつもりはなかったのだろう。 口にしまってしまって心配になったらしい。 翌日電話をかけてきて、あのことは書きたてないでくれと言った。 私は、あなたにとって大事なことだろう、と言った。彼は、その通りだが、微妙な問題だから、と答えた。

(イアン・ブルマの『日本探訪 村上春樹からヒロシマまで』における春樹への直接インタビューを元にした文章(1996年))

こういう作家としての個人的背景があって、父殺しの『海辺のカフカ』がある。もちろん、現実の村上春樹が父殺しを願望しているということではなく、父殺しを想起しているということ。その想起には現実の父親、および父子関係を前提としている。その想起を作品にしたかったと考えることは自然だと思う。つまり、『海辺のカフカ』の前提、背景を考える一視点となる。

『海辺のカフカ』の中で、父親の所業の解釈が見える。アイヒマン。あの「凡庸な悪」のアイヒマンだ。第15章。大島さんの山荘の本棚から選んだ本が、アドルフ・アイヒマン [wiki]の裁判について書かれた本。

アイヒマンはヨーロッパ全土の150万人を超えるユダヤ人を占領下ポーランドおよび占領下ソ連の絶滅収容所やその他の殺害現場に移送する中心的人物でした。(ソース)

その本には大島さんの書き込みがあった。「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力から始まる。

移送その他の「ユダヤ人問題」を担当する部門の長官であったアイヒマンと村上春樹の父親、徴兵された兵士を比べるのは極端かもしれない。でも、『海辺のカフカ』では、このあと、この山荘の奥の「森」という物語の設定上、「異界」ともいうべき空間で、逃亡したに違いない日本兵と主人公は会う。その日本兵ふたりのひとりは大学に通っていた若者だ。もちろん、これは村上春樹の父親が(大学に入る前の)学生時代に徴兵されたことに対応するに違いない。つまりは、一兵卒の兵士たちが、「想像力」を働かせてか、逃亡する物語を村上春樹は「想像」している。

▼ 川口大三郎事件

村上春樹、『海辺のカフカ』、2002年には、モデルとして、「川口大三郎事件」が採用されているとされている。川口大三郎事件とは、「1972年(昭和47年)11月8日に東京都の早稲田大学構内で発生した革マル派による早稲田大学第一文学部の男子学生へのリンチ殺人死体遺棄事件」[wiki] のこと。村上春樹は1968年に早稲田大学・文学部に入学、1975年に卒業している。したがって、この事件の時、村上は在学している。入学後からの数年についてこう云っている:

そして六八年から七〇年にかけての、あのごたごたとして三年間がやってきた。十九歳から二十一歳までのあの時代は、僕にとって混乱と思い違いとわくわくするようなトラブルに充ちた三年間だった。神戸近郊の小さな街から東京にやってきて僕は早稲田の文学部に通い、何度か恋をし、そして結婚した。二十一の時だ。(『マイ・ロスト・シティー』、スコット・フィッツジェラルド、村上春樹 訳、1984年、「フィッツジェラルド体験(村上春樹)」)

いわゆる「紛争」からは1970年に離れたらしい。その原因は次の文章からうかがわれる。つまり、反差別論とその実践が状況を変えたのだという;

 しかし、それ以上に重要なのは、 津村(喬)の反差別論が全共闘運動に与えた「影響」であろう。 反差別論は、つまるところ 厳格な (古典 左翼的)倫理主義と結びつく。七〇年を境として反差別が新左翼の課題となっていったとき、全共闘のアナーキーな高揚を担ったノンセクト・ラディカルが、 津村的反差別論を嫌って運動から離れていったのもゆえなしとしない。彼らはある意味では、津村から「人民」に依拠しない プチブル 急進主義であると言われて 排除されていったのだが、しかし、 文革を始めとする 「人民」 闘争の欺瞞が暴露されつつあるとき、 全共闘 の 「人民」 闘争への改変は果たして 正しかったのかどうかー 改めて問われる必要がある。
「文春」VS「朝日」論争はどちらに軍配があがるのか?、呉智英、絓秀実、における註[➊津村喬の問題]『保守反動思想家に学ぶ本』、1985年. この註➊は、津村喬の問題だ。(笑)へのものである。

 愚記事より

この原因推定は、村上春樹、『海辺のカフカ』の次のくだりと整合的である。この場面は、フェミニスト団体の2人の女性(背が高い女性と背が低い女性)が私立図書館の調査を勝手に行い、フェミニズム適合度審査の結果と指摘点を、管理人の大島さんに伝える;

「つまり、あなたは典型的な差別 主体としての男性的 男性だということです」と背の高い型ほうが苛立ちを隠しきれない声で言う。
「男性的 男性」と大島さんはまた繰り返す。
 背の低いほうがそれを無視してつづける。「社会的既成事実と、それを維持するためつくられた 安直な男性的論理を盾に、あなたは女性というジェンダー 全体を二級市民化し、女性 が当然 受けとるべき権利を制限し剥奪しています。意図的に というよりはむしろ非自覚的にですが 、そのぶん かえって 罪が深いとも言えます。あなたがたは他者の痛みに鈍感になることによって、男性としての既得権益を確保しているのです。そしてそのような無自覚性が、女性に対して社会に対して、どれほど悪を及ぼしているのかを見ようとはしません。 洗面所の問題や閲覧 カードの問題はもちろん 細部に過ぎません。しかし 細部のないところに 全体はありません。まず 細部から始めなくては、この社会を覆っている 無自覚性の衣を剥ぎとることはできません。 それが私たちの行動原則です 」
「それはまた、すべての心ある女性の感じていることです」と背の高いほうが無表情につけ加える。

「差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというものは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。ただね、僕がそれよりもさらにうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めてふさいでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。」

そして、話は、続く。主人公の田村カフカが母親と目される佐伯さんの20年前の恋人がある党派から(人間違いで)殺された事件(つまり、川口大三郎事件のような事件)について、大島さん(佐伯さんお部下:図書館管理人)が見解を述べる:

でもね 、田村カフカくん、これだけは覚えておいたほうがいい。 結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。 想像力を欠いた狭量さ。空疎な用語、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、 簒奪された理想、 硬直したシステム。 僕にとってほんとうに怖いものはそういうものだ。 僕はそういうものを 心から恐れ憎む。 なにが正しいか正しくないかー もちろん それも とても重要だ。 しかしそのような 個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合 取り返しはつく。しかし 想像力を書いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。 宿主を変え 、かたちを変えてどこまでもつづく。 そこには救いはない。 僕としては、その手のものにここには入ってきてもらいたくない 」

■ 今週の購書

江藤淳の対談集、『文学の現在』。1989年。買った理由は、江藤淳の村上春樹への見解が述べられているから。江藤には村上春樹論はない。そもそも、読まないといっている。もっとも、礼儀正しく、丁寧に、「拝見いたしません」と述べている。村上龍は、そのデビュー作、『限りなく透明に近いブルー』をサブカルチャーとして「全否定」したことは有名である。1976年。一方、村上春樹に関しては、読みもしないというのである。

▼ ジェイ・ルービン(wiki)は、日本文学研究者で村上春樹の翻訳者としても有名。そのジェイ・ルービンと江藤淳が一緒に写った画像がある。

左から、ジェイ・ルービン(wiki)、江藤淳、マサオ・ミヨシ (wiki)


マサオ・ミヨシ、吉本光宏、『抵抗の場へ』より 

■ 今週、借りた本

右側2冊は竹田青嗣、加藤典洋、そして笠井潔など村上春樹と同世代、団塊の世代で、かつ、村上春樹のデビュー作、初期作品を評価した人たち。つまりは、活動家「崩れ」で、1970年代の沈黙を、村上春樹同様、強いられた人たち。1979年の村上春樹のデビュー作品を、活動家「崩れ」のその後の人生と理解していた人たち。『村上春樹をめぐる冒険』、『村上春樹のタイプカプセル』。前者は1991年に刊行された。後者は前者を踏まえて1992年に行われた合宿座談会の本で、刊行は2022年。だから、タイプカプセル。

一方、大塚英志のもの3冊。村上春樹の作品の物語構造についての論。端的に云って、村上春樹の作品はパターン化された構造に還元されるもので、その構造に自分語りを注入している「内容がない」ものという見解(らしい)。『村上春樹論ーサブカルチャーと論理』、『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』。あと、1冊は、江藤淳論。『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』。なお、大塚英志のこれらの本は中古価格が高い。貴重らしい。



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