いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

鳥取池田家の絶家;marquiseの決断、あるいは、絶倫殿様の曾孫の絶家

2015年12月09日 20時19分21秒 | 日本事情


     鳥取池田家の遺産; 仁風閣

 少し前のニュースで、鳥取池田家の絶家というのがあった。

鳥取池田家の当主、池田百合子さん(82)が自らの没後、家名を絶やす「絶家」を表明した。

Google; 鳥取池田家絶家


  ソース

鳥取池田家は、世が世ならば、侯爵家なので、当主、池田百合子さんは、marquiseということだ。

marquiseを侯爵夫人という訳すことも少なくなった。今では、ちゃんと、女侯爵(=おんな こうしゃく)の訳語が普及している。女侯爵とは、侯爵夫人とは違う。侯爵夫人は結婚して得る称号。女侯爵は侯爵の娘が当主になり得る称号。

当主、池田百合子さんは、marquise=女侯爵さまである。父親が(完全な英語を話)池田徳真[1](のりざね)wiki。旧鳥取藩主池田家第17代当主。 もっとも、日本の華族制度には、そもそも、女公爵、女侯爵、女伯爵、女子爵そして、女男爵(=おんな だんしゃく)!はなかったのあるが、おいらが勝手にmarquiseさまと呼んでいるのだ。

[1] 戦時中は対英米向け放送に従事。彼と面談した英国兵捕虜の話がある⇒愚記事

5.池田徳眞(のりざね)との面接

我々は一人ずつ事務所に呼び出された。二人のジャップが我々を聴取するという。
 やっと私の番がきた。事務所内に案内され、座るようにと言われた。質問者は二人の若いジャップだった。洋服姿のきちんとした身なりで、そのうちの一人は完全な英語を話した。

別に、鳥取池田家が絶家になったからといって、仁風閣は無くならないのだけど、近くに行ったので参拝。

館内は、いくつかの注意書きに従えば、写真撮影もできる。その注意書きは入場料(150円)を払うとき、受付の人が説明してくれる。その中にコスプレ禁止(コスプレをしての写真撮影禁止の意味かとおもう)というがあった。

この白亜館でゴスロリ撮影会とかやったら愉快だろう。

さて、鳥取池田家。事実上の祖は、池田恒興。織田信長の乳兄弟。すなわち、池田恒興の実母が織田信長の乳母であった。池田恒興と織田信長は、同じ乳房を吸って育ったということだ。池田家も戦国時代における全大名と同じく、織田→豊臣→徳川の時代の激しい移り変わりをしのぐ試練を受ける。そんな戦国時代、関ヶ原の戦いのずうっと前に、いきなり、池田恒興は小牧・長久手の戦いで討ち死にし、クビを取られている。豊臣側について、徳川方と戦ったのだ。小牧・長久手で徳川は秀吉に負けなかったので、その後、膠着状況となり、存続する。表面上豊臣と徳川は和解する。その後のことは周知の通り。

池田恒興は死んだが、息子、池田輝政は、父の死後、上記の表面上の豊臣と徳川との和解の状況で、家康の娘と結婚する。秀吉の死後は、石田三成を嫌う武将グループの一員となり、あの石田三成襲撃事件に福島正則・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政らとともに参加。このとき、石田三成が徳川家康のところに逃げ込んだのは有名な話。

関ヶ原の戦いでは、家康方についた。しかし、同じ東軍でありながら元来秀吉子飼であった福島正則とは先陣争いでいさかいを起こしている。

結果的には、今からみると、福島正則・加藤清正など秀吉子飼の大名は、関ヶ原の戦いで徳川側であったのに、江戸時代ごく初期に相ついで幕府によりお家取り潰し(御家断絶処分)となっている。秀吉以降に発した大名家は、新参大名、成り上がり大名とみなされつぶされたのであろう。それとは対照的に、織田信長の家臣であった「名家」の池田家は、岡山と鳥取を支配する大大名となった。岡山池田家は、あの池田動物園の池田さんで、昭和天皇の皇女・厚子さま(wiki [池田厚子])の嫁ぎ先であることはいうまでもない。

 とはいっても、今回絶家宣言した鳥取池田家は、池田恒興や池田輝政と血縁関係はない(よっぽど隠れた母系の系譜がないかぎり)。これは、岡山池田家も同じである。理由は簡単だ。鳥取池田家も岡山池田家も江戸時代以降、何度も養子を取っているからだ。

例えば、鳥取池田家の十二代藩主慶徳は水戸中納言徳川斉昭の五男だ。徳川斉昭には、男女あわせて37人の子供がいた(wiki[徳川斉昭])。そして、岡山藩池田家宗家11代・池田茂政は、徳川斉昭の九男(wiki [池田茂政])。

つまり、絶倫だった徳川斉昭の曾孫のはずである現当主・女侯爵・池田百合子さん(82)は、子だくさんに恵まれず、絶家するのだ。

 仁風閣(じんぷうかく)は、鳥取県鳥取市にあるフレンチルネッサンス様式の西洋館。中国地方屈指の明治建築として名高く、1973年6月2日には国の重要文化財に指定されている。  1907年、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に建てられた、旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸である。「仁風閣」の館名は、この行啓に随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命したもの。他の文化人等(作家や歌人など)の所蔵資料が、展示されていることもある。  館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが展示さていることもある。

館内には鳥取藩と池田家に関する資料などが展示されている。2階のガラス張りのバルコニーからは池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園を一望できる。正面右の尖塔は館内にある螺旋階段用角尖塔である。 (wiki [仁風閣])

 



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