いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

パリ、一九四一年一二月七日; 「もっと大量の人が同時に冥界へ向かう年になるのだろう」

2015年12月06日 15時35分00秒 | その他

 われらが大日本帝国海軍が真珠湾を襲っている頃、あるいは、それより一足早くわれらが大日本帝国陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸作戦を行っていた頃、パリではエルンスト・ユンガー [wiki] とルイ=フェルディナン・セリーヌ [wiki] が会っていた。 


Our great achivements !

       Ernst Jünger           Louis-Ferdinand Céline

 セリーヌはユンガーの前で二時間「演説」した。セリーヌは、『夜の果てへの旅』で有名だが、反ユダヤ主義的思想のため、現在でも作品の一部はフランスで出版禁止となっている。パリがドイツ占領下にあった1941年、ドイツ人のユンガーとフランス人のセリーヌが会ったのだ。なお、ふたりとも第一次世界大戦に志願して、戦場に赴き、そして、負傷している。

 エルンスト・ユンガーの『パリ日記』に書いてある;

 パリ、一九四一年一二月七日

 午後、ドイツ研究所。そこでとくに目立ったのは、メルリーヌ (セリーヌのこと、後註参照) で、背が高く、ごつごつ骨張って、強そうで、少しばかり不格好なのだが、活発に議論に加わっていた。いや、むしろ独白していたと言った方がよかった。 狂者の思い詰めたような、洞窟の中から輝き出るような眼差しで語り、右も左も見ず、未知の目標に向かってゆっくり一途に歩んで行くといった印象を与える。「私はつねに死を私の横にもっている」と言って、彼は座っているソファーとそこにいる小犬を見遣ったものである。

 彼はわれわれ兵士がユダヤ人を射殺しないこと、絞首刑にもしないことに奇異の念を抱き、驚いているという。銃剣を自由に使える者がそれを無制限に使わないのは驚きだとして、「ボルシェヴィキがパリにいたら、彼らは宿舎の一つ一つ、家の一軒一軒徹底的に捜査する仕方をあなた方に見せつけるだろう。私が銃剣をもっていたとすれば、私は何をすべきか分かっている」と言う。

 彼がこんな風に二時間も息巻くのを聞いたが、これは私には教訓的であった。ニヒリズムの途方もない強さが輝き出ていたからである。こうした人間はただ一つのメロディーしか聞く耳をもたない。しかしそのメロディーは異常なまでに迫力のあるものである。彼らは鋼鉄の機会であって、解体されないかぎり自らの道を辿る。

 こうした人物が学問について、たとえば植物学について語るときは奇妙な様相を示す。彼らは石器時代の人間のように学問を用い、彼らにはそれが他者を殺す純粋な手段になる。

 彼らが幸福なのは、一つの理念をもっているという点にあるのではない。理念ならさまざまに多くを彼らはもっている―彼らの憧憬が彼らを稜堡に駆り立てていて、そこから多数の群衆に向けて砲火が開かれ、恐怖が広められる。これに成功すると、彼らは精神的な仕事を中断する。どのようなテーゼでもってここまでよじ登って来たのかはどうでもいいのである。彼らは殺人の楽しみに耽るのだが、この大量殺害への衝動は最初から漠然と縺れた形ながら彼らを駆り立てて来たものである。 

 こうした連中は、信仰がまだ試されていた時代にすでにいたことが知られていた。今、彼らがさまざまな理念の頭巾をかぶってしゃしゃり出て来ている。こうした理念はまったく気ままに選ばれたもので、そのことは目的が達成されると、そうした理念がボロ切れのように捨て去られることから見て取れる。

 今日、日本の宣戦布告の知らせがあった。おそらく一九四二年という年は、これまでよりももっと大量の人が同時に冥界へ向かう年になるのだろう。

*メルリーヌ:ルイ・フェルディナン・セリーヌ(一八九四-一九六一)、フランスの医師、作家のこと。小説『世の果てへの旅』など。ナチ顔向けの激しい反ユダヤ主義者。対独協力で有罪判決を受ける。死後、作品が再評価され、文学史上、見落とすことのできない作家とされる。

エルンスト・ユンガー、『パリ日記』 (山本尤 訳) [Amazon]

なお、二日後にユンガーはこう日記に書いている;

パリ、一九四一年一二月九日

 日本はきっぱりした決意をもって攻撃に打って出ている。おそらく日本にとっては時間がこの上なく貴重なものだがらであろう。私は同盟関係を取り違えていて、驚いた。日本がわれわれに宣戦を布告したのだとの思い違いにときに取り付かれる。事態は袋の中の蛇のようにこんがらがっている。

このユンガーの言いたい事がよくわからない。1941年12月の時点で、日本がナチス・ドイツに宣戦布告する可能性があったということか?

さて、日本が米英など(=米英蘭支)に宣戦布告して、世界が驚いた直後、世界がさらに驚いたのはドイツ、ヒトラーが直ちに米国の宣戦布告したことである。当時の日独伊三国同盟の条約に則っても、ドイツが同盟国・日本の対米宣戦布告に同調する責務はなかったのだ。責務がない証拠は、1939年にドイツのポーランド侵攻に対し英仏が対独宣戦布告をした時、別に日本は英仏に宣戦布告しなかった。それにしても、ヒトラーの対米戦争は異常であり、かつ、不思議だ。1941年12月の時点で、ドイツのソ連征服は容易には完了しないことはわかり始めていた。それなのに、ヒトラーは米国の宣戦布告した。

なぜ、対ソ戦がうまくいかないとわかったヒトラーが、対米戦争を始めたのかの解釈として、セバスチャン・ハフナーという人が『ヒトラーとは何か』で説明を行った例がああると、永井陽之助が「戦争と革命」(『現代と戦略』)で紹介している。 セバスチャン・ハフナーの説明とは;

ヒトラー戦争の目的は2つあった。第1がソ連・ボルシェヴィキの打倒(対外戦争)、そして第2が支配地域でのユダヤ人撲滅。ドイツのソ連征服は容易には完了しない、むしろ失敗すると読んだヒトラーが第一の目的が実現不可能・失敗したことを確実にするため対米戦争を開始した。第1のい目的の放棄と第二の目的への集中を明らかにするために、対米戦争を開始したというのだ。

その仮説の妥当性はわからない。ヒトラーが対米宣戦布告をしないで、米軍をヨーロッパに引き入れない方が、ユダヤ人撲滅の策はより長時間実施できたかもしれない。

むしろ、ユダヤ人撲滅はしたいが、全ドイツをソ連・ボルシェヴィキが支配するのは許せず、ドイツ人の子孫を多く含む米国にドイツの支配をまかせたかったということか?

さて、冒頭のセリーヌの独白にもどって、第二次世界大戦の時代、ナチス・ドイツは「ヨーロッパ・キリスト教文明の正嫡」であり、キリスト教と難しい関係にあるユダヤ教撲滅・ユダヤ人撲滅を行った。「ヨーロッパ・キリスト教文明の正嫡」であるから、少なからずのフランス人もユダヤ人迫害に協力、傍観した。このフランス人一般によるユダヤ人迫害は、戦後長らく公然の秘密であった。全部、ナチスが悪いで済ませて来た。

何より、こういう「ヨーロッパ・キリスト教文明の正嫡」のユダヤ人迫害問題に注目せず、ソ連・ボルシェヴィキ問題だけで、ナチス・ドイツと同盟してしまったわれらが大日本帝国は、ま ぬ け ではないか。

 

 



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