いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第12週

2024年06月15日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第12週

■ 今週のよその猫

今週は4匹もよその猫の撮影に成功。

■ 今週の筑豊境

■ 今週の漉したもの


トースト用こしあん

倉沢製あん所(google

■ 今週の半額

■ 今週のヤマザキ

期限を相当切れても、変わらない....。

■ 今週の丼

親子丼。北九州の親子丼は甘い。味が濃い。

■ 今週のお豆腐


揚げ出し豆腐

■ 今週の旧キャンプ・クロフォード;真駒内駐屯地開庁70周年 [google]


https://x.com/11b_na_jgsdf/status/1799684952851968361

自衛隊の駐屯地の「開闢」を開庁というのだ。開庁とは官庁が執務を開始することとある。

なぜ、1954年6月9日が真駒内駐屯地の開庁の日なのかわからない。自衛隊が発足したのは、1954年7月1日(wiki)。自衛隊発足の約ひと月前だ。なお、この時(1954年)この官庁の公文書での名称は「真駒内駐とん地」であったはずだ。屯の字が常用漢字ではなかったのだ。

「真駒内駐とん地」は米軍基地キャンプ・クロフォードの名を変えただけの基地だ。施設は米軍のものをそのまま使った。もっとも、その費用は元来我々の負担だ(「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」)。

調べると、1954年7月1日にこの地にいた米軍(<やつら>)は1954年2月に去ったと記録されている。<やつら>の組織の歴史に書いてある;(ソース)米陸軍第1騎兵師団の歴史[1951-1957:http://www.first-team.us/tableaux/chapt_05/]。

1954年9月、日本軍は北海道防衛の全責任を引き受け、第1騎兵師団の旧本拠地は陸上自衛隊に引き渡された。 (同上ソース、「」はおいら。自衛隊は軍隊ではない。)

1954年に北海道島から米陸軍は去った。つまり、ソ連の脅威の最前線の防衛義務は自衛隊となったのだ。この時、朝鮮戦争は休戦となっていたが、再び、中ソ北鮮が攻め込んでくることを米軍は危惧していた。その時、もし北海道島にソ連が上陸してきたら、自衛隊が前面に出て、阻止しなくてはいけない状況となった。2024年の現在、実は米軍は沖縄から撤退し始めているらしいとの情報がある。本当に危険になったからだろう。1954年の北海道島もそういう状況だった。


1951年5月20日撮影。キャンプ・クロフォード⇒真駒内駐屯。現在までに残存、サイロ隊舎。

真駒内駐屯地が開庁したのは1954年6月9日なのだが、その軍事基地が建設、使用され始めたのは1946年だ。その後、1950年、朝鮮戦争が勃発し、外征しなくてはならなくなったマ元(マッカーサー元帥)は、軍事的空白になったこの列島の治安維持、防衛のため、警察予備隊を創らせた。自衛隊の前身だ。自分が制定させた憲法と不整合ではあるが、背に腹は替えられなくなり、命令を発した。

なお、ここ札幌、真駒内のキャンプ・クロフォードでは、米軍からは「ジャップ」よばわりされていた。


1951年    米兵と「ジャップ警官(警察予備隊員 or 保安隊員)」(these Jap policeme)

第三次世界大戦では、これらのジャップ警官は同盟した日本軍の中心となるに違いないとの憶測がある。
There has been speculation that in event of World War III these Jap policemen will be the nucleus of an Allied Japanese army(出典)札幌に駐屯していたオクラホマ州兵を取材した新聞記事より

■ 今週借りた本、あるいは、今週の「親の顔が見たい」;

  
子(左)、父(右、一身にして二世を経る)

『俺の女にしてやる』のセクハラ早大教授の父ちゃんは「参謀総長」

横浜市立図書館の蔵書の充実ぶりはすごかった。横浜では本はネットで検索して市立図書館にネットで申し込み、近所の公民館に送られてくる本を受け取っていた。つまり、直接図書館の開架棚から本を借りたことがなかった。一方、引っ越してきた北九州市では近くに区立図書館があるので、歩いていける。先日初めて行って開架棚を見て、あったので借りた。渡辺直己、『私学的、あまりに私学的な』。もちろん、横浜の市立図書館にもあるのだろうけど、横浜では上述の通り、ネットで申し込むので、いきおい、借りる本を選ぶ。優先する本も多いので、「間抜けな本」を借りる余裕はない。でも、今回は手に取って、そのまま借りて帰れるので、借りた。

借りた理由は、渡部直己のあの一件。世間に名を馳せたのが早大教授として院生に『俺の女にしてやる』と云い。告発され、職を追われたことだ。

 「事件」概要 ⇒【渡部直己】深沢レナの教授は誰で大学はどこ?現在の仕事も調査

この件を聞いたとき、おいらは、渡部直己は絓秀実と「盟友」らしいので、渡辺直己もそういう類の人なのかと思った。そういう類の人とは角田光代が絓秀実について報告している、酔ってDo you like sex?!と連呼する類の人ということ。おいらは、絓秀実の文章を、内容はよくわからないところが多いが、よく読む。文章は端正だと思う。文章と実人物に齟齬があるらしい。その文章も偉ぶったところ、居丈高なところがない。

この渡部直己のセクハラ、追放の件があった時、wikipediaで渡部直己を見た。初めて知った。父は第18代陸上幕僚長、第15代統合幕僚会議議長の渡部敬太郎[wiki]。どうやら、最後の陸士生徒らしい。

統合幕僚会議議長は陸海空を統合する職。大日本帝国の時代には参謀本部長と海軍軍令部長を束ねる職位がない。陸上幕僚長は大日本帝国の時代では陸軍参謀本部長/参謀総長。初代は山縣有朋、末代は梅津美治郎。つまり、渡部敬太郎は戦前にもない「行政武装組織」(自衛隊)[#1]の最高職位だったのだ。

#1 ここ書き方が冗長だ。背景は戦後日本に「軍隊」はないのだから、戦前と比べるのは無意味だという意見を考慮したからだ。鳥と蝶々を、飛ぶからといって、一緒にするな、という意見。

    
大日本帝国、初代、末代       属領日本  

渡部敬太郎が興味深い点は、陸士(陸軍士官学校)の最後から2番目の期(60期)であること。在校中に敗戦。もちろん、士官学校の生徒は職業軍人だ。当時、政府は陸軍士官学校と海軍兵学校の生徒を優先的に(旧制)高校、帝大に「移籍」させた。ゾル転。渡部敬太郎が敗戦後どう人生を歩んだのかはわからない。わかることは、敗戦後の5年後、上記の朝鮮戦争勃発によるマ元指令による警察予備隊=実際は「米衛隊」へ参加したことだ。もちろん、渡部敬太郎の主観としては祖国防衛のために役立ちたいということであったに違いない。しかし、参加した組織は「日本軍」ではないのだ。建「軍」の精神がマ元の占領米軍の補完組織の創設だ。

渡辺直己もそういう類の人なのかと思ったことに話を戻して、この『私学的、あまりに私学的な』お読むと、ちゃらけた色ボケ爺さんという人ではなく、やたら、居丈高な人だ。よく言えば、何か求道的なところがある。もちろんその求道的とは;

ジャナ専でも、近大、早稲田でも、わたしのゼミは、学生たちにとってかなりハードであり、あったようだが、これは仕方ない。残り一、二年で社会に出なければならぬ学生たちに、一冊でも多くの良書、一人でも多くの良き作家思想家に触れさせて送り出さねばならぬのだ。(p310)

中学・高校の「国語」で習ったことは「漢学」と「古典」以外はすべて忘れよ。毎年、かかる暴力的な命令下に開かれる教場においては、地頭の善し悪し、過去の読書経験の質と量、文学や思想にまみれんとする動機の性格、この三点以外に切実な考慮に値するものはない(後略)。p120

「暴力的な命令下」ってすごいな。でも、どっかで聞いたことがあるぞ。思い出した。木田元。海軍兵学校で敗戦を迎えた木田元がのち教授になったときの授業の風景:「ちなみにわたしは大学院の修士課程を木田のもとで学んだが、ゼミ中の木田は本当に怖かった。勉学の態度から語学の能力まで、万事、頭から雷が降ってくる調子の教え方だった。」。渡辺直己の「暴力的な命令下に開かれる教場」とは、木田の海軍兵学校仕込みの教育に類する、陸軍士官学校の由来の所業か? もちろん、渡辺直己は陸軍士官学校とは関係ない。でも、父渡部敬太郎が創る家庭の環境がそういうものであったと邪推できる。さもなければ、なぜ、渡辺直己はそう求道的なのか? その「暴力的な命令下に開かれる教場での教育」とは練兵のようではないか! これは家の教育環境に原因があったと邪推することを禁じえないおいらを天は赦すだろう。

▶村上春樹。渡辺直己は村上春樹批判で知られる。批判のひとつの視点は、「村上春樹の作品を読んでも自分の考えや行動が変わることはない」というもの。ネットにあった⇒春樹の物語は「モテないヤツの妄想」にすぎない

おいらが、なぜ村上春樹の「つくりばなし」を読むかというと、村上春樹がつくりばなしを書かなけれならない動機に大学紛争をはじめとする思春期の動乱とそれに導いた自分が日帝侵略兵士の息子であることがあると邪推している(復員兵の子どもたち)。つまり、「恥ずかしい父親」をもった息子の宿命だ。

おいらから見て興味深いのは、そもそも『俺の女にしてやる』という「辞世の句」を残して社会的死を迎えた渡辺直己は、恥ずかしい存在ではある。傍から見て、マヌケだ。そして、渡辺直己は、「恥ずかしい父親」をもった宿命の村上春樹の作品を総批判する。端的にナルシスティックであると。たしかにそうだ。父親が南京戦に参加していなかったとわかり春樹は安堵する。でも、問題は南京でなく、支那侵略である。

ところで、陸軍士官学校というのは陸軍の中枢を教育、育成する機関である。そして、軍の「指導書」の先陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず」とあるという。そうであるなら、陸軍士官学校在学者でのちに生き残っているやつらっておかしくないか?(いっぱいいるよ![#2])。死ぬべきだろう。先陣訓に従って。敗戦のどさくさで、「生きて虜囚の辱を受けず」の教えをほったらかして、その後元気に生き延びていった。死に損ないじゃないか!中には、本当は死にたいが、終戦勅語の「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」との天皇の命令で死なないのだとかばちたれる死に損ないもいるらしい。もし、敗戦時、将校・将軍たちが全員死ねば、鎌倉幕府滅亡のときの鎌倉武士のように集団で自決すれば、大日本帝国陸海軍の「精神」だけは亡びなくてすんだのだ。

[#2] 現実は、将校・将軍たちは「生きて虜囚の辱を受けず」なんて信じておらず、兵士へのコケ脅しに使っていたに違いない。

渡辺直己の父親・渡部敬太郎はそういう死に損ないだ。そして、「米衛隊」の頭となった。恥ずかしいだろう。恥ずかしい父親。渡辺直己と村上春樹は似たような境遇にいるのではないか。恥ずかしい父親たちの息子たち。渡辺直巳は1952年生まれであり、いわゆる団塊の世代ではない。その点、団塊の世代そのものである村上春樹、そして絓秀実より半世代ほど年下だ。しかし、渡辺直巳の父親・渡部敬太郎は復員兵である。18歳の復員兵。15歳の復員兵よりはトウがたっている。復員兵の子どもたちという属性は団塊の世代の多数に認められる属性である。

書いてほしい。渡辺直巳は誰もが読む文学や思想についてではなく、渡辺直己しか知らない、最後の陸士生徒で、占領体制下占領軍の補完組織に志願し、保護領日本の「軍事」部門のトップになった渡部敬太郎の物語。すなわち、なぜは彼は死なず、日本を従属化する米国の対ソ戦略のひと駒になったのか?の物語を書いてほしい。警察予備隊の生みの父はマ元である。マ元の子、警察予備隊員、渡部敬太郎。たとえ「ジャップ警察官」と親組織の米軍に言われようとも「土人」日本人の自分がこの土地を死守すると考えたのかもしれない。おいらもその本を読むと、考え方や感じ方、行動を変える力が湧いてくる気がする。

▶ハラスメントは放蕩か?

渡辺直己は、人間の本性について言及する。「現代人といえども、より高い知性とより良い異性を求めることに何ひとつ変わりはない」という。これだけが人間の本性とは限定していない。特に金銭欲について渡辺直己は言及していない。wikipediaによると「貧乏だった。自嘲的にルンペン評論家を自称していた」とある。そして、「貧乏」をとくに気にしている気配はない(実家の世話になっていたのかもしれない。そうなると、資金源の元は「米衛隊」=戦後の日米軍事支配体制の賜物ということになる)。やはり、渡辺直己はより高い知性とより良い異性が関心事なのだ。「教え魔」の渡辺直己が教え子だろうとかまわず欲情するのは、こういう事情なのだろう。その序でリストに挙げた本を読まないのはサルであると柄谷行人が煽った『必読書150』に渡辺直己は参加し[#3]、セリーヌ、ジュネなど「放蕩」系作家を紹介する役を担っている。「一冊でも多くの良書、一人でも多くの良き作家思想家に触れ」「より高い知性とより良い異性を求める」渡辺直己のたどり着いた結末が『俺の女にしてやる』と云い、告発され、職を追われることだった。裁判では負けたが、退職金は受領できたので、職を探す必要もなく、自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心する必要もなかったのだろう。さて、この件で、自分の考えや行動が変わることとなったのだろうか?偉大な文学作品は、自らの放蕩に如かずということだったのだろうか?

#3 『私学的、あまりに私学的な』で渡辺直己は「「これを読まねばサルである」と銘打たれてありながら、古今東西のカノン中のカノンを列挙・解説したハードな一本。私自身、これを作ったおりに、十冊ほど未読の本があり、その後あわてて読み終えたくらいの代物」と云っている。古今東西のカノン中のカノンを150冊読んで、おサルさんではなくなった結果が、『俺の女にしてやる』だ。

■ 今週みた「ひとつの世界観」

最近、シンガポールの外交官が東京の銭湯で盗撮したという事件があった。その外交官が日本の警察に出頭したとのニュース。外交特権で逃げ切らなかったと。そのニュースを伝えるニュースの検索結果:検索結果

そのニュースのどれかで(忘れてしまった)下記コメントがあった;

特に戦争中、日本の活躍が無かったら今のシンガポールは無いから、

何か、戦争中でのシンガポールでの日本軍の「活躍」について誤解をしているのではないだろうか?マレーシアのマハティールと勘違いしているのか?
あるいは、反面教師としての「活躍」のことか?

関連愚記事:日帝遺産を不意に賜わる話;受難する日本(系)女子大生、今も昔も...  
And I told you there's no-one there 
原爆投下が必要



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