いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

中川八洋さんの統一教会認識;あるいは、筑波大学、 福田信之、はたまた、村松剛、そして、西部邁

2022年09月04日 14時12分26秒 | 日本事情

みんな大好き、中川八洋 先生! のはずが、goo blogのタグ #中川八洋 に記事がない。

とはいうものの、中川八洋 先生マニアはどのくらいいるのだろうか? 昔の著作の中古価格は軒並み高い。

愚ブログにおける中川八洋関連記事

【思想概要】中川八洋 先生の思想(思想本籍)は一筋縄では説明できない。昔は「タカ派」の筆頭であった。難しいのは日本の核武装を主張するが、それは日本単独ではやってはいけない。米国との協力なしには全く認められないという立場である。さらには、GHQ万歳思想の持主である。したがって、現在流行の「保守派」とはかなり異質である。なにより、反安倍である。現在流行の「保守派」で反安倍はいないだろう。その点、適菜収に近いのかもしれない。中川八洋 先生の思想の特徴は、民族派を敵視することである。民族派として江藤淳、西尾幹二などを挙げて、徹底的に罵倒している。

【思想本籍】以上のような事情なので、中川八洋 先生の思想本籍がわかりずらい。なお、思想本籍とは八洋先生自らの言葉である。中川八洋 先生の思想判断基準は共産主義か、否かである。しかし、これも大雑把な話で、ソ連なきあと、ロシアを敵視しており、共産主義か、否かだけでは基準とならないはずだ。

【統一教会】ということを前世紀末から、おいらは考えていた。さらにそれ以前、冷戦時代から考えていたことは、中川八洋筑波大学教授って統一教会の(筆頭)信者、あるいは、原理研の(幹部)活動家なんだろうかということであった。ただし、エビデンスは何もなかった。エビデンスは何もなかったので愚ブログでは中川八洋 先生に何度も言及しているが、統一教会のことは触れなかった。中川八洋筑波大学教授が文鮮明の徒であろうとおいらが空想した理由は、福田信之。

【福田信之】とは、筑波大学の学長にもなった物理学者。朝永振一郎や仁科芳雄の弟子、部下。何より、文鮮明の熱心な信徒であった。何と、1970年代は「筑波大学副学長、学長」などの肩書で統一教会の集会に参加していた。特に、今では伝説となっているあの「文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」」にも参加。1974年。つまり、公然信者であった。wikipedia

さらに重要な点は反共主義者であった福田信之は、元来、共産主義者であったこと。

ただし、福田信之の共産主義者時代の情報は(少)ない。紹介できるのは、自分の発言のみ;

終戦後数年ですかね、当時科学者の中にたくさん左翼がいて、そういう連中と一緒に左翼運動に身を投じていたんです。科学者運動というので、先輩の武谷さん以下、たくさん付き合った。

 今日も教育大の関係者たちと話したんですが、ああいう左翼学者というのはフェミニストですよね。僕は成田の過激派のようになんでも爆弾投げてやるくらいなら、これはそれなりに評価できる。ところが彼らはそういうところには出かけない。真面目な連中を煽って、自分はいかに金をもうけるか。金をもうけるのが達者な連中ですね。
 僕ら若い時は真面目にやったもんだから、だからなおさら悪さがはっきりわかってくる。(福田信之、『国際化時代と大学』、1980年)

推定するに、25歳で理研の研究者(原爆材料開発研究)として敗戦を迎えた福田は、敗戦の衝撃で共産主義者になったのだろう。25歳というと少しトウがたっているが、インテリで軍国青年/従軍経験からアカ(共産主義者)になるという例は多かった(例えば、色川大吉とか)。福田は数年活動したといっているが、『原爆・水爆とビキニ死の灰まで : 図解原子物理学』を1954年に出している。反核運動をやっていたというから、1954年にはまだ転向していないのだろう。さらに、推定すれば、朝鮮戦争勃発で日本共産党が非合法され、「地下」活動をする共産主義者がいた時代。山村工作隊など。福田信之のいう「過激派のようになんでも爆弾投げてやるくらい::僕ら若い時は真面目にやった」とはこのあたりのことではないかと、おいらは邪推している。

そして、福田信之は、東京教育大学の筑波大学への「移転」(法制上は、東京教育大学の廃学、筑波大学の設置・開学)の推進者筆頭であり、「移転」反対派の「左翼」に対し、福田は、自らの左翼知見を以て、勝利した。下記記録がある;

移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之(1921-1994)教授であると言われていたが、彼はある雑誌(「経済往来」)の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく機動隊を使うことだと、得意げに述べている。事態はすべて彼の「3原則」通りに進行したと言え、福田教授こそは筑波大学建学の最大の功労者であったと言えるであろう。(彼は三輪知雄、宮島龍興につづいて筑波大学の第三代学長になる。)福田教授は反対派の学生をつかまえて、「お前はレーニンを読んでるか、俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、どうもこの福田3原則にはレーニン主義の影響が感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論にならって推進派独裁をやっているかのようである。東京教育大学小史

【中川八洋、筑波大学】中川八洋が筑波大に就職したのが1980年(科学技術庁の課長補佐から転職)。福田信之の時代だ。これもエビデンスなしに、おいらは、勝手に、反共つながりで八洋先生は筑波大に勤まったのだろうと考えていた。その後も、中川八洋筑波大学教授って統一教会の(筆頭)信者、あるいは原理研の(幹部)活動家なんだろうなと空想していた。しかし、エビデンスは一切見つからなかった。中川八洋は年譜を公表しているが、この件に関する情報は見当たらない。

さらに、福田信之と中川八洋の接点も全く確認できない。

【そして、思想本籍開示】近日の統一教会騒動の余波で、中川八洋が(おそらく)初めて、統一教会についての認識を示した;

また、統一教会とは、朝鮮労働党党首・金日成が朝鮮戦争で疲弊した北朝鮮を再建すべく、その資金を韓国の民衆から集めるべく、1954年、韓国に亡命中の北朝鮮人&教条的コミュニスト文鮮明に命じ、“財産収奪宗教団体”として発足せしめたエセ宗教組織。当然、反共ではなく、逆に狂信的な共産主義一色の教団。 (中川八洋ゼミ講義

と罵倒している。なので、中川八洋は統一教会と無縁なのだろう。ただし、不自然ではある。上記認識があったのであれば、福田信之を罵倒してもよいはずである。

【はたまた、村松剛】 1980年代の筑波大学「右翼」教授として著名だったのが、村松剛。村松剛と中川八洋は交流が深かった。八洋先生の年譜に書いてある。

おいらは、村松剛の本を何冊か読んだことがある。気に入ったところは、「保護領」(protectorate Japan) 認識や、何より、米国が嫌いだと公言していることだ。米国嫌いは占領のトラウマで、村松剛は進駐軍キャンプに出入りいして「闇商売」をしていた。家が建つほど儲かった。基地で米兵に自動小銃銃撃され「蜂の巣みたいになって死んだ日本人はいくらでもいた」といっている。国家主義的というか、普通に主権国並みに軍備をしろという主張をするのを、マッチョでいいなと思っていたのかもしれない。

ところが、昨日買った古本(愚記事の■今週の購書)に恐ろしいことが書いてあった;

 村松剛氏と言えば R 大学助教授、文芸評論家、仏文学者で、皆さんよく御存知の日本のモナリザ、村松英子さんの兄貴であるが、この男、肩書きに似合わず甚だそそっかしい。学問芸術については実に博学多識であるが、俗世間の下情についてはほとんど知らん。彼が美空ひばりをヒバリ科に属する鳥の一種だと長い間、信じていたという実話は友人にはあまりに有名な話であるし、野球をやらせるとバット振って三塁にのこのこ歩き出すような始末である。

 もう五年ほど前になるのであるが、当時彼は成宗近くの都電停留所の前に住んでおった。
 ある朝、いつものように講義におもむくべく、ネクタイをしめ、上衣を着、ノートを入れた鞄を持って家を出た。ちょうど都電が停留所にストップしたところであったので、大急ぎで飛び乗ったところ、乗客一同、眼を丸くし口をポカンとあけて自分を注目しておるではないか。
 注目するのも当然である。彼は上衣を着、ネクタイをじめ、鞄こそ手に持っているが、下はモモヒキ一枚だったのである。 (遠藤周作、『ぐうたら社会学

うーん、剽悍決死の人ではなかったのだ。まあ、しょせん「知識人」だよね、と当たり前のことに気付かされた。

【蛇足】中川八洋さんに戻って、八洋先生の敵は共産主義者と民族派である。民族派として、江藤淳、西尾幹二が挙げられている。なお、八洋先生の脳内では、共産主義者と民族派は同じものの現象形態が違うものである。民族派とは反米右翼のことであるが、そうであるなら、典型は西部邁である。八洋先生の年譜では、あまたの「保守派」知識人が罵倒されているが、西部邁はその罵倒を免れている。理由や評価基準はわからない。西部邁は元アカで民族派で反米右翼の典型なのに。八洋先生の年譜での西部の言及箇所は下記;

▽     勉強会の講師として西部邁を招く
《わたしが初めて西部遭氏と会ったのは二十年近く前だった。中川八洋氏が主宰する勉強会に西部氏が講師としてあらわれ、難しい講話が終わってから六本木のビアホールでビールを相当量飲んだ。中川氏はソフトドリンクを飲んでいた。
  何を話したかは綺麗さっぱり忘れている。》「辛口コラム 書評その5のA 西部邁著 『妻と僕 寓話と化す我らの死』(飛鳥新社)」http://miyazaki.xii.jp/column/index5.html
※書評の『妻と僕』(2008年7月刊)から逆算して推定すると1988年頃か。ソース 1989・平成元年  44歳


最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (タカヒロ貴)
2022-11-12 14:23:56
初めまして。貴ブログを興味深く拝見しました。もしかしたら中川八洋氏は、最初は統一教会に対してそれほどの嫌悪感は無かったと思うんですが、90年の文鮮明によるゴルバチョフとの対面、91年の訪朝による金日成との協力関係の構築等から、統一教会を敵対視するようになり、それに伴い、安倍氏や安倍氏周辺の学者を批判するようになったとは、考えられませんかね?まぁ、これも憶測に過ぎませんが。
返信する
ありがとうございます。 (ikagenki)
2022-11-12 18:47:40
タカヒロ貴さん、コメント、ありがとうございます。

「91年の訪朝による金日成との協力関係」は衝撃的だったと思います。この時点で、文鮮明を疑って当然だと思います。

しかし、安倍氏や安倍氏周辺の学者を批判するまでに時間的(時代的)ギャップがありすぎるので、謎です。
返信する
チンポが私の原点だ (闘いうどん)
2022-12-02 14:06:56
中川先生と言えば、同じ筑波の友だった小田晋先生の崇高なご思想はどのようにお考えでしょうか。おふたりが『諸君』だったかで切りつけたことにより、宮台某は力を失いました。あと西部の飼い犬だった評論家某が中川先生を殴ったという噂がありました。
返信する
闘いうどんさんへ (いか@)
2022-12-04 16:00:13
闘いうどん さんどうもです。 うどんさんの悪との闘いがイーロンマスク買収とどうかかわっているのかわかりませんんが、お元気でなによりです。

小田先生にはなじみがなく、「聖人・小田晋」https://tatakaiudon.seesaa.net/article/201305article_3.html を再読しております。 ふたりの宮台「切りつけ」は、ご指摘「諸君」の「ボクちゃん社会学者 希代の煽動家か,それとも…--宮台真司助教授はこれだけキレている」 1998年4月です。 社会は価値紊乱で崩れていくのかと嘆く視点より、なぜ無秩序ではないのか?という視点でみることの云々だったと記憶しています。 なお、小田先生は筑波大1977年赴任なので、開学組らしい。根っからの○○に違いありません。西部の縁者って、H.A. ?
返信する
Unknown (闘いうどん)
2022-12-04 21:00:01
イーロンマスクは有田哲平と名乗っていたころから知ってはいますが、いまのところ私のアカウント復活の動きはありません。中川先生を殴ったとされる人は西部の評伝を書いてます。
返信する
Unknown (ロンドンのビッグ・ベン)
2023-01-08 20:08:06
私は、中川八洋は統一教会とは無縁だとは思ってません。何故なら、彼はそれ以前に統一教会を批判した事がなく、事後諸葛亮のように思えるからです。しかも、学長を罵倒していないという事は、恩義があるのでしょう。従って、中川八洋の統一教会批判は、自分にとって都合の悪いものを勝手に北朝鮮・共産党と絡めて批判しているだけだと思います。決して、統一教会批判の理由は、同団体が共産主義団体だからではないと考えます。
返信する
エビデンスがない (ikagenki)
2023-01-13 04:45:59
ロンドンのビッグ・ベンさん。

コメント、ありがとうございます。ご指摘のことが重要です。つまり、「中川八洋は統一教会とは無縁」ではない。

問題は、中川八洋と統一教会の接点を示すエビデンスが昔から(1970-1980年代頃の接点)ないことです。反共思想での「共闘」のエビデンスもみたことがありません。

これは、不思議なことです。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。