いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

つくばの夕暮れ、あるいは、ステノはスピノザと友だちだったらしい

2012年01月11日 19時06分15秒 | その他


 -つくば山麓の夕暮れ;日没前の東の空-

本日のグーグル

変てこな絵だ。ある現代アーティストのゆかりの日かと思って、クリックして飛んでみると、ステノだった。

ステノの業績は、「地層累重の法則」(wiki)と「面角一定の法則」(google)。化石と鉱物だ。

おいらの手元のdeath valleyでの指南書にも書いてある;


ミョウバンだって砂糖だって、法則に則っているのだ!恐るべし、自然法則。

Googleの変てこな絵は「地層塁重の法則」の模式図だったのだ。wikiを読むと、彼の人生は1638-1684年である。おまけに、アムステルダムにも住んでいたと知る。

アムステルダムの鉱物化石屋 (mineralen-fossielen)


上の画像をクリックで、このショップの街における全景が見える。

▼ステノの生涯が1638-1684年と知り、スピノザと同時代人ではないかと気付く。スピノザは、1632-1677年。しかも、アムステルダムにいたというではないか(関連愚記事; スピノザ、 意志の自由、 ルサンチマン)。

ネット調べると、唯一、「ステノはデンマーク出身の解剖学者・地質学者・聖職者。スワンメルダム、スピノザ、ライプニッツらの友人で、ライプニッツの『プロトガエア』はステノの大 きな影響下にあるという。17世紀科学革命の重要人物の一人と言えよう。初期の地質学、とりわけ化石の生成論は世界創造とか聖書年代をめぐる神学論議と密 接に関わるので、思想史上逸しえないトピックである。 」とあった。ここのレビュー。

はやり、知らぬ中ではなかったのだ。

そして、初めて知ったょ、ステノがローマンカトリックの立派な聖教者として大成したと。

片や、破門されて、呪われ続けられたり、一方で、坊主になったり.....。むずかしいな17世紀のアムステルダム。

でも、レンズをなでたり、結晶面をなでたりしてたんだな。



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