村上隆のスーパーフラット・コレクション ―蕭白、魯山人からキーファーまで―、を横浜美術館にみにいった。横浜美術館は、「プーシキン美術展」(2013年)以来3年ぶり、2度目(愚記事)。武相境斜面に移ってきてからは初めて。
村上隆や現代美術に詳しいわけではない。 でも、村上隆関連の展示ということなので、住んでいる街だし、見物に行った。
■ 2009年 スペイン、ビルバオのグッゲンハイム美術館
村上隆に関心があるのは、2009年に偶然見た展示。 スペインはビルバオのグッゲンハイム美術館でやっていた村上隆展。あの「My Lonesome CowBoy」 [yahoo] もみた(該当愚記事)。
村上隆やその周辺のアートが 「本物か?」、「インチキか?」 というには議論があるらしいが、村上隆の作品群は現在の金融資本家など地球上で最富の人達の「好事家」が購入してるらしい。「My Lonesome CowBoy」 は16億円で売れたと話題になったのはずいぶん以前のことだ。
さらに、おもしろいのは、村上隆はアートというのはそういう資本主義という現実社会の中で然るべき機能を持ち、その社会的機能の結果次第で評価され、貨幣的価値が付随するというきちんとした考えを持って、活動しているらしい。
その村上が「世界的」に活動しはじめて今に至る時期は、BRICSの勃興など金融資本のグローバル化・ネオリベの地球化の時期だ。上記のグッゲンハイム美術館は、おそらくは、金融資本のグローバル化的な組織と関係があるのだろうか? 端的にいって、グッゲンハイム美術館は、「世界ユダヤ人組織」のアート管理部門なんだろうか?
そして、村上隆の「My Lonesome CowBoy」がフランスはパリのベルサイユ宮殿での展示にはフランス極右が反対・抗議した [google]。反グローバリズムの端的な顕われではある(?)。
このとき、村上隆展と同時にビルバオのグッゲンハイム美術館でやっていた展示は、蔡國強/Cai Guo-Qiang [wiki]だった。
⇒ Cai Guo-Qiang: I Want to Believe
スペイン、ビルバオ、グッゲンハイム美術館、2009年5月。 MurakamiとCai Guo-Qiangの抱き合わせ展示会。
■ 2016年 村上隆のスーパーフラット・コレクション ―蕭白、魯山人からキーファーまで―
「現代社会における価値成立のメカニズムについて考える」と展示会概要に書いてある[1]。
21世紀に入って興隆した経済のグローバリゼーションも、世界各地の「田舎者」たち=ローカリスト=反金融主義主義運動の反逆を受け、潮目が変わってきた。今後、村上隆の活動がどうなっていくのか?
とりとめもなく展示の画像を貼る;
外出時は、荊の簪をはずす<荊の簪を挿した御方>。 覗いている!
<荊の簪を挿した御方>が覗いてた風景。
<荊の簪を挿した御方>が発したコメントは、猫缶あるよ!であった。
「本物か?」、「インチキか?」
李尤松(1968年生まれ) 題名:「無題」 (らしい)。2006年の作品
現代中国では、文革時代のことが、アート化されているらしい。 そして、この李尤松(1968年生まれ)の「紅衛兵」は、現実離れしている姿態として描いているとおいらには思える。
なぜなら、確かに、少女二人は右腕に紅衛兵の腕章をしている。でもおかしい、彼女たちは平服なのだ。紅衛兵は軍服を着るのが基本である。紅衛兵の腕章を「授けられた」毛沢東(紅衛兵による「戴冠式」!)も軍服姿だった。
当時の文化大革命の記録を読むと、記録者が驚くこととして、なぜ紅衛兵の少年少女たちがみんな軍服をもっていたか?ということである。当時の中国は「物 のない社会」であり、「物」という実体が意味をもっていた。実状は、紅衛兵となる少年少女たちは実家から調達したとのこと。端的には親からもらったりした のだ。これは、軍服を自己調達できる少年少女たちが紅衛兵となったことを意味する。事実、文化大革命勃発当初の紅衛兵は超エリート階層(共産党・革命実行 者たち)の子弟だ。
こういう背景を考慮すると、上記李尤松の農村での少女たちの紅衛兵の腕章は不自然だ。もっとも、下放された紅衛兵が軍服は脱いだが、腕章だけは忘れないということを示しているのか? おそらく、紅衛兵の腕章は、李尤松(1968年生まれ)にとって、「記号」なのだ。 (昨日の愚記事より)
[1]
「現代社会における価値成立のメカニズムについて考える」と展示会概要に書いてある[1]。
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20160130-457.html