「よかったら一緒に飲まないか?」鼠はそう訊ねてみた。
ジェイは少し困ったように微笑んだ。「ありがとう。でも一滴も飲めないんだよ。」
「知らなかったな。」
「生まれつき体がそう出来ているんだね。受けつけないのさ。」
鼠は何度か肯き、黙ってビールを飲んだ。そして自分がこの中国人のバーテンについて殆んど何もしらなかったことに改めて驚いた。
村上春樹、『1973年のピンボール』
絓秀実さんによると1970年7月7日の「華青闘告発」が、マイノリティーによる対抗運動の初めての勃発として、重要だそうだ。
知らなかった。重要な点は、そんなことが本当かにわかに信じられないのだが、新左翼でさえ1970年までは「日帝本国人」によるマイノリティー抑圧に没批判的であったというのだ。その無定見な日本人意識を前提にしていた新左翼など「革命」運動参加者に「コペルニクス的転回」をくらわしたのが、「華青闘告発」ということらしい。
華青闘は当事者無視の中核派の行動に反発し、7月7日の集会当日に新左翼各派に対して訣別宣言を出した。この宣言は別名「華青闘告発」ともいい、「当事者の意向を無視し、自らの反体制運動の草刈場としてきた新左翼もまたアジア人民に対する抑圧者である」という痛烈な批判であった。華青闘はこの日をもって解散した。 wiki
おいらは、浅間山荘事件の記憶はなく、(「左翼」・テロリストに関する)記憶の最古は三菱重工爆破事件 (関連愚記事群) である。つまり、おいらがものごころついたときは既にマイノリティーによる対抗運動を出汁にした「日帝本国人」による反日テロ運動は始まっていたのだ。そしてその反日的雰囲気は戦後のデフォルトのものだとおいらは、それこそ没批判的に認識していた。違うのか?
全共闘運動の初期は、のちの連合赤軍リンチ事件や内ゲバとは違う、何か恒常学園祭的ムーヴメントだったらしい。呉智英さんもその時の「学生運動」に参加していたのだ。
そして、30年経ってやっとわかってきた。1980年代初頭、おいらが初めて呉智英さんを読んだとき、彼の主張は反「反差別」。行き過ぎたマイノリティーによる対抗運動への批判だったのだ。だから、津村喬を批判していたのだ。やっと、わかってきた。
そして、呉智英さんや津村喬が過ごしたあの時代の早大に村上春樹もいたのだ。
村上春樹、『1973年のピンボール』は学生運動での「敗残者」のその後の記録に他ならない。
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鼠が大学を去ったのには幾つかの理由があった。その幾つかの理由が複雑に絡み合ったままある温度に達した時、音をたててヒューズが飛んだ。そしてあるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ。 村上春樹、『1973年のピンボール』