いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第429週

2023年02月04日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第429週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週のキリ番

 ブログ開設から6789日

■ 今週の訳あり

山形産りんご、10kg、1,980円

何ら問題ない。甘い。ボケてない。

■ 今週の They are back.

去る1月14日の神奈川新聞の報道によれば、横浜港のアメリカ陸軍ノースドックに今春、米陸軍の小型揚陸艇部隊(兵力280人、艇数13隻)が新たに配備されるようだ。この部隊配備の意味について、同基地の前に住むフォトジャーナリストの柿谷哲也氏に話を聞いた。(ソース:週刊プレーボーイ、ついにアメリカ陸軍が横浜港に配備決定!! 「小型揚陸艇部隊」の驚くべき実力とその戦略とは?)

(ネット情報によると)1981年以来無人施設で、沿革の上位組織からの出張で管理されていたらしい。今度、再び常駐管理となるとのニュース。

⑧(斜線部)がアメリカ陸軍ノースドック。この図は1983年刊行の『占領の傷跡』(後述)からのもの。占領時代からずっと米軍管理地。上記図の点部分が占領時代の接収地でのち返還された地域。

瑞穂埠頭は外国貿易埠頭として、1925年(大正14年)に着工し1945年(昭和20年)に完成したが、終戦後には連合国の駐留軍に接収され、1952年(昭和27年)の講和条約発効以降は、日本からの提供敷地として、在日米軍が使用している。wikipedia

■ 今週知ったウクライナ人:クズマ・デレビヤンコ@ソ連軍代表

1945.9.2 東京湾、戦艦ミズーリ甲板上での降伏文書調印式

身体の半分だけ写っている白服のとなりの黒軍服の軍人がソ連代表のクズマ・デレビヤンコ(wikipedia)。ウクライナ人なのだという。

■ 今週借りた本


服部一馬、斎藤秀夫、『占領の傷跡』、有隣新書; 赤いキャンディを添えて

知らないこと、気づかされたことなどがたくさんあった。すべては挙げられないが、①マッカーサー元帥(マ元)が「厚木」に舞い降りる8/30の2日前8/28に先遣隊・テンナ大佐率いる米軍輸送機40機あまりが「厚木」到着。有末精三との画像があった;②あの米英旗を振るがきんちょたちは8/30の戸塚でのことらしい、「厚木」から横浜まで長後街道を通った;③この本の表紙の進軍する戦車の米軍を"厚木から横浜へ向かう占領軍(昭和20年8月30日)"は疑問;④マ元が「厚木」に到着した日に横須賀にはニミッツ率いる米海軍の海兵隊など17,000名(!)も上陸:⑤マ元とニミッツは"不仲";⑥戦艦ミズーリの降伏文書調印前に信任状提出があった、天皇書名入り終戦の詔勅が連合国に提出された(今、米国のどこかにあるはず);➆敗戦後の天皇巡幸の写真がよく歴史書で使われるが、それは最初の訪問地であったからだと知る。最初は東京ではなかった。横浜を含む神奈川県巡幸は二日間だったが、皇居からの通いだった;⑧横浜の野毛は非接収地域(日本人街!)で巨大闇市だった;⑨この本の歴史認識、特に朝鮮戦争、あるいは、時代の子;⑩パンパンが街の繁栄になる;⑪基地が街の繁栄になる

① テンナ大佐

先遣隊テンナ大佐を迎える有末精三陸軍中将[wikipedia]。左腕に白い腕章。テンナ大佐の向かって左は小銃を肩にかけた副官のパワーズ少佐。有末中将は道産子で、しかも屯田兵の子孫と知る(⇒参考ブログ記事)。

チァーレス・テンチ大佐:当時四十歳そこそこで、マッカーサーの信任厚い士官だった

⑥戦艦ミズーリの降伏文書調印前に信任状提出があった

 日本側随員のひとり岡崎勝男(終戦連絡中央事務局長)が、天皇の信任状をマッカーサー元帥に提出した後、式場中央の机上に置かれたニ通の降伏文書に、天皇・政府を代表して重光全権、大本営を代表して梅津全権がそれぞれ署名した。(『占領の傷跡』p42)


https://www.youtube.com/watch?v=vMDbKdN6fyA

画像右上の日本代表の前列二人が重光と梅津だが、その後ろ、重光の後ろが空いている。ここに岡崎がいたと下記画像でわかる。従って、画像中央の机で書類を渡しているのは岡崎なのだろう。


③が岡崎

▼ 岡崎はこれに先立ち降伏使節団としてマニラに行っていた

 (前略 8月)十九日には、参謀次長川辺虎四郎中将を全権とし、海軍中将横山一郎・外務省調査局長岡崎勝男を首席随員とする十七名の降伏使節団がマニラへ向かった。(p18)

 この使節団があの「緑十字飛行」(wiki)。おいらは、岡崎勝男といえば赤十字の「阿波丸事件」(wiki)が印象に残っていたので(のち、賠償請求権を放棄することを岡崎が決めた)。

④マ元が「厚木」に到着した日に横須賀にはニミッツ率いる米海軍の海兵隊など17,000名(!)も上陸:⑤マ元とニミッツは不仲;


https://www.youtube.com/watch?v=TyswklkPlM4&t=353s

1945.8.30  09:30、ベル中佐の第 1 大隊の海兵隊は、横須賀飛行場の南東にあるレッド ビーチに上陸し、ウィルソン B. ハント少佐が率いる第 3 大隊の海兵隊は、ネイビー ヤードの中心にあるグリーン ビーチに上陸した。抵抗はありませんでした。少数の武装していない日本人は、指示に従って白い腕章を身に着けており、彼らが重要な保守部隊、役人、または通訳であることを示していた. 天皇の命令を守ることができないと考えられた熱狂者やその他の人々は排除されました。(ソース)

左腕に白腕章

横須賀に上陸した米海軍・海兵隊は、第4海兵師団(wiki)。

太平洋戦線に投入され、クェゼリンの戦い、サイパンの戦い、テニアンの戦い、硫黄島の戦いに参加している。死傷者は17,000名以上にのぼる。大戦終結後の1945年11月28日に廃止された。 (同上wiki)

おいらのブログ記事では米進駐軍は第一騎兵師団と第11空挺師団ばかり言及してきた。今気づいたが、それしか知らなかったのだ。米海軍は8/30に17,000名(!)も上陸していたのだ。横須賀。米海軍。ニミッツ元帥(wiki)。another元帥だ。おいらは、マ元の宣伝に踊らされて、マ元の米陸軍ばかりに目が行き、米海軍に気付かなかったのだ。

➆敗戦後の天皇巡幸の写真がよく歴史書で使われるが、それは最初の訪問地であったからだと知る。最初は東京ではなかった。横浜を含む神奈川県巡幸は二日間だったが、皇居からの通いだった

この写真は歴史の本でよく見る。これは横浜(稲荷台)なのだ。この稲荷台の前の日産重工業横浜工場では;

天皇が到着すると、大勢の米兵が集まってきて、天皇を取りかこみ、握手やサインを求め、(側近が)押しのけられる有様になった。

⑩パンパンが街の繁栄になる

(横須賀で)「大人の人」が「パンパンが街の繁栄になる」と信じていたことを、子どもたちが正直に伝えている。当時の横須賀市は人口二十六万人、財政七億円の規模にたいし、基地内の銀行で日本円に換金されるアメリカドルは毎月四〇〇万ドル(一四億円)に達した。このうち五億円が横須賀市内におちるというのだから、「大人」たちに「必要悪」を黙認する空気があったことは否めない。(p178)

⑪基地が県の繁栄になる

③この本の表紙の進軍する戦車の米軍を"厚木から横浜へ向かう占領軍(昭和20年8月30日)"は疑問

この表紙の写真について本書の解説は「厚木から横浜へ向かう占領軍(昭和二十年八月十五日)」とある。もしそうであるならば、この日(1945/8/15)に米軍が写真のような戦車を関東に上陸させていなくてはならない。確かに、8/30に厚木に米陸軍第11空挺師団が到着している。この師団は沖縄から輸送機で空輸された。輸送機はC-54。当時の大型輸送機では戦車を運べたのだろうか?一方、映像では「厚木」に日本軍により、米軍の命令で、多数のトラックが集められていた。第11空挺師団はこれらのトラックで横浜に向かった。

一方、米陸軍第一騎兵師団は9月2日昼前に横浜港の大桟橋から上陸した。この師団は船で上陸したのであるか戦車をもっている可能性はある。この進行する戦車は横浜から東京に入城した時の写真ではないだろうか?

②あの米英旗を振るがきんちょたちは8/30の戸塚[1]でのことらしい、「厚木」から横浜まで長後街道を通った。 この動画では、がきんちょのシーン(1945/8/30とされる)はトラックだけが写っている。これは、厚木からの第11空挺師団のトラック群ではないだろうか?

[1] このがきんちょたちが戸塚の子であるという根拠は明確にしめされているわけではない。

▼ 東京まであと9日

「厚木」に着いたマッカーサー元帥は、「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い、そして困難な道程だった。しかしこれで万事終わったようだ」と感慨を述べ、「降伏は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであろうことを期待する」と声明したのである。 p35

8/30に「厚木」に着いたマッカーサー元帥はその夜は横浜のホテルグランデに宿泊。東京へ行くのは9/8。

 



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