新国立美術館へ行くのは何度目だろう? 思い出してみると(ブログは便利だ)、2007年6月28日のモネ展、2010年7月13日のオルセー美術館展2010「ポスト印象派」展に行っている。
1 新国立美術館
国立新美術館、『オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展』
19世紀末のフランスでナビ派の一員として出発した画家ピエール・ボナール(1867‐1947年)は、浮世絵の影響が顕著な装飾的画面により、「日本かぶれのナビ」の異名を取りました。20世紀に入ると、目にした光景の印象をいかに絵画化するかという「視神経の冒険」に身を投じ、鮮烈な色彩の絵画を多数生み出します。本展覧会は、オルセー美術館の豊富なコレクションを中心に、国内外のコレクションのご協力を仰ぎ、130点超の作品で構成されるボナールの大規模な回顧展です。(開催主旨 ソース)
まとめ: ピエール・ボナールの猫は躾がなっていない。
▼ 新国立美術館別館
元来は、麻布歩兵第三連隊 兵舎。敗戦で米軍接収。のち、東大生産研。新国立美術館建設のため解体撤去。一部が保存。その保存された部分。
おいらは、この地に1990年4月に一度来たことがある。学生だったおいらは教官に連れられ来た。当時、ここが東京のどこで、周辺地域はどういう場所であるのかなど全くわからなかった。ただ、この建物を見た時、226事件のことは知っていたので、これがあの麻布の連隊かと思った。建物を威容だと認識した記憶はある。
当時は、今でいう、バブル景気の絶頂期。もちろん、当時「バブル」という言葉はなく、当時の当事者は現状がどういうことであるのか理解してないし、当然、その後どうなるかも誰も知らなかったのである。
逆にいうと、バブル時代には、この「バブル的威容の?」新国立美術館はなかった。
ただし、「バブル」の土地高騰を受けて、東大は(土地売却&)移転を決意した(のだろう)。
新国立美術館(2007年開館)は、バブル期に計画され、遅れて発現したのだ。
新国立美術館別館内の展示の模型
■ 1 ⇒ 2 新国立美術館から六本木通りへ
台地から低地へ下っていきます。
六本木通り。昼間から焼肉の煙の悪臭がひどい。焼肉屋の排気施設が不良なのだろう。
六本木六丁目交差点から北を望む。六本木トンネル。
六本木通りは地下歩道で渡る。
現金輸送者。
六本木ヒルズ。
■ 2 ⇒ 3 六本木ヒルズから麻布十番へ
毛利庭園。wiki [毛利甲斐守邸跡]
鳥居坂下付近。
麻布台から低地に降りる斜面。
麻布十番。初めて来た。低地だ。
きみちゃん像。 胴体が「カリ長石花崗岩」ですね。
少女は、岩崎かよの娘、きみ。
幼い頃に母親と離ればなれとなった末に孤児院に預けられ、結核に侵されて、
横浜から汽船に乗ることもなく、母親との再会も叶わず、わずか9歳で亡くなってしまったそうです。
かよは、最愛の娘がアメリカに渡って幸せに暮らしていると思い込んだまま、生涯を過ごしました。
■ 3 ⇒ 4 麻布十番から芝公園付近
一ノ橋ジャンクション付近。
古川。(静かな)川の存在はこのあたりが最低地であることを示す。
4⇒5 赤羽橋付近 ⇒ 浜松町
赤羽橋付近。
芝公園付近。
金杉橋交差点
船宿街。 屋形船 東京・浜松町 縄定
JR線をくぐる。
上図の「現在地」にたどり着く。芝離宮入り口へはぐるっと回る必要があるとわかる。
海岸通りまで出て北上。
さらに左折。西へ。
芝離宮入り口。
小石川後楽園と共に、今東京に残る江戸初期の大名庭園の一つです。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。 明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領しました。 忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。(ソース 旧芝離宮恩賜庭園)
JR浜松町駅へ。
終わり。