むのたけじ が死んだと、知る (google)。
むのたけじ; 愚ブログが呪うあの朝日新聞の、しかも、日帝瓦解時に在籍していた新聞記者である。
いか@様野郎やペテン師に限りない関心を抱くおいらの関心ずんぶつが、むのたけじであった。なぜか、ここ数年、活発な活躍を繰り広げ、驚いていた。
敗戦で朝日を自主的に去るむのたけじに、朝日新聞を去らない同僚たちは「家族もいるし、露頭に迷うし...」と残留したと回顧したと、おいらは記憶している(引用根拠なし)。 そうなんだよ、朝日新聞記者なんて、そういう連中だ。
朝日新聞といえば、時流のおためごかし的大義を唱えては、商売してきたやつらだ。
宗主国米国が嘯く"民主主義"の体制下では 、民主主義を! (← 今です。)
大日本帝国後期の大衆社会では、戦争翼賛を! (← 戦前です。)
(愚記事)
そして、おいらは、こいつは、ペテン野郎に違いないと、30年前から、直観していた。
このおいらの30年来の邪推的直観を実証的に研究する論文を、数年前、ネットで見つけた。
これだ ↓
渡辺牧 翻身論序説 -日本ファシズム期におけるあるジャーナリストの生き方の事例分析を中心に ―
報知から朝日新聞社会部に転じたむのは,太平洋戦争開戦までの約1年間を「自分がどんな仕事をしたのか莊漠としている」(むの〔1964:46〕)と回想しているbl941年,外相松岡洋右は,防共枢軸の強化を策し,さらに日ソ中立条約を結んだが,6月22日,ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破りソ連に侵入,「独ソ開戦は松岡の世界情勢認識に重大な錯誤のあったことを暴露」(むの〔1964:47〕)した。23日朝,むのは松岡と単独会見,夕刊トップに記事を執筆したが,後に彼は,このとき松岡が何を語ったか思い出せない,と回想し,「時代の流れと,おのれ自身の生存と,どこにも接点のなかったせいか」と述べている。開戦までの日々について「外界の出来事は自分とは関係なしに通過していくようだった」,「職業上の早耳で局面の-切迫を知り得ても,日本が米英に真っ向から戦いをいむと予想できる実感は少しもなかった」と述べている(むの〔1964:47〕)
って、いうか、おいらが言いたいことは、「むのたけじ!、おまい、都合のいい思い出しか言ってないだろう」、ってこと。
そういう点が現在の御都合主義が得意の「リベラル」さまの体質と合致するのであるから、むのたけじはリベに需要があるのだろう。
どうしても語っておきたいことと喧伝しするのは、どうしても隠しておきたいことの蔽[おお]いを確かなものにするためであったのだ、とおいらは邪推している。
■ 補遺 松岡洋右が会った男たち;
愚記事より
松岡に、「ヒトラーやスターリンとの関係を問い糾すこと」ができなかったのは、超人的能力を求めることなので、置いていくが、
後世に、その取材内容について何も伝えないのが、むのたけじ、である。