過去の記事で光格天皇について下記書いたことがある;
「天皇」号が光格天皇から復活した。幕末の朝廷再興の始まりである。なぜ、朝廷再興を志したかというと、傍流出身ゆえより本来的であろうと努めるからである。これまた、傍流による原理主義という逆説の典型である。 (愚記事;今度、吉宗クンと竹田クン。2005年12月18日 20時55分47秒 )
14年前だ。
一方、別のこの記事では、平成の天皇陛下の鳥取県倉吉行幸について、下記疑問をもった;
その時、白壁土蔵群の見物で、掲げられていたのが、ひろひとさん「白壁土蔵群」行幸&香淳皇后行啓写真。 すめろぎさんの訪問場所って、決まっているのであろうか? (愚記事;明日(10/31)の行幸・行啓予定は、 白壁土蔵群 2011年10月30日 16時36分39秒)。
8年前だ。
そして、今日知った。光格天皇の生母の出が倉吉湊町だと。庶民だったと。
大江磐代君(おおえいわしろぎみ)は光格天皇の御生母です。
磐代君は延享元年(1744)倉吉市湊町に生まれ、父に連れられて京都にのぼりました。そして成子内親王に仕え、内親王が関院宮典仁親王に嫁いだ時、その待姫となりました。その後、典仁親王の女房となり、明和8年(1771)祐宮兼仁親王(光格天皇)ほか三皇子を産みました。磐代君は天資聡明で徳操高く、筆跡にも優れ、また歌道にも通じていました。宮仕えの女性として少しもひけをとらず、田舎出身などと思わせなかったと言われています。晩年は仏門に入り、69才までの余生を静かに送りました。 現在、打吹公園内に大江磐代君を祀った大江神社があります。(倉吉市のweb siteより)
ただし、昭和、平成と歴代天皇の倉吉行幸と大江磐代君の関係はわからない。