▲今週の三毛ちゃん
▼新しい街でもぶどう記録;第400週
■ 今週の武相境斜面
■ 今週の花
■今週の2個で100円
ヤマザキ アップルパイ。 スカスカでした。
■ 今週の いか
いかげそ
■ 今週の瀬戸内産
瀬戸内産 活〆はもの握り(梅肉)。もっさりとした食感。はもの香り、味、風味は特に感じられなかった。梅肉の味が支配的となった。
■ 今週の剥離
猫の爪
■ 先週の50年前
50年前の先週、自民党の総裁選(7/5)で田中角栄が、福田赳夫に勝ち、政権を発足(7/7)させる。田中内閣発足当日、外務大臣の大平正芳は外務省に登庁、橋本恕(wiki)中国課長に、日中国交正常化を指示した。ただし、事務次官には秘密にしろとも命令した。アジア局長、審議官、次官を排除して、大平と橋本のふたりでことを進めた(城山英巳、『マオとミカド』)。
この後、秋に訪中。国交回復。今年は50周年。祝賀行事はどうなることやら。
■ 今週のアクセスページ
ヨハンセン=吉田茂は、日帝が付けたコードネーム、CIAのものではない
■ 今週借りて読んだ本の小説
高橋たか子、『相似形』
あらすじ:主人公の私、松山明子と嫁いだ娘、伊野初子の母娘物語。初子は9歳、小学5年生の時、『理由もわからずにお母さまから疎んじられた私』となる。明子にとってその理由は初子はわかるはずもないことであった、なぜなら、明子がその理由を隠しおおすことを自分に課したからだ。その理由についての物語がこの『相似形』。疎んじられた初子は、その後、遠い大学に行き、結婚し子供を産む。子供を産んでも、その子の性別も知らせず1年3ヶ月経つ。その時点で初子は帰郷し、母親明子と孫娘が対面する。最後に母明子は娘初子に「あんたも産んだのね」と薄笑いする。
「母親」再生産の物語だ。『理由もわからずにお母さまから疎んじられた私』となる事件の時、初子は母親の顔が能面のようであると気づく。事件は家族四人(母明子、父、息子、娘初子)で海に出かけ、4人で船に乗った時に起きた。明子は自分以外の3人が幸せであると感じた時、「容貌が似ている、癖が似ている、感じ方が似ている」娘を能面の顔で凝視する。初子はいたたまれなくなり立ち上がるが、海へ転落する。すぐ助け上げられるが、事件として記憶される。
この事件が起きた原因は、2つあると『相似形』では書かれている。ひとつは、初子の「悪行」である。そして、その初子の悪行と類似の悪行を明子は自分の少女時代に起こしている。この海の事件の少し前に、自分と同類の悪行をなした娘に対し、驚愕し、疎んずるようになるのだ。
初子の「悪行」とは小学5年の初子が階段で降りる友達の足を引っかけ転倒させるばかりか、跛の少女に罪を擦り付ける。つまり、足をまわしながら歩かざるを得ない跛の少女の足が転倒した子の足を引っかけたのだと。教師は跛の少女を叱責する。一方、明子の悪行は、小学生の頃、教師の金魚鉢の水交換を友達、吉子とした。吉子はみなから粗末に扱われており明子に追従していた。金魚鉢を落として割った時、吉子が割ったことにした。教師は吉子を気絶するほど殴り倒した。
もうひとつの原因が、父、すなわち明子の夫と初子の「三角関係」である。娘、初子は父のことを敏感に察知している。すなわち、食事のときなど、父の希望を察知し、先回りして対応する。その察知の良さが母明子に察知されているのだ。もちろん、母明子は心がざわつくのだ。
さらに海の事故のあとのエピソードとして、第三者の男、菓子屋の若旦那(父の知人)に対して、明子と初子の三角関係的挙動があり、明子は初子との「相似形」を思い知らされる。
▼ 江藤淳の評
1971年に『相似形』が雑誌「文藝」に掲載された後、毎日新聞で文芸時評をやっていた江藤淳はこの作品について多くの文字、つまり紙面を使って論じている(1971年4月26日、江藤淳、『全文藝時評 上巻』に収録)。非の打ちようのない作品であると賞賛した。
(前略)今月の各誌に発表された女流の作品のうちで、秀逸なのはフレイザーのいわゆる「伝統を盲目的に斥けてはいけない」作品であって、決してその逆ではないからである。
たとえば、私は、高橋たか子氏の「相似形」(文學界)に、フレイザーのいう「聡明さ」の典型を見るように感じた。これは端正な、ほとんど間然とするところのない小説であるが、母親の血をわけた娘に対する嫌悪感を主題にしている。この嫌悪感は、性格が合わないとか、娘が自分にふさわしくないとかいうような、いわば偶然の要素からもたらされる嫌悪感ではない。娘がまさしく自分の血をうけついでいて、自分の心理が感情を先取りし、しかも「女」であることに対する、存在の深奥部にうずく嫌悪感である。
(中略)
これは、逆説的なかたちで表現された、血の持続の確認である。「未来の時間の暗黒のひろがりにわたって私が無限級数的に並んでいく」。それは「気味のわるい」ことではあるが、同時に否定しえないことである。これを、高橋氏の個性に濾過された「伝統は盲目的に受け入れられるべきものではないとしても、盲目的に斥けるべきものでもない」ことの認識といってもよかろう。その意味でもこの佳篇は、注目すべき作品と言ってよいと思う。
高橋氏の文学の新しさは、おそらく女性らしい「より自然で、より有機的な」感覚の濃密さを中心に捉えながら、その展開にあたってきわめて論理的で、知的な計算をめぐらしている点である。この点では、氏の文学は過去の日本の女流作家たちよりは、むしろレイマンやボウエンのような、あるいはウルフのような西欧の女流に近いかも知れない。あえて日本の女流作家から高橋氏の先達を求めれば、円地文子氏あたりがそれにあたるのであろうか 。
江藤は、母親の娘に対する嫌悪感が表現されることを確認しており、さらに、それは「血」のなせるわざであるという作者の意図に沿っている。この「血」こそが、「伝統は盲目的に受け入れられるべきものではないとしても、盲目的に斥けるべきものでもない」ものであるとの評価である。
▼ ミソジニー;女性嫌悪、女嫌い
今となってはこういう事象は、ミソジニー(女性嫌悪)として認識されている。特に、女のミソジニー、つまり、女が女を嫌悪するという事象である。さらには、母と娘のミソジニーの存在が認識されている。現実社会では、母娘の親子関係で悩んでいるいる人も少なくないとのこと。
女はミソジニーを母から学ぶ。母は娘の「女らしさ」を憎むことで娘に自己嫌悪を植えつけ、娘は母の満たされなさや不如意を目撃することで母を蔑むことを覚える。(上野千鶴子、『女嫌い ニッポンのミソジニー』、2010年)
▼ 自然
江藤は高橋たか子が描く母娘関係を「自然」とみなしている。高橋たか子は「自然」とはいっていないが、「血」と云っている。したがって、事実上、自然と同じ宿命的なもの/所与と捉えているのだろう。一方、高橋たか子の云う「血」は、彼女によっては、母性的なものではないという意味での象徴に用いられている。つまり、高橋たか子は、文化的に構築された「母性」というものはないと主張しているのだ。
しかし、現在の視点から見ると、子供を産み育てる異性愛家庭の再生産としての娘の「母親」化が描かれていている。つまり、異性愛というのは「自然」なものと思い込まされているが、異性愛というのは環境条件、歴史的条件で存在しうる一形態であるとの知見が広まっている。「異性愛イデオロギー」が支配する世界においては、その「異性愛イデオロギー」の再生産が必要である。そのイデオロギーの再生産における"娘の「母親」化"の過程において、「女のミソジニー」が発生するらしい。高橋たか子の『相似形』では、「女のミソジニー」があることがよく書けているのではないだろうか。
▼ 機序(メカニズム)がわからない
ミソジニーという言説がない(あるいは、流通していない)時代にしては、1971年の高橋たか子の『相似形』は、この母娘の関係の事象をよく書けているのではないか?
ただし、『相似形』の母娘の関係は、上野のいう「女のミソジニー」の例に該当するのかわからないのだが、ひとつ明瞭に相違することがある。それは、母明子が娘初子を疎んじる契機となった初子の悪行の意味である。この悪行は自らが少女の時に為した。この悪行は、二例とも、弱い立場にある少女を罪に陥れるのである。特定男性との三角関係による女性性発揮への嫌悪というわけではない。劣位の同性への悪意に満ちた攻撃なのである。この悪行の「女のミソジニー」の機序(メカニズム)での機能がわからない。同性への攻撃例、周辺同性との生存競争に基づく女性蔑視の発生ということか。
■ 今週のビンゴ;高橋たか子&佐野洋子(5歳で!)
昨年末から今年春にかけて、佐野洋子の本をたくさん借りて読んだ。その後、高橋たか子のエッセイから始めて借りて読んでいる。
高橋たか子と佐野洋子がつながった。ビンゴ! 佐野洋子は母との関係に問題があり、その母についての本、『シズコさん』を2008年に書いた。おいらは、読んだ(「埠頭を渡る家族」のその後)。佐野洋子は5歳の時に母親から手を振り払われた時から、母娘関係で軋轢が始まる。この本は母娘関係に悩む女性から共感を得たとのこと。最後は痴呆になった母親を佐野洋子が稼いだ金で施設に入れて解決したことが詳細に書かれている。母娘関係で悩んでいる女性は、母への不満を口外することができず、よくぞ書いてくれたとの感想が少なくなかったとのこと。Amazonには100件以上のレビューがついている。
上野千鶴子、『女嫌い ニッポンのミソジニー』にも、佐野洋子の『シズコさん』は紹介されている。母親が娘に嫉妬する例として。
『シズコさん』は2008年に刊行であるので、1971年の高橋たか子の母娘関係問題提起は約40年も早い。なお、上野千鶴子は高橋たか子の『相似形』には言及していない。
一方、高橋たか子は、詳細は一切明らかにしないが、母親は痴呆症になり10年間高橋たか子が介護したとのこと。ただし、実人生で母娘関係で悩んでいたとは書いていない。
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