いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

おいらの、 2-4月関心事

2015年04月12日 17時42分04秒 | その他

 


2月以来のおいらの関心事キーワードマップ;
読んだ本。ただの『』は2-4月に入手。(『』)はもっていた本の再読。

ブログは自分の忘備のために重要であると再認識。1月以降、あまりブログを書かないと、いつものように、のんべんだらりんと( 愚記事該当群 )した本読みの記録が残らない。

始まりは、2月17日の衆議院本会議での日本共産党に対し、「さすが、テロ政党」との野次事件(関連愚記事;素早い火消)。日本共産党のテロ活動といえば、白鳥事件(しらとり じけん)があったなぁ~と思いついた。札幌っ子のおいらは子供の頃から「白鳥事件」を知っていた(1970年代後半)。路上で自転車の傍らに転がっていた死体の写真は覚えている。しかし、「白鳥事件」の詳細は知らなかった。なお、子供の頃から今に至るまで、一度も他人と「白鳥」事件について話したことがない。もちろん、家でもそんな話題はでなかった。

2/17以降、まず、ネットで調べた。おおよそのことがわかった。特に、「白鳥事件」に関するラジオ番組がYouTubeにあり、聞いた(関連愚記事;素早い火消)。そして、そのラジオ番組が本になっていたと知り、買った;後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』(関連愚記事; 白鳥事件の容疑者たちのその後;後藤篤志、『亡命者』、あるいは北極熊の行方)。

白鳥事件の時代は日本共産党が武力闘争に走った時期。山村工作隊、中核自衛隊などの”地下”組織があった。後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』 は白鳥警部暗殺へと向かう前の赤ランプ事件、そして、山村工作の実態などが(必ずしも詳細ではないが)書いてある。白鳥警部射殺事件の遂行の多数が北大生であった。

ところで、そういえば、山村工作隊、中核自衛隊時代の大学生の話といえば、あるではないか!。『されど、われらが日々』(柴田翔)。おいらは、思いだし、読む。昔、はたちくらいの頃読んだ。恥ずかしいけど、正直にいうと、読ませる小説だと思う。今回、3回読んだ。でも、あまりに読みやすいが、あまりの「通俗的」「センチメンタル過剰」「あざとい」「作り話くさい」ことを否応なしに意識させられ、ぐいぐい読む自分が恥ずかしくなる。そういうお話だ。端的にいって、「中二病」の話だ。

でも、この本には日本共産党⇒山村工作隊、中核自衛隊と ばっきり (代々木方言だと= きっぱり、) 書いてある。当時は、大丈夫だったんだろうか?今でも、日本共産党は、山村工作隊や中核自衛隊などの活動は正統な手続きを経ない「反党分子」の逸脱行為であり、日本共産党中央は何ら関係ないと主張している。

でも、おとなになって、『されど、われらが日々』を読むと、日本共産党⇒山村工作隊、中核自衛隊は記号でしかないような気もする。すなわち、「カルト」に入り、裏切られた若者の生き方ということである。つまり、日本共産党⇒山村工作隊、中核自衛隊は「カルト」の記号なのだ。この視点、見方は、21世紀に入って10年以上も経って、当の日本共産党⇒山村工作隊、中核自衛隊に参加した人(大石進)が言っている;

この組織でのすべては自己判断の停止となにものかへの帰依から始まった。私は連合赤軍の諸兵士やオウムの信者諸君との帰依の対象が違うといってみずからを区別する気はない。

(愚記事;敗戦後間もない、日本共産党の中核自衛隊だの山村工作隊だの帰依の対象だったのだ。

「カルト」と「中二病」問題だ。

ということで、地下鉄サリン事件20年ということもあり(関連愚記事; 東京サリン事件20年;当時オウム信者からもらったビラ  )、村上春樹、『約束された場所で』を再読。オウム信者のインタビュー集だ。読んだが、オウム信者には、もちろん、共感しない。オウム信者がなぜオウム=カルトに向ったかの個人的履歴が書いてある。みんな、「中二病」なのだ。

いつの時代も若者の何%が「中二病」になり、そして、こじらせ、カルトに回収されるのだ。

ネットで、「中二病」⇒「ルート」を調べていたら、南直哉を知った。『日常生活のなかの禅』を読む。麻原オウムよりは”道元オウム”の方が害が少ないといったところか。でも、

【南】麻原の犯罪と思想は、分けて考える必要がありますね。彼の言説を「あれは仏教ではない」と否定することは簡単ですが、それではダメです。仏教のユニークで強力なはずの言葉が弛緩しきったところに現れたのが麻原であり、あれを超える言説を日本の仏教者はいまだに持っていません。それは認めざるをえない。

といっている(ソース)。 おとろしや! 「中二病」をこじらせた出家者。

3月は展覧会、「針生一郎と戦後美術 わが愛憎の画家たち」(仙台)[愚記事]と「金山康喜のパリ -1950年代の日本人画家たち」[愚記事]に行く。

針生一郎と戦後美術は図録が買えなくて残念(品切れ)。山下菊二を知る。戦時中は「日本の敵、米国の崩壊」を描いた山下は、戦後、共産党に入り、山村工作隊に参加したらしい。そして、針生一郎、『わが愛憎の画家たち』(1983年)を古本で買う。内容はまさに”わが愛憎の画家たち”には作家論を集めたものなのだが、おいらにとって肝心の山下菊二についての論はなかった。

針生一郎さんは日本共産党員であった。軍国青年⇒共産党、という当時珍しくはなかったであろう一青年であったのだろう。今、ネット上で、針生一郎さんは日本共産党員であり、かつ、山村工作隊に参加していたがごとき情報がある。実際はわからない。本人供述によると、就職のために日本共産党に入党したとされている。根拠::図録@おいらが買い損ねた!

針生一郎の戦後日本現代美術史を書いたとされる『戦後美術盛衰史 (1979年) 』は現在入手困難。古本にでてても高い。いつか欲しい。この針生一郎・『戦後美術盛衰史 』は、中ザワヒデキによれば、千葉成夫・『現代美術逸脱史1945-1985』、椹木野依・『日本・現代・美術』とともに、戦後日本現代美術史の先行書籍だそうだ。中ザワヒデキ、『現代美術史 日本篇 1945-2014』に書いてある。この中ザワヒデキの本を3月に買った。

椹木野依・『日本・現代・美術』は前から持っていた。今回も少し読んだ。わからない。難しい。

分からないのは戦後美術の作品を知らないからだろうとも思う。中ザワヒデキ、『現代美術史 日本篇 1945-2014』は、作品の写真がたくさん載っているので、少しはみてみよう。

千葉成夫・『現代美術逸脱史1945-1985』は高いので、いつか欲しい。

今のおいらの印象は、確かに美術作品はその時代(それまでのいきさつ[歴史]と社会)の産物だろうけど、美術作品を人文主義的歴史あるいは社会科学的歴史を理解するための確たる証拠・意味するものとして扱うことには懐疑的。

金山康喜。1950年代のパリ派。針生一郎とは同時代の人だ。年はひとつ違い。金山康喜は猪熊弦一郎の弟子と知る。金山康喜も猪熊弦一郎も、通俗的な画調のせいか、おいらは大好きだ。

今、おいらは戦後日本現代美術史を勉強中なのでよくわからないのだが、金山らはノンポリ派なんだろうか?でも、猪熊弦一郎は戦時中は従軍して戦争画を描いていたらしい(web リンク)。なので、戦争画についてももっと知りたい。手始めにこれが欲しいが、これまた、高い;『戦争と美術1937‐1945』(椹木野依、針生一郎ら)[Amazon]

■ なので今週末は、お手頃値段の田淵 安一 『西の眼 東の眼』 (Amazon)を買った。田淵 安一とは、1951年に金山康喜とともに、パリに行った画家。


新しい街でもぶどう記録;第24週目

2015年04月11日 19時14分37秒 | 草花野菜

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の看猫

■ 今週の 越冬したもの

連想愚記事⇒ なつかしのとっとくポイント

■ 今週の南の島、あるいは、親の尻拭い 

「英霊」の御霊が数百万柱増えたのである。八百万(やおよろず)のカミガミも一気に千万超えである。ひろひとさんは、歴代すめろぎでいちばん、屍を築いた すめろぎ さんである。 愚記事);


画像パクリ元

関連愚記事;
・ わたしがスメロギになっても 、♪~♪~ 夏休みには二人してサイパンへ行ったわ~♪~
・  (血塗られない原初状況)

■ 今週 みて、笑った 大まつがい、 あるいは、高尚なネタなのか? 幕ノ内サディスティックス!

 

YouTube: 東京事変 - 幕ノ内サディスティック

愚ブログに現れたる "幕の内" サディスティックス

■ 今週の サラブレッド バカサヨ @ 日帝嫡子系 


「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長したかも」 絵本作家の松本春野さん

いわさきちひろ [⇒ google画像] (1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡る) の孫で松本さんってということは、善明 (海軍兵学校; 愚記事:もらったはずだよ、手切れ金 日帝の手切れ金) の孫娘ってことか...

原発事故を「出汁」にして、絵本作製。 おばかだったんだな。 それを、殊勝にも、反省したってことか???

この報道の意味がよく分からない。

何より、読者の方々におかれてましては、なぜ?松本春野??? と、お思いのことかと存ずる。

松本春野さんって、赤と黒の混濁の典型=ぬっぽんの実のところの"エリート"の子孫、ではないかと、おもう。 発見したので、報告した。

東アジア太子党の絵本担当を目指す?!

■ 今週の「なぜノーベル賞?」


https://twitter.com/ihayoichi/status/586187816779948032

ノーベル賞作家という冠をつける理由が、いやらしい権威主義で気持ちわるい。 「毛沢東に会って感激した」大江健三郎、でいいではないか。

 

ネオナチがいけないなら毛沢東と写真撮ったやつなんかどうなるんだ出典

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芝居のような史実;その伝承経路:大奥大量解雇事件の例

2015年04月08日 22時56分37秒 | その他

歴史を題材に小説や劇をつくるとき、あまりに芝居ががった筋書などはさけられるだろう。なぜなら、あざといからである。でも、それが史実ならしばしば時代劇の定番シーンになる。

かつて愚記事(佐幕タンは語りうるか)に書いた;

■例えば、秀吉とおねの結婚の儀礼が足軽長屋でむしろをひいて質素に(貧相に?)行われたことは現在の通俗劇に不可欠な場面であるが、その根拠はおねが晩年、高台院として落飾しての隠居生活で侍女に語ったことをその侍女が伝え今日のわれわれが知ることができるのである。

■はたまた、政宗の小田原参陣で、秀吉から政宗の首を指揮棒でつつかれたか、叩かれたかした時、つまり、これまた現在の通俗劇に不可欠なあの場面におい て、まるで熱湯を首にかけられたような感じを政宗はしたと現在のわれわれは知ることが出来るのであるが、これまたこれも政宗が晩年に小姓に語ったことの伝 聞なのである。

これほどではないが、江戸時代、八代将軍吉宗の時代に大奥の美女大量解雇事件というのがある。 おいらは一度NHKの大河ドラマでみた記憶があった。最近、それが YouTubeでみれるとわかった(海賊版なんだろうけど)。それは、八代将軍吉宗 第26話、美女お断り、なのだ。

  
          それとは知らずエントリーに励む大奥女中

(前略)面白いエピソードがある。吉宗が周りの役人に命じた指令の一つに、大奥の女性の中から容姿端麗な者を書き上げよというものがあった。係りの役人が美女五十数名を書き上げて差し出したところ、吉宗は早速に、これらの者たちに暇を遣わせたというのである。
 つまりは大奥の経費節減なのであり、美女の者ならば大奥から解雇しても、売れ口には心配いらないであろうという意味のものであった。
 これはまるで御芝居のような話でもあるのだが、やはり事実なのである。吉宗の侍講である室鳩巣が、享保五年十一月二十九日付で弟子の青地礼幹たちにおくった書状の中に、このことが記されているのである。 (笠谷和比古、『徳川吉宗』)

八代将軍吉宗の時代に大奥の美女大量解雇事件は「徳川実記」にでているわけでもなく、こういう当時の人の伝聞に記録されているのだ。

  ⇒室 鳩巣(むろ きゅうそう) Wikipedia

■ このドラマには土屋政も出てる。YouTubeで(約)20年ぶりでみた。

そうしたら、おいらが昔みたはずのNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」でのこの場面にも、土屋政直がいたらしい。土屋政直を演じていたのが、名古屋章とのこと。 (愚記事; 土浦城


 

 


仙台川内大工町段丘崖;あるいは、子供ながらに魅せられた陥落街

2015年04月05日 20時44分11秒 | 仙台・竹雀・政宗

30年経ってわかった「意味」。

今夜もどうでもよい些細なことです。自分のための記録です。


←東   西→

下の地図の左側の「宮城県仙台二高」と書いてある付近です。上の画像の右手の建物が「仙台二高」です。

この「通り」、画像に向かって左が低地です。


←西   東→


最上画像の通りから、ある建物を撮影。この建物崖に接して立っています。根が生えています。

仙台二高の東側の通り(最上画像)の東側に急な階段があります。
30年前は特に気にしていなかったが、これは段丘崖なのだ。


画像の左が仙台二高。画像が平面的で高低差は読み取りずらいが仙台二高の右の通りが最上の画像の通り。この画像の右側が下町段丘の低地。


赤丸が上画像の段丘崖。①が下町段丘、②が中町段丘。仙台二高は中町段丘にある。


web 上 http://www.hirosegawa-net.com/kids/tokutyou_kinou/zu_1.html より

なお、今このあたりの一戸建ての価格;

 

あ~、おいらは、住めないんだなぁ、と気づく。

wikipedia)に書いてある; 「西側の下町段丘には庶民的な下町の川内大工町があり、[強調、いか@]」...。 庶民的な街には住みたいなら、4000万円、用意せよ!

■ 子供ながらに魅せられた陥落街; 仙台第二高校・南地区を初めて知った。

1999年に出版された浅野裕一、『儒教 ルサンチマンの宗教』の冒頭に書いてある;

 高校時代、たまに学校の図書館で勉強したことがある。建物はPX(酒保)と思しき進駐軍の遺物で、正面の入口から左右両翼に分かれており、右側が図書閲覧室であった。おそらくホールに使われていたのであろう、その大きな部屋の東南の隅には、バンドが陣取ったらしい棚田風のステージがあった。

その浅野裕一さんの経歴を見ると、1946年仙台生まれ。東北大学文学部卒業、 とある。

これらをみて(1999年頃)おいらは、 (仙台での[今から思えば、いたいけ牧歌的]修行を経て、しかも、もっと苛酷な山陰での下放時代の修行、そして、カナダでの修行を経て)、 この浅野さんの高校とはどこなんだろう?とおもった。仙台生まれで東北大学に行くなら仙台一高か仙台二高である可能性が高い。そして、仙台二高がある川内は敗戦後占領軍が進駐した。占領軍がこの地に進駐した理由は大日本帝国陸軍の第二師団の駐屯地だったからだ。こういう状況なら、この浅野さんが「進駐軍の遺物」をみたのは仙台二高の可能性が高いはずと、1999年頃においらは、当時いた筑波山麓で、考えた。

でも、そんなはずはない、とも思った。なぜなら、仙台二高(敗戦時は仙台二中)の裏に、昭和最末期、住んだことがあるおいらは、仙台二高(敗戦時は仙台二中)の敷地は、旧陸軍第二師団の敷地ではないと知っていた。さらに、おいらが仙台に来た1980年代半(なかば)には、仙台二高の敷地周辺には off-limits boundary (占領軍による立入禁止境界) 的遺物はなかったからである。謎であった。(この考えの背景は少し説明しないといけない。昭和末期、中曽根自民党が300議席取って、戦後政治の総決算!と勢いずいていた時代、仙台川内(奥の方)にはまだ米軍のカマボコ兵舎が残っていたのだ。)

という全然深刻でない疑問を長年持っていた。

そして、こないだ知った。ネットで知った。なんのことはない、仙台二高には通りを挟んで南地区というのがあり、その南地区が占領軍の施設だったのだ。この本校舎との間の通りが off-limits boundary (立入禁止境界)だったのだ。つまり、敗戦後、仙台二高はその地で通常営業したようだ。つまり、占領軍の向かいで営業していたのだ [1]。

現在の南側の校地は、戦後の占領下に進駐軍キャンプとして利用され、米兵とその家族用の50mプールや幼児プール(15m×15m)が設置された。進駐軍撤収後は同校のプールとなり、西公園プールが完成するまでは宮城県下唯一の50mプールとして県下の水泳大会の会場として利用された。また、幼児プールは地域の子供に開放された。 (wiki 宮城県仙台第二高等学校

[1] だから、遠いアメリカは変だぞ。隣のアメリカだろう、という話はこちら:常盤新平は仙台第二高等学校(この時代ならまだ旧制かもしれない;旧制仙台二中)に通学していたのだから、

 
   西を向いて撮影
仙台二高前交差点。おいらが立って撮影している「象限」(第四象限)だけが非occupied Japan地域で、この画像に写っていない「第三象限」が仙台二高・南地区とのこと。今月知った。

 
  画像左が西
青丸が撮影位置。赤線が off-limits。赤矢印方向が占領軍占拠地域。

ネットで調べると、占領時代の off-limits についての情報があった;

幼いころの細い記憶を辿ると
 
ある風景が浮かびあがって来ます。

白い詰所?

 (ボスの記憶の中では 事務所・・と言うよりむしろ白いボックス)

その 小さい箱詰所の外に立つ

白ヘルメットの大きな外人さん。

そこで

用紙に何かを書き込んでいる母の横顔。

この風景が今回の思い出。  (ブログ: サクラっぴーinわたり 様 、記事: 進駐軍が居た頃(幼少時の思い出

そして、書いてあった;

当時 一般の日本人がそこ(米軍キャンプ内)を通過するとか 入るには

書類に必要事項を記入して許可を取る必要があったようです。

この記憶にあるMPボックスは 中の瀬橋を渡って

二高を右に見て道路を渡ったすぐ、

今の県美術館前あたりだった気がいたします。

今の県美術館前あたりだった気がいたします。⇒ ここだ ↓ !

 
愚記事: 仙台参り 【2015】 宮城県立美術館

 約60年前にMPのポリボックスがあった場所で、山下菊二の戦時中の作品『人道の敵米国の崩壊』のち『日本の敵米国の崩壊』に改題、そして、敗戦後の「山村工作隊」経験色濃い『あけぼの村物語』が展示された。

 

■ まとめ

1.「歴史」が抹殺されそうな「場所」で、歴史を考えてみた。

2.そして、おいらが立って撮影している「象限」(第四象限)だけが非接収地帯、

すなわち、

基地外、ということだ!

ようこそ、キチガイブログへ!

おそるべし、敗戦国・ぬっぽん!

3.山下菊二の『日本の敵米国の崩壊』、『あけぼの村物語』など展示された『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』  は、レコンキスタ (失地回復闘争) [wiki]であったと気づく。

 

 

 


新しい街でもぶどう記録;第23週目

2015年04月04日 14時36分39秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫


最近、外に出ることを覚えてしまったみけちゃん。

■ 今週の恥さらし

 

愚ブログの4/1の記事のタイトルで間違いを晒していた。 誰だよ、永井陽一郎って、

■ 今週の草木; 4枚そろった (????)




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猿谷要と永井陽之助の間に何があったのか?あるいは、後ろから前から、針生一郎;米中両刀使い

2015年04月01日 19時34分03秒 | 日本事情

(ネット上で全く疑問視されない些細な疑問 [どころか地球上で誰も言及しない疑問] を思いついた)

3月に仙台に行って宮城県立美術館で開催されていた「我が愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術」を見に行った(愚記事)。

その展示の冒頭、針生一郎の生い立ちの説明文に、第二高等学校で永井陽之助と 猿谷要 と一緒だったと書いてあった。

もちろん、何事にも無知なおいらが、針生一郎と猿谷要が関係があったとは知る由もなかった。

(ここで、おいらが、内心、驚愕したのは、猿谷要が出て来たことだ。 猿谷要。 知っている。まさか、仙台にいたとは全く知らなかったが。 猿谷要=アメリカ学者。 アメリカ! おいらが、一番、「直視」したくないものである!!! [アメリカが嫌いですか?: 愚ブログ記事群] 、・ アメリカが嫌いですか?(google) [関連愚記事;アメリカが嫌いですか:ダイエー論北米出張20] という問いには、  元気よく、「ハイ! 嫌いです」と答えるおいらは)

一方、針生一郎が永井陽之助と一緒だったのは知っていた。というか、永井陽之助経由でおいらは針生一郎を知ったのだ。その針生一郎を知ったのは、1985年の『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)という30人あまりの永井と交友のある"著名"学者(ほとんどが保守系・穏健の有名だが普通の=全然危険でない学者)の寄与小論文から構成された624ページの本であった。永井が東工大を退官する記念の、退官論文集みたいものだ。ただ、永井陽之助は世間に著名なので、文藝春秋社が商品として出したのだ。針生一郎が寄稿したのは、第二高等学校で一緒だったからだ。

そして、気づいた。この『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)には、猿谷要の寄稿がないのである。

猿谷要といえばアメリカ学者であり、永井陽之助もアメリカで修行したのであるから、二人は、境遇は似ているし、政治学-人文社会学的領域という共通の土俵の当時の著名学者である。 その猿谷要が、寄稿していない。 もちろん、1985年当時、猿谷要は存命。

猿谷要 wiki

なお、今となっては、知られることになったが、永井陽之助と江藤淳の関係も一触即発状態だったとのこと。

・  吉田教授と江藤教授が犬猿の仲であることは、はじめから知っていた。これは保守本流同士の確執である。一方、永井(陽之助)教授と江藤教授の折り合いの 悪さも半端ではなかった。江藤教授を口説いて連れてきたのは永井教授だが、文学が専門だったはずの江藤教授が領空侵犯して、政治問題に口を出すようになっ て以来、衝突を繰り返していた。 (今野浩、『すべて僕に任せてください―東工大モーレツ天才助教授の悲劇』;)[愚記事]

そんな江藤淳も『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)には、大人らしさを失うことなく、きちんと、寄稿している。

と、いうことは;

猿谷要と永井陽之郎の間に何があったのか?

  話は変わる;

■ 後ろから前から、針生一郎;米中両刀使い

現在ぬっぽん、そしてこの先半世紀余りの、われらがぬっぽんの外交的・戦略的課題は、米国・中国とどう切り結んでいくか?である。

関連愚記事;
米国は中国と戦争する気はない。日中開戦こそ日米同盟の破綻
・ 米中に挟撃され没落する日本中産階級   

前門の虎、後門の狼、に他ならない。 絶体絶命で、わくわくどくどき、である。

沖縄を踏みにじり日米が戦争をしたと同様のことが、この先この日本列島で、米中戦争という形で出来するだろ う。そして、日帝陸海軍が現地琉球/沖縄人を殺したように、将来起こる米中戦争では、在日米軍は日本現地人を、作戦上やむを得ずといことで、殺すことにな るだろう。もっとも、そんなことより中国軍にぬっぽんずんはたくさん殺されるだろうが。 (愚記事

 さて、針生一郎が1973年に中国の文化大革命を「礼賛」した。

それにしても、わたしは中国革命の原点である 延安を訪れて、抗日戦争のさなかに、この奥地でなしとげられた事業にほとんど圧倒された。一見退却ともみえる二年余の大長征を経て、八路軍がここにたどり ついたのち、党と軍の根本的な再建をはじめ、開墾、農・工生産、解放区の自治、大衆工作、学習など、すべてが統一的におこなわれたのである。ハン・スーイ ンの『毛沢東』によれば、中国革命は五・四運動以来、文化革命の性格をもっていたというが、延安時代には、今日にいたるすべての問題の原型がすでにふくま れていたのである。「文芸講話」の「文芸」が、文学や芸術だけでなく、歌舞、演劇、祭りなどをふくめた大衆工作の意味であることも、今度わたしははじめて 知った。(針生一郎、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』、「われわれにとって文化大革命とは何か」) [愚記事]

針生一郎さんをよく知らないおいらは、針生一郎はバカサヨかと思った。 しかも、敗戦時まで"右翼"。

でも、事情は、少し違った。 1973年に文革中国に行く前に、1968年にアメリカに行っていたのだ。しかも、1か月。さらには、それはアメリカ国務省の「招待」なのだ。

そして、その経緯と理由が、面白い。 1960年代は米中の他に、ソ連がいたのだ。

針生一郎、ソ連の悪口を言って、アメリカ国務省からスカウトされ①、ソ連の悪口を言って=日本での新左翼だから、文革中国に招かれた②のだ。

① 

針生:ふーん。日ソ文学シンポジウムで僕が日本側の基調報告をやるために、ソビエト、東欧に初めて行ったんです。それが65年のこと。その時に雑誌 に書いた論文が、非常にソビエト、東欧について批判的というか、「制度となった社会主義よりも、資本主義社会の中で社会主義を求めている我々のほうがはる かに純粋だし思想が深い」というようなことを書いたものだから、当時アメリカ大使館の文化アタッシェだったニコルズという人が「いやいや、あなたの書いた ものはおもしろかった。あなたのような人がアメリカへ行けばいいんだが」と言うから「私も行きたいんだ」と言った。国務省招待でしか(アメリカには)入れ そうもないから、国務省招待でニコルズが呼んでくれるって言うんだけど、アメリカ大使館というのは我々が書いたものを全部ファイルしているから、下っ端が 反対した。最後の最後に国務省派遣でかつて日本に来たグリーンバーグが「針生なら是非国務省招待で呼べ」という手紙を寄越してやっと実現したわけ。だから 僕はニューヨークでお礼の意味もあってグリーンバーグの家を訪ねた。そうしたら、ユダヤ人マフィアの親玉みたいな感じで、ユダヤ人の美術家が引きも切らず いろいろ訪ねてきて。それにいろいろ指示をしたり世話をしたりしていて、「いや、こうはなりたくないもんだ」と僕は思った。それいっぺんだけで行かないん だけども。

加治屋:グリーンバーグが針生さんを推薦したのはどういう理由なんでしょうか。

針生:日本で社会主義や原爆のことまで話せたのは僕だけだという意味ですよ。

針生一郎オーラル・ヒストリー 2009年2月28日

② 買えなかった図録に書いてあった。 角栄の日中国交回復後、中国共産党は新左翼系を指名し、文革時中国に招待。

まとめ; 針生一郎の属性のひとつは、正統的ボルシェキズムへの異端性である。彼自身、一時は、日本共産党の党員であったが、事実上、追放されている。

中国とアメリカが異端であったという、今では信じられない時代のことだ...。

↓ こういう時代だ; (愚記事; ユートピアを求めて